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(2009年 1,2月 新春特別号)

樋口一葉 ―日本初の売文で生きた女流作家―
(【改訂版】 5千円札になった樋口一葉 -明治の格差社会から生まれた一葉文学-)
一葉に惹かれる理由は何なのでしょうか。書かれた文章の魅力、その主人公が一葉の分身的なものを感じる私小説だからでしょうか。その生涯がはかなく苦労の連続だったからでしょうか。
実際の体験したことから書かれた庶民の地に足がついた内容からでしょうか、書かれた日記などに見られる、観察の鋭い人(男性)の見方、人を逸らさない話術、いつも地味な着物しか来ていない、切れない若い一葉、萩の舎やいろいろな人との交流、龍泉寺での経験などから人によって態度を変える知恵が若くして身に付いた才能、どの小説を見ても、最初の出だしの素晴らしさ、一葉に悪く書かれた文学界の男性は一葉が認めながらも男性として好きになれないことはわかるが、一葉にとっては、それまでの人だったとしか思えない人であった(これは見た目の問題でない)。やはり若いだけに、個人的で女性的な見方が有るのかも知れません。日記は素晴らしい文学的な価値があるようです。蜻蛉日記と王朝日記〈更級日記・和泉式部日記・土佐日記〉など日記文学の伝統があります。これらはみな読まれることを意識して書いたようですが、一葉は読まれることの無いように、妹邦子に焼き捨てるように命じています。しかし、読んでいると大変面白い。一葉の立派な作品になっています。やはり意識していたのかな?

彼女の生きた短い人生の中で経験した人には、普通の二十歳の明治の女性の人生以上に多くの経験をしているからです。真の心を見抜く力を備えた人です。最高傑作「たけくらべ」は日本文学始まって以来の、子供たちを主人公にした童話、大人が郷愁を感じる大人の童話です。これだけでも一葉の名は残るでしょうー我は女なり。

いかにおもへることありともそは世に行ふぺき事かあらぬかー
「二十三歳の一葉;おもいたつことあり、うたふらく、すきかへす人こそなけれ敷島のうたのあらす田あれにしを、いでやあれにしは敷島のうた斗か。道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまならんとすらん。かひなき女子の、何事を思ひ立たりとも及ぶまじきをしれど、われ一日の安きをむさぼりて、百世の憂を念とせざるものならず・・・・わがこころざしは国家の大本にあり」。
世のくだれるを嘆きて、ここに一道の光をおこさんとこころざす

この気概が晩年の作品に投影されていった。この考えが背景にあり、ただの金銭的な売文行為だけでは、人々のこころを打つ作品を作り得なかっただろうし(作品は最後まで手直ししてなかなか編集者に渡さず、妹邦子が奪い取るように編集者に渡した)、これだけ多くの研究者が一葉を研究しえなかっただろう。

現在の女性が二十歳から二十五歳までにこのような仕事をなしえるでしょうか。しかも男女同権という社会?で。一葉が送った短い生涯もまた魅力の一つです。龍泉寺(大音寺前)の苦しい生活がなかったなら今の一葉はなかっただろうと言われています。

作品は一葉の生きざまに密接した作品を生み出しているからである。幸せな一葉なら今、このように名を残す作品はなかっただろから、一葉の一生は、惜しまれながら亡くなった。しかし、誰しももう少し生きていてくれたらもっと新たな境地の作品が出来上がったのではないかと悔やまれます。

一葉の生きたほんの数年間(4年ぐらい)、がどれほど多くの研究者が一葉を調べて研究し、博士論文になるとは当時は考えられなかっただろう。これだけの多くの研究書が存在することに驚きを感じます。

最後に花開き文学界の人たちとの交流から、色々な独学で得られなかった知識を吸収していったが、明治の因習に縛られた女戸主(十九歳)で一家の生活を一手に担わなくてはならなくなった。一葉に残されたのは今までの古典の知識を持って、小説で生計を立てることだった。

一葉は地の文を雅文、会話は俗文で書く雅俗折衷体であった。王朝文学に親しんだ一葉は、日本の古典に造詣が深く、一般の人々には馴染が薄かった。また平安時代から鎌倉時代の仏教の精神は、こころ、を問題にして、いかに悟りを得られるか、我が身を省みてその精神の至らなさを恥じる現在名を残している有名な仏教者達が語るのは如何に私は悟りに至らないか、ということを自覚していることです。一葉も絶賛を浴びても文学界の人たちからの称賛も、いま一つ浮足立つことがなかったのは深く仏教精神的な自覚があったのではないかと思われます。

女ゆえに持て囃されることに一歩引かざるを得ない一葉はもはや、文学界の人たちより悟りの境地に至っていたようです。一葉の二十歳から死ぬまでの短い期間に一葉は鴨長明、道元、親鸞などの先達に共鳴する境地の中に死んでいった。ただ唯一の名シーンは一葉の雪の日の桃水の家からの帰宅に、人力車から御高祖頭巾で帰宅したシーンは絵になります。一葉の数少ない幸せな一時です。

ものつつみの君、ひが者といわれ金銭に追われる人生を送り、生涯一度も両親の故郷に帰ることなく、東京に生まれて東京の極限られた地域で生きた一葉の人生に思いをはせてみようと思います。

日々にうつり行こころの、哀れいつの時にか誠のさとりを得て、古潭の水の月をうかべるごとならんとすらん。愚かなるこころのならひ、時にしたがひ、ことに移りて、かなしきは一筋にかなしく、をかしきは一筋にをかしく、こしかたをわすれ、行末をおもおもはで、身をふるまふらん、人はおそるらむ死といふことをも、唯風の前の塵とあきらめて、山桜ちるをことはりとおす。ひとへにおもへば、其いにしへのかしこき人々も、此願ひにほかならじ。さる物から、おもふままを行なひて、おもひのままに世を経んとするは、大凡人の願ふ処なめれど、さも成りがたきことなれば、人々身屈し、、ことをはばかりて、こころは悟らんとしつつ、身は迷ひのうちに終わらんよ。あわれかなしやな。虚無のうきよに君もなし、臣もなし、君とうふ、そもそも偽也、臣といふも、又偽也。いつわりといへども、こえありてはじめて人道さだまる。無中有を生じて、ここに一道のあきらかなるものあれば、人中に事をなさんとくはだつるものか、かならず人道に寄らざるべからず。天地ことごとくのみ尽して、有無両端をたなぞこににぎりたりとも、行わざる誠は、人みるによしなし。」(塵の中)

桃水はもっと俗調に書くようにと指示したが、一葉は大衆受けの小説を書く気になれなかった。

一葉の生涯をある程度知っていないと以下の分かり難い断片的な話がよく分からないので、というわけで各下記サイトを参考にしてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E4%B8%80%E8%91%89
http://homepage3.nifty.com/namm/index5.htm
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/higutiitiyou.htm

一葉を詳しく知ったのは、昭和40年代前半でした。名前は以前から知っていましたが、深夜ラジオから流れてきた、塩田良平先生の「樋口一葉」の話に、寝ている真っ暗な部屋で聞き入ってしまいました。

塩田先生の渋い声、朗々と読み上げられる一葉のリズミカルな文章、一葉への哀切がこもった塩田先生の講義、その夜のできごとは、いつか、樋口一葉を読みこなし、味わって見たいと思うようになりました。最初、旺文社提供の受験放送かと勘違いして最初の方は耳もらしたのが今でも残念です。

一葉の文は当時歯が立ちませんでしたが「人物叢書50 樋口一葉 塩田良平著 吉川弘文館」を手に入れました。あのとき「樋口一葉研究 塩田良平 中央公論社」と「樋口一葉 和田芳恵 角川書店、一葉の日記も」購入しておけばよかったと今になっては思いますが、当時は塩田先生の本によって、いとおしく書かれた一葉の生涯に塩田先生の愛情を感じ、その文章からも一葉が大好きになりました。

色々資料を調べると、一葉ほど詳しく調べ上げられている作家はいないのではないかと言うほど資料が豊富です。和田芳恵編集新世社昭和十七年四月十五日発行二円五十銭には各界の一葉縁の人の一葉論が出ていて大変興味深い本でした。

圧巻は樋口一葉研究 増補改訂版 塩田良平著中央公論社昭和三十一年十月二十七日発行はすべてが記載されている。それをさらに補うかのような本が樋口一葉の世界 前田愛著作集第三巻筑波書房1989年九月三十日発行です。

それから、井上ひさし氏の「頭痛肩こり樋口一葉」、瀬戸内寂静「私の桶口一葉」。そういえば一葉は肩こりが、下にくだり肺臓を冒すといわれたくだりや、頭痛に苦しんでいた最晩年のことを思いおこしました。

瀬戸内寂静さんの「炎凍る 樋口一葉の恋」小学館を読むと、塩田良平先生の一葉と異なる、寂静さんらしい一葉の見方が書かれていた。人間一葉の確信に迫っていく感じがありました。森まゆみさん、NHKラジオ明治文学を読む、樋口一葉―(われは女なりけるものを)ー菅聡子(お茶の水女子大)などを聞きました。
鏑木清方画「一葉女史の墓」“たけくらべ”の主人公美登里が一葉の墓を訪れている。
               …(明治35年作)

一葉の命日は11月23日「あと一、二年生きていてくれたら」と清方が残念がった一葉の死でした。ようやく挿絵画家として名が出始めた時であり、一葉フアンの清方としては「一葉女史の墓」「にごりえ」「たけくらべの美登利」「一葉」と、多く作品に思いを込め、特に「一葉女史の墓には私の全てがある」というほどの入魂の作品となりました。

一葉女史文学碑賛助人の中に清方の名があります。清方が文学青年だった頃、樋口一葉の熱心なファンでした。一葉が発表した作品を朝夕観音経のように読誦するほどでした。
一葉が二十四歳で亡くなったとき、清方は十九歳。清方は地方新聞にぼちぼち挿し絵を描くようになっていましたが、駆出し時代でまだ一葉と面識はありませんでした。ただ、博文館の「日用百科全書」の一冊に一葉が書いた『女子書簡文』の中のコマ絵を描いていましたので、一葉が一、二年長生きしていたならば、会う機会もあったろうと残念がっています。

当時築地本願寺にあった樋口家の墓に一葉も葬られました。清方は墓前に香華を手向けることもありました。一葉が死んで七回忌にあたる明治三十五年に、『たけくらべ』の美登利が水仙の造り花を手にして、一葉の墓によりかかっている幻影を描き、第五回烏合会展に出品しました。これが「一葉女史の墓」です。

実際の一葉に一番似ていると言われる写真

「一葉」のペンネームを使いはじめたのは明治24年(19歳)秋頃からで、発表された作品では小説「闇桜」の時からです。一葉の名の由来で一般的に知られているのは、達磨が一葉の葦舟に乗って長江を渡る絵からのヒントと、達磨が少林寺の壁に向かい九年座るうちに足がなくなったという面壁九年の故事をあわせて、日々の暮らしに困っている自分には「お銭(おあし)がない」というシャレから、「一葉」という名を思いついたという話です。一葉が達磨の故事と関連づけて語ったのは、あとからのようです。

それとは別に、一葉は歌塾に入る前から蘇東坡の詩「前赤壁賦」を暗誦していましたが、その中には「駕一葉之扁舟」の一節があり、また小説習作の余白に「一葉舟士」の書き込みがあることや、未完成作品に「棚なし小舟」があり、他の作品や日記にも舟や浮き草のイメージを繰り返し描いています。

一葉は明治五年三月二十五日生まれで同二十九年十一月二十三日に亡くなった。二十五年の生涯だったが、明治の文学史に残る仕事を残した。六歳から十歳まで本郷六丁目の家から五丁目の吉川という元僧であった人が私塾を開いていたところで漢学を習った。次いで池の端の青海学校という私学に入る。そこの先生も孔子好きで、十二歳まで儒学の雰囲気の中で過ごす。十二歳から三年間、八丁堀の和田重雄という歌人に和歌を学び、十五歳で中島歌子の歌塾に入る。以後は独学である。

最初は半井桃水の「武蔵野」にだした、「闇桜」「玉欅」、中島歌子の尽力による「埋木」金港堂、明治二十五年に七編、二十六年に二編、二十七年に三篇、二十八年に十一編、二十九年に一篇。一葉の傑作は二十七年八月に出来たものです。

一葉の初期の作品、二十五年の「闇桜」のお千代、「五月雨」のお八重、「玉欅」の中の糸子、「埋もれ木」のお蝶、「五月雨」の杉原三郎などは一葉の当時の心情を表わす主人公たちです。だが二年たった後、この幼いような抒情的な作風から脱し、人生に向かっていく。人間的に苦労して成長した力強さと控えめで、叙情的な資質があいまって、「にごりえ」のお力、「たけくらべ」のみどり、「わかれ道」のお京、「大つごもり」のお峯などは、一葉のこころの発達をみます。減じ物語、西鶴、元禄文学と影響を受けているが一番影響を受けたのは「源氏物語」であろう。「裏紫」で新境地を開きつつあったときの死である。もう少し生きていてくれたら一葉の新たな一面が開花していたかと思うと、残念である。

一葉が萩の舎に入ったとき、清風徐来水波不起 そうすると、夏子が其の赤壁之賦のあとの句をペラペラ読んで・・・知っていてもペラペラ知識をひけらかすと生意気と思われてしまいます。
宋の元豊五年(1082)秋七月十六日夜、蘇東坡が月明に乗じて舟遊びして、三国の英雄曹操や周瑜の風流を偲び、自分がはかない流人の身の上であることを嘆き、無限な生命の前では古人も我も何等選ぶところが無い、儚いものであり、萬物同一であることを悟り、明月と江上の清風とを楽しみ憂いを忘れたと言う感慨を述べた名文。後赤壁賦に対し前赤壁賦がある。

一葉は漢文を習っていて、諳んじていた。
立っては、武家の娘として育ち、そのような躾を受けたために、あらわにしたのは、萩の舎に入ったばかりの時に、お皿の書かれた漢文の上の文字を誰かが読んだ後の書かれていない部分を歌い上げて、生意気と見られて、いじめにあったという下りなど清少納言タイプですが、その出来事以来、表立っては得意げに知識を出すことをしていない。内に秘めるものは激しかったのは父則義譲りではないかと感じるが、他の兄弟姉妹、母にはこのような気概が薄いように感じる。妹は一葉死後大変な活躍で、一葉の文学的資料を保存して一葉の名を残すことに尽力した。一家で妹邦子のみが一葉の才能を目の当たりにしている。

一葉は早くから、零落し転居を繰り返す自分の人生を、彷徨し行く手を阻まれる<漂う舟>のイメージと重ね合わせていました。一葉は晩年の病床で「身はもと江湖の一扁舟、みづから一葉となのつて葦の葉のあやふきをしる」と雑記に書き込んでいます。流転する舟の意識は一葉の生涯を貫いていましたから、これが筆名の発想になったと考えるのが最も妥当ではないかと思われます。

生涯に22編の小説、日記などの作品を24歳で書き終えた。それは明治の一葉の身に起こった境遇を糧とした内容を小説にしている。漱石が自身のこころをえがいたように、一葉も古典的な日本の伝統を基礎にして、一葉の明治の女性の置かれている世界を書き綴って早世していった。
一葉記念館資料
http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/
「一葉像」 羽石光志 画
一葉の文体は雅俗折衷体と言われるもので、中古の和文と西鶴の俗文とを混ぜ合わせたのが骨格です。そこえ中古の雅語と近代の俗語と、明治の語彙を加えて、さらに明治の女性感覚をふりかけ、おまけに言文一致体の意識をチラッと投影させた。以上の総体が一葉の文体である。明治までの我が国の文章のよいところを集約したものである。(井上ひさし、前田愛対談)

色々一葉のことをズルズル引きずりながら、月日が経ち、塩田良平先生のラジオでの名講義から30年以上経ったときに、いつの間にか、5千円のお札の顔に一葉が乗っているではありませんか。ここであの時誓った一葉をもう一度読んでみようと思うと同時にお札のいきさつも知ってみようと、過去のお札の顔も調べました。

「紙幣の歴史」によると、お札に女性の肖像が使われるのは明治10年代の10円札に神功皇后(じんぐうこうごう=記紀所伝の第14代仲哀【ちゅうあい】天皇の皇后。気長足姫【息長帯比売=おきながたらしひめ】の漢風諡号【しごう】。天皇の死後、新羅【しらぎ】に出陣、凱旋【がいせん】の後、筑紫の地で第15代応神天皇【おうじんてんのう】を出産、69年間摂政をつとめたといわれている)更に紫式部、樋口一葉の三人である。 和気清麻呂(栂尾山神護寺を建立したのが和気清麻呂)の子孫と言われる、半井桃水、一葉の父が夏目漱石の父の部下で、漱石の兄に一葉が嫁ぐ話もあった。

神功皇后
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E
かつて、明治時代に改造紙幣という政府紙幣にその肖像が用いられ、これが日本における最初の女性肖像紙幣となったが、その原版はイタリア人技術者エドアルド・キヨッソーネが作成したため、西洋風の美人に描かれている。なお、日本銀行発足以前の事であるためこの紙幣は日本銀行券ではなく、大日本帝国政府紙幣で不換紙幣であった。

菅原道真
武内宿禰命(たけうちすくねのみこと)
http://www.kamimoude.org/jinjya/souraku-distr/seika-cho/se-takeuchi/index.html
和気清麻呂 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97%E6%B8%85%E9%BA%BB%E5%91%82
藤原鎌足 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%8E%8C%E8%B6%B3
聖徳太子
日本武尊
二宮尊徳
高橋是清
岩倉具視
板垣退助
伊藤博文
福沢諭吉
新渡戸稲造
夏目漱石
紫式部
野口英世
樋口一葉


新五千円札の肖像の樋口一葉について
番組では「去年11月、新五千円札の顔として、はじめて女性が登場しました」とナレーションしています。

財務省によると、日本銀行券としては女性の肖像が採用されるのははじめてです。ただし、明治時代の初期に発行された政府紙幣に神功皇后が採用された前例があり、現行の二千円札の裏面には紫式部の顔が描かれています。樋口一葉が新五千円札の肖像として採用されたのは財務省によれば「女性の社会進出の進展などのバランスを配慮し、数々の名作を世に残し、比類ない美しい文体から高い評価を得ている明治時代の小説家」という理由からだそうです。

「生命とは何か?生物と無生物のあいだ 」福島伸一 講談社現在新書の中に野口英世と樋口一葉がお札にふさわしくない人物として書かれている。これは2人にとって心外なんことでしょう。最も2人はお札になるとは思ってもいなかったでしょうが。選んだのは財務省でしょう。漱石の場合でも今の、村上春樹の方が世界ではたくさん読まれている。じゃあお札は、川端康成、大江健三郎、よしもとばなな、村上春樹というわけにいなかない。

漱石の「野分」に「「文学に紅葉氏一葉氏を顧みる時代ではない。これらの人々は諸君の先例になるがために生きたのではない。諸君を生むために生きたのである。最前の言葉を用いればこれらの人々は未来のために生きたのである。子のために存在したのである。しかして諸君は自己のために存在するのである。――およそ一時代にあって初期の人は子のために生きる覚悟をせねばならぬ。中期の人は自己のために生きる決心が出来ねばならぬ。後期の人は父のために生きるあきらめをつけなければならぬ。明治は四十年立った。」道也先生の演説の一節があります。紅葉氏一葉氏(尾崎紅葉とともに樋口一葉漱石は挙げている、当時紅葉、露伴が2大作家だった。しかし歴史の中で両者の作品はやがて読まれなくなっても一葉の作品は読み継がれるであろう)。

『引っ越しに次ぐ引っ越しの人生』
一葉一家は何度(十五回)も転居している(蛇足ですが私も十四回転居しています。そろそろ十五回目を目指しています)。生まれたのは父則義が勤めていたお役所の官舎内幸町一番屋敷一葉0歳4ヶ月。次いで下谷練塀町43明治5年一葉1歳1年6ヶ月、麻布三河台明治7年一葉4歳、本郷六丁目五番地一葉9歳まで(明治九年から6年間住んだ、東大赤門と向かい合わせの路地を入った、法真寺あたりの土地を父則善は購入し、一葉はこの土蔵にこもり、草双紙を読みふけった。桜木の宿)この頃、長女ふじは医師に嫁ぐが、出戻り法真寺門前の久保木長次郎とかんばしからぬ再婚する(ふじは不幸な一生を送る)。次男虎之助は則義の怒りに触れ勘当にあう。長男に望みを託した泉太郎が病死をきっかけに下谷黒門町家を引き払い、これを最後に借家住まいとなる。蓄財にたけた父則義の事業の失敗、当然あとを継ぐべき兄の急死。一葉一家は一気に転落の人生に陥る。
内幸町一番屋敷 明治5年 一葉0歳
下谷練塀町43練 明治5年 一葉0歳
麻布三河台町5町 明治7年 一葉3歳
本郷6丁目5   明治9年 一葉4歳
下谷御徒町一丁目 明治14年 一葉9歳
下谷御徒町三丁目 明治14年 一葉9歳
下谷西黒門町二十二 明治17年 一葉12歳
芝高輪北町十九(次男虎之助のところに家族ぐるみで同居)3ヶ月間 明治21年 一葉15歳
神田表神保町二 土地勘のある神田「十三夜」「別れ霜」 明治22年 一葉16歳
神田淡路町二ノ四 万世橋近く鉄道馬車が出ていた。 明治22年 一葉17歳
芝西応寺町十六番地 父の死後女三人移り住み「うもれ木」を次男をモデルに書く。一葉18歳
本郷菊坂六十番地 明治23年 一葉20歳
本郷菊坂町七十番地 (一葉記念山梨美術館の本の表紙になった場所)一葉の使った井戸
               明治二十五年 一葉21歳
質屋 伊勢屋があったところ。丸山福山町と本郷六町目とも近い。一葉18~21歳「闇桜」明治25年
下谷龍泉寺町三六八(九ヶ月すごす「たけくらべ」の舞台)一葉22歳 明治26年

長谷川清画「雪晴れの朝 樋口一葉女史宅」(人力車の左隣)反対側の酒屋にて借りる前に、聞きに入っている。

終の棲家本郷丸山福山町四 明治27~29年 一葉24歳
銘酒屋とは(にごりえ)が生まれた土地 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%B7%9A
墨東奇談の世界『にごりえ』の舞台 http://homepage1.nifty.com/hiratomo/bokutou.htm
二十二編の小説 で特に有名な龍泉寺町の「たけくらべ」、丸山福山町の「にごりえ」その他は自分達の居住地の隣町が作品に多く取り入れられている。転居していくたびに、一葉は山の手から下町、持ち家から借家、吉原近辺の商い、場末の裏通りという没落の歴史でもあった。

この特徴は漱石の文学にも身近な出来事や土地の名前など、経験した出来事を題材に取っている特徴があります。

いきなり、最終終焉の地、丸山福山町(一葉終焉の地)から話は始まります。ここは近くに銘酒屋(鈴木亭そこの酌婦がお留が主人公であり、「にごりえ」の舞台であり、銘酒屋の女性の手紙を代筆していて、当時の銘酒屋女性の境遇や悩みを見聞きしていたことが作品に反映している。
『丸山福山町時代』終焉の地

新開地で銘酒屋が並ぶ花街であった。
うしろは丸山の岡にて、物しづかなれど、前なるまちは物の音つねにたえず、あやしげなる家のみいと多かるを、かかるあたりに長くあらんは、まだ年などのいと若き身にて、終(つひ)に染まらぬやうあらじと、しりうごと折々に聞ゆ。つまごひのきぎすの鳴(なく)音しかの声ここもうきよのさがの奥也
「しのぶぐさ」

となりに酒うる店あり、女子あまた居て客のとぎをする事うたひめのごとく遊びめに似たり、つねに文かきて給はれとてわがもとにもて来る、ぬしはいつもかはりてそのかずはかりがたし
「しのぶぐさ」

家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸(阿部伊勢守旧邸宅)の山にそひてささやかなる池の上にたてたるが有けり。守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず。家賃月三円也、たかけれどもこことさだむ、店売りて引移るほどのくだくだ敷、おもひ出すもわずらはしく心うき事多ければ得かかぬ也、

一葉は銘酒屋の“うらしま”に身を寄せていた小林あいという女性を助けるために一肌脱いでいる。

この時期には(明治二十九年の五月に発行しった「通俗書簡文」のころ)一葉は既に結核におかされていた。妹が病院に連れて行った時にはもう既に手遅れでした。死を眼前に迫っていた時期のエピソードが以下の記述です。

一葉最後の時に、文学界の同人たちの見舞いに、「戸川秋骨の思い出」に、一葉は
皆さまが野辺をそぞろ歩いてのおいでの時には、私は蝶にでもなってあなた方のお袖にたわむれよう

また馬場孤蝶が赴任先の彦根中学から、一葉の病気見舞いに来たかえり、また冬休みに来ますとの答えに
その時分には、私は何になっていましょう、石にでもなっていましょうか。」ととぎれとぎれに述べている。一葉を「よのすねもの」と評した、青春の喜びを捨てて、人生を達観して生きているとした。孤蝶は死後「一葉全集」編纂にあたった。孤蝶はその後、一葉記念碑等々色々な一葉のゆかりのイベントには数知れず顔を出している。孤蝶は一葉存命中は何かと手紙を書たり、故郷土佐のみやげ物を持ってきている。一葉は孤蝶を秋の紅葉、眉山を春の桜に喩えたり、孤蝶を柳橋、眉山を祇園の芸者に喩えたりしている。

11月に入ると、一葉は来客には着物をきちっと着て、帯を締めて合っていたが、孤蝶が訪れた時は、妹くには「逢ってくれとは言いかねる、ただ見ていってくれ」と述べた。一葉は髪を乱し、頬には赤味(結核の微熱の兆候)を呈し、東枕(太陽が昇ってくる方向なので、生きかえる、若返る、やる気を起こさせるといわれている)に寝ていた。

自分でつけた戒名 「法通妙心信女」(二十六年二月二十五日)
花は落ちてふたたび枝にもどらず、破れた鏡は二度と姿を写す事は無い。万物を生成している四大がこわれて、わたしの身体を形作っている五つの要素が空しくなるとき、魂はこの天地の間に消えうせて、すべてはただ朦朧として暗い。この万物必滅の世になぜそのように執着するのか。やめよ。一刻もはやくその執着心を断って成仏解脱をとげよ。ここにおいてすなわちおまえを法通妙心信女と名付く、喝」「樋口一葉に聞く:井上ひさし」

当時は、結核は今の癌以上に死にいたる病であった。かかったら死ぬことは覚悟しなければならなかった。江戸時代にはどのようなのか聞かないが明治以降大戦後のストレプトマイシンが出てくるまでは、長い間克服できない病であった。

一葉は少しに時期、キリスト教に興味を示したが、桃水に反対されてから宗教には無縁と思はれていたが、古典をならいに行っていた、穴沢清次郎の思い出に、一葉は仏教に造詣が深かったのに驚いたといわれている。孤蝶や秋骨に語ったことばには、すべての苦しみを乗り越えて死を悟り、受け入れた一葉の穏やかな心が言わせたようだ。

一葉を最初訪れたのは、作品(うもれ木)を見て本郷菊坂二十六年三月二十一日、訪れた、平田禿木(喜一)でした。これが平田禿木にとっては最初に一葉を見つけたという誇らしさが生涯あった。後年、平田禿木は自分が一葉を見出したという、本にはその自負がみられる。

平田禿木に初めて会ったとき、「いで其うき世をのがれなんことよ。もとより其もとにかへるのにて、邪正は一如善悪は不二とかや。さとれば十万億の道も去私不遠ぞかし。墨染の衣にかしらそり丸めしにもが脱俗ならば、もだゆる法なく苦しむには及ばざらまし。苦悩は悟道のしおりにて、煩悩則ち菩提にこそ」。
一葉は仏教的悟りを目指していたようである。

「平田禿木(喜一)の印象」

「平田禿木」
平田という人訪ひ来たれり国子の取次ぎに出たるを呼ひてとし奇りかと問へは否またいと若き人也というやましけれと逢ふ高等中学の生徒なるよし平田喜一とて日本はし伊勢町の絵の具商の息子なりとか年は二十一といふ何用なりて来給ひしとも流石にいひかたけれは物かたり少しするにことばかず多からずうちしめりて心ふかげなけれどさりとて人がらの愛敬あり。なつかしき様したり」 と一葉は書いている。
平田禿木は座敷に上がると、一葉が「地味とも、くすんだともなんとも言いようの無い着物で現れ、八畳の広間の一隅へ遠く離れて端座し、低い声で言葉も絶え絶えに、いとつつましやかに応待された。」平田禿木は一葉の第一印象を書いている。喜一は高等中学の学生だった。

神をしたひ神を敬いひ、道義の光を起さんとする 一人であって、こういう青年がいるなら、この世も濁世とばかりはいえないと日記に記す二十六・五・二十九  一葉は「吉田兼好」を文学界に書いたのが禿木だと知ると興味を持った。

しかし、斎藤緑雨を「眉山禿木が気骨なきにくらべて一段上」二十九・五・二十九に書いている。これは禿木は江戸っ子で、さらりとした感じが、地方人の執拗さ、強烈さ、個性的な土地柄が一葉には新鮮だったと思われるが、東京人の禿木にはショックだったろう。

正太郎(緑雨)、としは二十九、痩せ、姿の面やう、すご味を帯て、唯口もとにいひ難き愛敬あり、錦銘仙の縞がらこまかき袷せに、木綿がすりの羽織は着たれど、うらは定めし甲斐絹なるべくや。聲びくなれど、すみとほれるやうの細くしずしきにて、事理明白にものがたる。かつて波六がいひつるごとく、かれは毒筆のみならず、誠に毒心を包蔵せるものなりといひしは、実に当れる詞なるべし。世の人さのみはしらざるべけれど、花井お梅が事につきて、何がしとやかやいへる人より、五百円をいすりたるは此人の手腕なるととか。其眼の光りの異様なると、いうことごとの嘲罵に似たる、優しき口もとより出ることながら、人によりては恐ろしくも思はれぬべき事也。われに癖あり、君がもとをとふ事を好まずと書したる一文を送られしは、此一月の事成き。斯道熱心の余り、われを当代の作家中ものがたるにたりものと思ひて、諸事を打ち捨て訪ひ寄る義ならば、何かこと更に人目をしのびて、かくれたるようの振舞あるべきや。めざまし草のことは誠なるべし、露伴との論も偽りにはあらざらめど、猶このほかにひそめる事件のなからずやは。思ひてここにいたれば、世はようようおもしろくも成にける哉。かの男、かたきに取りてもいとおもしろし、みかたにつきなば、猶さらにをかしかるべく、眉山、禿木が気骨なきにくらべて、一段の上ぞとは見えぬ。逢へるはただの二度なれど、親しみは千年の馴染にも似たり。当時の批評檀をののしり、新学士の物知らずを笑ひ、江戸の趣味の滅亡をうらみ、其身の面白からぬ事をいひ、かたること四時間にもわたりぬ。暮ぬればとて帰る。

川上眉山は明治2年大阪生まれで、文筆活動中、明治41年剃刀で喉を切り自殺している。大阪の男と東京の女性はあわない。一葉は明治5年生まれ明治29年死亡。
『斉藤賢:緑雨』
此の男、かたきに取てもいとおもしろし、みかたにつきならば猶さらにをかしかるべく、

一葉より五歳年上、朝日新聞創業時代に一時期同社に居たことがあるから、桃水とも知り合いであった。悪く裏から物を覗くような男と思われ、文壇の毒舌家として一部の人からは憎まれていた。緑雨が一葉の許に初めて手紙をよこしたのは明治二十九年一月八日で、文壇のために君に話したいから、聞きたければやってきてくれ。一葉も皮肉屋だから面白かろうと思って、行くことは出来ないがお話は伺いたいという意味の返事を出した。怪しいと桃水からのアドバイスもあったが、久佐賀、波六などとの駆け引きから、また龍泉寺で問屋や下町の人たちとの生活を共にした経験から、相手の出方を見ようと駆け引きできるようになっていた。これは泉鏡花の見方は間違っていなかったが、実際はお嬢さん育ちの一女性で、境遇が一葉をそのようにさせたためである。緑雨「よろしく君がもとをとふやくざ文人どもを追い払ひ給へ、かれ等は君が為の油虫なり」気味の悪い言い方だが、一葉は興味を持ったらしい。露伴は「緑雨という人間はわさびとか生姜のようなもので、そればかり食べさせられると弱まるが、まず彼ぐらい悪口のうまいものはない」。外の人を嫌がらせ、仲のいい人も仲たがいさせるということが名人だと言っている。緑雨は手紙後四か月目の五月二十四日に一葉を訪れて、その後度々訪れている。一葉は油断なきようにしながら、面白い人間と思うぐらいに成長していた。

ここと定めたる宿もなし、日の暮れゆけばもとよりの家のたがもとにてもしれるかどをたたきてはねぐらとし、明けぬればおぼつかなくさまよひありきて人にはただ蛇かつのやうにいみはばかられつ、みずからは憤りに心もだえて筆とれども、優なるものなつかしきなどはかけても書き出らるべきにあらず、たまたま書出るは油地獄、てき面、あま蛙のたぐひ、ただに敵を設くるばかり、文学に一つの光を加ふるにもたらず、後進を導くの助けとなるにもあらず、いたずらに心ももだえを顕はして、かれ毒筆にくむべしとのみののしらる、鴎外はもと富家の子、順を追ふて当代に名をなしつるなればさもあるべし、露伴の今少し力を加へなばと思はるるも我岡目の評なるべくや、ただ天然にすねたる生れなりぬべきやもはかられぬるを、例の弱きもの見過しがたきあたり余りいと物がなしくながめらる、」「みずの上日記」

蛇かつの如くはばかれる:緑雨の憤りと悶え、一葉の天然にすねたる生まれに共感を感じたようである。

今までの偽善者、緑雨は偽悪者だったかもしれない。しかし陰険で嫉妬深く文学界の人たちとの仲を裂こうとしたので、六月二十日にわざわざ桃水は警戒せよと忠告にきている。しかしすね者一葉は興味を感じている。此の後、緑雨は一葉にとって大いに世話になることになる。

終焉の地、丸山福山町引っ越す前に住んでいた竜泉寺茶屋町通りに平田禿木が訪れたとき「七月以来はじめて文海の客にあふ、いとうれし」とあり、大音寺前の「番太郎店」駄菓子、雑貨を商う小店はなかなかの繁盛で、其の時一葉は十年の知己の如く打ち解け、源氏、近松、西鶴を論じた。平田禿木が最初訪れて三ヵ月後十月頃で図書館に行き出す。十ヶ月のブランク後、「雪の日」を完成させる。平田禿木が一葉を文学の世界に引き戻した功績は大きい。

禿木が竜泉寺に訪れた、その後、中島歌子に会い、商いに躓き、文学の思い断ちがたく、思い迫って涙ぐまれてとみに話も出来なかった。また平田禿木に合い、「文学界」の寄稿を約束したが、商いの雑用が忙しく「商用いとせはしくわずらはしさたゑ難し」のように、次第に現実から文学に逃避していった。文学の片手間に商いなど出来るはずも無く、日々の糧を得ることのすさまじさを今まで以上に感じた。今までは、貧しいなかにも、心を和らげる抒情的な世界があったが、竜泉寺町では、人間の浅ましさ、性堕さ、を実感し昔の人が懐かしく、生活と心の中に生きる方向を見失っていた、時期であった。

人は心の中に危機を感じると、多くの場合病気を発症する。身体的にも、精神的にも何らかの症状を呈して、身体と心を守ろうとする、ガス抜き機構(身体表現性障害)である。この苦しみは、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「大つごもり」などに現れる、心の糧になっている。しかし、女でありながら家計を支えるという重圧から体の免疫力は衰え、病魔は確実にこの時期に入り込んだはずだ。身体を犠牲にした最高傑作が一葉の今日、残っている。「涙の数だけ強く成れるよ~」後世に何かを残す人は何かを犠牲にしている。強迫的な健康意識や面白おかしい生き様は長生きという得点が付いてくる。多くの創造者はそのエネルギーを作品と取り替えに命を差し出している。一葉は24歳で一生を使いきった。

いざ龍泉寺へいかんとす!!

一葉から菊坂から、商売を始めようと持ちかけるが、母が嘆き悲しむ。
此夜一同熱議、実業につかん事に決す。かねてよりおもはざりし事にもあらず。いはば思ふ処なれども、母君などのただ嘆きに嘆きにて、汝が志よわく、立てたる心なきから、かく成行ぬる事とせめ給ふ。家財をうりたりとて、実業につきたりとて、これに依りて我が心うつろいひぬるものならねど、老人たる人などは、ただものの表のみ見てやがてよしあしを定ね給ふめり、世渡りのむつかしきは、これをとるもかれを取るもおなじかるべし。これよりの行路難いかにどや。されども、我らはらからは、うきよのほそめそしりかへり見るものならず。唯おのれのよしとみて進む処にすすまんにみ。霜ばしらくずれなば、又立なほさんのみ。明治二十六・六・二十九

『竜泉寺茶屋町時代』大音寺前
(終焉の地の前に苦労した土地で、一葉の文学の根底を作った重要な土地)
十七日晴れ。家を下谷辺りに訪ね、国子のしきりにつかれて行くことをいなべば母君と二人にて也、坂本通りにも二軒余りみたれど気に入るけるもなし、行き行きて龍泉寺町と呼ぶ所に間口二間奥行六軒ばかりなる家あり、左隣には酒屋なりければ其処にて諸事情を聞く、造作はなけれど店は六畳にて五畳と三畳の座敷あり、向きも南と北にして都合わるからず見ゆ、三円の敷金にて月壱壹円五十銭といふいささかなれども庭もあり、其家のにはあらねど裏に木立どものいと多かるもよし、さらば国子に語りて三人ともによしとならば此所に定めんとて其酒屋に頼みて帰る、邦子も異存なしといふより夕かけて又行く、少し行き違ひありて余人の手に落ちん景色なればさまざまに尽力す。

日本とヨーロッパの違いの一つに、ハレとケ(ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)という。ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。)の文化が日本では特に顕著である。ヨーロッパは伝統的な美を日常生活に近い形で取り入れている。イタリアなどセンスの良い国では、古代からの建造物に住み、センスの良いインテリア、日常生活も、日本ほど自宅とお出かけの差異が少ないと聞きました。ハレとケの差異が少ないと聞くと、一葉の龍泉寺の中にも大宮人の風流を求めたのは、ハレとケの差異が少ない人だったように感じます。

竜泉寺茶屋町(本郷菊坂から越して来る)にお店を出すと決める前、早朝、和泉丁、二長町、浅草、鳥越、柳原、蔵前、谷中も候補に上がった。しかし谷中は 田中みの子(萩の舎の平民組)が住んでいた。商売を始めるのに、田中みの子にみられたくないという思いで止めたいきさつがあるという。

馬場孤蝶「真筆版たけくらべ跋」より「塵の中」十五日、神田和泉町、下谷二長町、向柳原、鳥越、蔵前という風に浅草まで入って、家を探しても、どこにも庭のあるのが見付からず、町屋の住まったことのない樋口家の人々には、そういう庭にない家に住まうのが辛かったので、龍泉寺に家(庭があた)に定めたらしい。隣の酒屋伊勢谷に近所のことなどを問い合わせる。

長谷川清画
一葉記念館
    酒屋     一葉の店     車屋

                            
いでや是より糊口文学の道をかえてうきよをそろばんの玉の汗に商いという事をはじめばや

人つねの産なれば常のこころなし 手をふところにして月花にあくがれぬとも塩噌なくして、天寿を終らるべきものならず。かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまま、こころの趣くままにこそ筆は取らめ。いでや是より糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人のまどいなどは、昨日のはるの夢とわすれて、志賀の都のふりにしことを云わず。さざなみならぬ波銭小銭厘が毛なる利はもとめんとする。さればとて三井三びしが豪奢も願はず、さして浮よにすねものの名を取らんとにも非らず。母子草のははと子と三人の口をぬらせば事なし。ひまあらば月もみん。興来らば歌もよまん文もつくらむ。小説もあらはさん。タダ読者の好みにしたがひて、此度は心中ものを作り給はれ。歌よむ人も優美なるがよし。涙に過たるは人よろこばず。繊巧なるは今はやらず。幽玄なるは世にわからず。歴史のあるものがよし。政治の肩書あるがよし。探てい小説すこぶるよし。此中にてなどと欲気なき本屋の、作者にせまるよし、身にまだ覚えすくなけれど、うるささはこれにとどめをさすべし。さる範囲の外にのがれて、せめては文学の上にだけも義務少なき身とならばやとてなむ。されども生れ出て二十年あまり、尚ふ三軒両隣の付き合いならはず、湯屋に小桶の御挨拶も大方はしらず顔してすましける身の、お暑うお寒う、負けひけのかけ引、問屋のかひ出し、かひ手の気うけ、おもへばむずかしき物也けり。ましてや、もとでは糸しんのいと細くなるから、なんとなうしばしいの葉のこまつた事也。されど、うき世は、たなのだるま様。ねるもおきるも我が手にはあらず。造花の伯父様どうなとし給へとて、  とにかくにこえるをみまし空せみのよわたる橋や夢のうきはし  とある。

金の工面に奔走する日々が続く伊藤夏ちゃん訪れたので転宅を語る藤陰隠士(藤本藤陰)の許に行っている。道具は西村が持参、久保木手伝いに来る。これは長女の再婚相手ではないか。今宵は何かむねさわぎて眠りがたし。さるは新生涯をむかえて旧生涯をすてんことのよこたわりて也。として新世界の龍泉寺に向かう。

男気なき家の、いかにあなづられてくやしき事ども多からむ。何事もわれ一人はよし。母老いたり。邦子はいまだに世間をしらず、それがおもひわずらふ景色を見るも哀也

二十歳過ぎの一葉にとっては大変な決断であったろうし、またよくもここまで手はずを整え事を成し遂げた事に頭が下がる思いです。

蚊のいと多き処にて、藪蚊といふ大なるが、夕暮よりうらり出る。おそろしきまで也。この蚊なくならんほどは、綿入れきる時ぞさる人のいひしが、冬までかくてあらんこと侘し。

井戸はよき水なれど深し。何事もなれなば、かく心ぼそくあるべきならず。知る人も出来、あきなひに得意もゆべし。そは、憂しとても程なき事也。誰かく落はふれ、行ての末にうかぶ瀬なくて朽も終らば、つひのよに斯の君に面をあわする時もなく、忘られて、忘られはてて、我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし。昨日まですすみける家は、かの人のあしをとどめたる事もあり。まれには、まれまれみは、何事ぞの序に、家居のさまなりとも思ひ出でて、我といふものありけりとだにしのばれなば、生けるよの甲斐ならましを。行えもしれずかげを消して、かくあやしき塵の中にまじはりぬる野馳、よし何事のよすがありておもひ出られぬとも、夫は哀れふびんなどの情にはあらで、終に此よを清く送り難く、にごりににごりぬる浅ましの身と思ひ落され、更にかへりみらるべきにあらず。っくおもひにおもへば、むねつふさがりていとどねぶりがたく、暁の、はやう聞えぬ。此宵は大雷にて、稲づま恐ろしく光る。


龍泉寺に越した状況を述べている。大変ではあるが、一葉の文学にとっては重要な経験となる時期の始まりである。

落ちぶれてそでに涙のかかるとき人の心の奥ぞしらるるとは、げにいひける言葉哉。たらぬことなき其むかしは、人はたれもたれも情ふかきもの、世はいつとてかはりなきものとのみ思ひてkるよ。人世之行路難は、人情反復の間にあるこそいみじけれ。父兄よにおはしましける昔しの人も、ここにかく落はふれぬる今日の人も、見るめに何れかはりも覚えざれど、心ざまのいろいろを見れば、浮世さながらうつろひぬる様にこそおぼゆれ。さればこそ人に義人君子とよばるるは少なく、貞女孝子のまれなるぞ道理なる。人は唯、其時々の感情につかはれて一生をすごすもの成けりな。あわれ、はかなのよや。さりとては又哀れのよや。かの釧之助が、我家に対して其むかし誠をはこびけるも、昨日今日のつれなき風情も、共に其こころのうつしえ成けり。

この世の仁義、恩義なき世情を身を以て体験した、二十歳過ぎの一葉は今後の作品に反映していくこととなる。命を削って体験したことは、一葉の心に深く世の不条理、無常を感じていく。廓の不条理、銘酒屋の哀しみを明治の格差社会を体現していく。萩の舎の世界も同様に虚構に満ちた世界だった。私たちはこの一葉の格差社会、貧しさゆえに人生の荒波に弄ばれ、海底の藻屑となる運命に人たちに相まみえ、社会の矛盾を小説に書き綴っていった。そうして二十四歳で死んでいった。この事実に強く魅かれるからでしょう。その文章と読まれるCDを聞くと、一葉の世界に引き込まれていく我々はだれしも一葉のフアンになってしまう。


“森まゆみ”さんはこの女性田中みの子を「花ごもり」の世話好きのお辰のモデルとしている。小川町に転居したのは「暁月夜」(都の花)に生かされているそうだ。田中みの子は裕福な請負師な未亡人で、長男と谷中町三番地に住んでいた。「筆すさび」には、田中みの子の家のたたずまいが克明に描かれている。空蝉が夫の留守を守る中川の紀の守の屋敷や、五条わたりのつつましやかな夕顔の家のイメージのなぞらへて描いている。

谷中へ通ふ大路を、少し右へ入れて、桜木病院の向かい側に、ぬりたる塀高くしなして、門は此頃あらためたればにや、まだいと新らし、入ての右より敷石つらねて玄関へ通道一筋。左は花だんにて、秋草をかしうしなしたり。北の方にはぬりごめふたつあり。そが右の方は、くれ竹のませ、ささやかに結ひて、咲こぼれたる花ども、いとおかし。山あいは、かきの外に、たけ高うちて、萩は半ふしながら、さけるもよく、薄はいまだなびかぬものから、秋の姿はいちじるくみゆ。・・・・軒ばの風鈴かすかにおとなひて、しのぶの露のかかる夕べ例の君の打ちとけたる、あざれ姿に団扇手まさぐりして、打ながめ給らんさまよ、いかなるらん。いと、みまほし。

「谷中の美人」説もある。 ふっくらしている一葉(22頃歳)の左に映っているのが田中みの子です。

「葎の門」源氏物語末摘花:

訳)お車を寄せてある中門が、たいそうひどくゆがみかたむいて、夜目でこそそれとわかりながらも何かと隠れて見えない損傷が多いが、今はものがなしいくらい寂しく荒れはてているところに、松の雪だけが暖かそうに降り積もっている様子は、山里の心地がして、なんとも風流な感じがするため、あの人たちが言っていた葎の門とは、このような所であったろうか、なるほど、大切でならないかわいらしい人をここに囲って、気が揉めるくらい恋しいと思ってみたいものだ、許されることのないもの思いは、きっとそれがために紛れてしまおうと想像が働くような住処に、似つかわない姫のご様子は、取るところがないとお考えになりながらも、自分以外の者は、ましてお世話を辛抱して行うだろうか、わたしがこうして馴れ染めるようになったのは、亡き親王が心配でならないと思いわたしに添わせようとしてここにお置きになった魂の導きなのであろうと、お考えになる。

一葉は源氏の「帚木」巻内「雨夜の品定め」をとりわけ愛読していた。

1. 頭中将の三階級説
なんでもそこそここなす女は多くいるが、そんな女は皆自分の心得ている僅かな分野の技芸だけを磨いて、仲人がその得意な面だけを宣伝して、欠点を隠しているのである。そんな一つの面だけの取り柄もない女と、逆に文句なく素晴らしい女はどちらも同じくらい僅かしかいない。上流階級の子女は欠点も隠され、所作も良く見える。下流階級の女は、はなっから耳にも入れられない。中流階級の女は各自の個性や行き方によっていろいろと比較出来る点が出てくる。(源氏の疑問-階級の分け方は? 家柄は良くても零落した家と、身分が低くても出世した家では?)

2. 左馬頭の階級説補足
出世をしていても、成り上がりだと世間からそのように見られ、逆に高い身分で零落したものはプライドだけは高くても、いろいろと不都合が生じてくる。だから、どちらも階級では中流と見なすのが良い(?)。受領(地方官)にも、今はいろいろあり、中流のなかなかの娘が選び出せたりする。なまじっかの上達部より、非参議の四位で世間からまんざらでなく思われ、家柄も賤しくはない連中が、公卿でないだけ、気安く暮らしているのが、さっぱりした感じだ。そういう家で育った娘の中には素晴らしく育つ娘も多いだろうし、宮仕えで幸運を射止める例も多いだろう(源氏のコメント-それなら、お金持ちなら良いということになる(?))。家柄も現在の世間の受けも良い家で育った娘が立派なのは当然と思われ、そうでない場合の落胆は大きい。それより、草深い家、むくつけき父や兄を持つ娘では、ちょっとした良さでも引き立つ。

3. 左馬頭の良妻難の説
女房として満足行く女を考えると、どの女も帯に短したすきに長しというように思われてくる。若くて、自分のあらをうまく隠すような情趣の有りすぎる女も難、世話焼の女房で亭主が話したくないような仕事の話も聞きたがるような女もうっとうしい。となると、無邪気で素直な女を躾けてゆくのが良いように思えるが、そんな女も頼り無い、逆に平生はかどかどしいような女が見栄えがするときもある。

4. 更に婦道一般論
こうなったら、顔かたちも問題でなく、どうしようもなくひねくれたような女でなくて、亭主を大事にしてくれる女だったら良しとして、その上で趣味でも品格でも持ち合わせていたら幸せだ。むやみに嫉妬しない性質だけで十分、情趣などはあとから足してゆけるものだから(嫉妬をこらえたあげく出家した女の例)。

5. 左馬頭の細工物の評価に例えた念押し
絵などでも、どうってことない部分にこそ名人との違いが表れる。女もいかにも情趣があるような部分だけでは判断出来ない。

6. 指をかんだ女の話
左馬頭が官位の低いとき一緒だった女は、器量はどうということないが、出世の遅いのも何とも思わず、良く世話をする女だったが、反面嫉妬深くもあった。あるとき、そのことから喧嘩になり、女に指を噛まれてしまった。少し懲らしめてやろうと何日か連絡をしなかった。そして、様子を見に行くと、留守の家にきちんと自分の着物が手入れしてあった。しかし、まだ仲が直らなかったところ、それを苦にしていたのか、女は病気になって死んでしまった。左馬頭は織物のうまい七夕姫のような女だったと思い出すのだった。

7. 木枯らしの女の話
次に左馬頭が通っていた女は、多少浮気っぽいところがあるのは分かっていたのだが、あるとき、同僚が宮中から下がるときに、これから通うところがあるので、車に同乗させてくれと言ったので、行くと見慣れた場所で降りる。女の家であった。同僚が縁側で笛を吹くと、待ち構えていたように内から和琴が鳴らされ、やがて二人は歌のやりとりを始め、女は「木枯らしにさえ合奏なさるあなたを引き止めることは出来ない」などと言う歌を男に詠んだ。これをもって、色っぽくしなだれかかる女には注意が必要だと左馬頭は言うのだった。

8. 夕顔の話
頭中将が本妻がありながら通っていた女、夕顔はたまにしか来ない中将に恨み言を言いたいような思いがあってもそれを外へ出さないような女だった。幼い撫子という娘もいた。本妻から何かつらいことを言われたと後で知ったのだが、そのときは女がうるさくないのを良いことにして、しばらく会わずにいたら、行方知らずになってしまった。しかし、彼女も他に男がいたと邪推しようとすれば邪推出来るし、今までの話を聞いても何かと満足の行く女はいない、欠点のない女を探すと例えば吉祥天女になるが、吉祥天女を女とすると、随分抹香臭いことだろうと言ったので、みんな笑った。

9. 賢女の話
藤式部の丞は学問を習いに通っていた博士の娘と一緒になったが、この娘がなまじっかな男が顔負けするくらいのインテリで、寝物語にも藤式部の丞に学を授けて出世させようといろいろと学問の話をする、手紙もきちんと漢字で堅い調子で書いてくる。しばらく通わなかったら、風邪をひいて臭い薬を飲んだからと襖越しにしか会ってくれない。興ざめして逃げにかかり、「臭いがひどくて会えないなんて、ひどい口実だ」と歌を詠んだら、即座に歌で言い返した。

10. 左馬頭の結論
女だとて、自然に世の中のことは公私に渡って分かってくるのに、下手に学問を修めて、女同士の手紙でも漢字でやりとりするようになってくると、それをひけらかし、こちらが余裕のないときでも、やたらと歌を詠んできたりする。時と場合が分からない程度の風流心なら、かえって持たないほうがましだ
萩に舎に集まる上流社会の人々の侮蔑を耐えるために一葉は「物つつみの君」という姿勢を保ちながら生きていく術を尽くしたのである。母たきが買い求めた苗が、知人から夕顔であることを教えられ、菊坂町の借家の庭にさえ「源氏物語」の風雅を求める一葉であった。

『糊口文学』
その時の意気込み(文学をあきらめ、女家主として一家を支えるため、商売に徹する決意)が以下の如くです。
人、恒の産なれば、常の心なし。手を懐にして月花に憧れぬとも、藍噌(藍、味噌で生活費のこと)なくして天寿を終わらるべきものならず。且つや文学は糊口の為めになすべきものならず。思いの馳するまま、心の赴くままにこそ筆は取らめ、「いでや是より糊口文学の道をかえてうきよをそろばんの玉の汗に商いという事をはじめばや」もとより桜かざして遊びたる大宮人の円居(中島門のえせ風流を風刺した)、きのふの春の夢と忘れて、志賀のの都の古にしことは云はず。さざなみならぬ波銭小銭(当時の小銭の裏には波の模様があった)厘か毛なる利は求めんとする。さりとて、三井三菱が豪奢も願わず。さして浮世のすねものの名を取らんとにもあらず。母子草の母と子と三人の口を濡らせば事なし。
意気込みといい、花圃の歌道開き、稲舟の結婚、いいなづけの三郎との破談、釧之助の金銭等々何かにつけ、一葉は激しい日記を残している。これは紫式部よりは清少納言のタイプである。

「馬場孤蝶」

孤蝶君は故 馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語語癖あり。不平、不平のことばを聞く。うれしき人也二十七・三・十二
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E8%BE%B0%E7%8C%AA 馬場辰猪
伊藤夏子が馬場孤蝶が美男子だというので、一葉は馬場孤蝶の自宅までイ夏ちゃんを連れていくが、あいにく馬場孤蝶は不在だった。
馬場孤蝶

所座するものは紅顔の美少年馬場孤蝶子。はやく高知の名物とたたえられし兄君辰猪が気魂を伝えて、別に詩文の別天地をたくはゆれば、優美高傑かね備えて、をしむ所は短慮小心、大事のなしたがらん生まれなるべけれども歳はいま二十七」二十八・五・十

次いで馬場孤蝶が訪れます。馬場孤蝶も一葉死後、一葉の本を出しています。一葉の死後「忍ぶ会」がたくさん出来ましたが、多くの写真に馬場孤蝶は出ています。父の故郷山梨の碑にも参加しています。「一葉会」を結成して、緑雨の遺志をついで、一葉日記を刊行する。完全な形で一葉作品を世に送り出したのは馬場蝶の政治力と友情の結果と和田芳恵氏は一葉日記で述べている。
一葉会の写真には馬場孤蝶、与謝野晶子、河井酔茗、上田敏、桶口邦子、生田長江、岡田八千代、小山内薫、与謝野寛、森田草平、蒲原有明とそうそうたるメンバーです。

馬場孤蝶、平田禿木、斉藤緑雨の3人が一葉の作品を世に出す尽力したおかげで作品が残ったともいえるとも考えられる。 一葉会明治三十七年二月福山町に文化大学英文科の森田草平が一葉の終焉の家に住むことになり、一葉旧知の賛助を得て、文学界明治三十七年三月号に載った。
後列左から馬場孤蝶、与謝野晶子、河合酔名、上田敏、樋口邦子、一人おいて、生田長江、前列左から、岡田八千代、小山内薫、与謝野寛、一人おいて、森田草平、蒲原有明

「戸川秋骨」
大正七年九月:「・・その時女史の様子は、それほど衰へて居るとも思えない位で、いつも程の活気こそなかったが、例の通りな美しい、そして才気のほの見える言葉つかいで暫く話された、皆さまが野辺をそぞろ歩いてお居での時には蝶にでもなって、御袖の辺に戯れまつはりましょうなど云われた事は今でも覚えている。その折の印象と言葉日時の経過に拘わらず決して忘れられないものである。」と述べている。
一葉の葬儀には、眉山らと出席している。
馬場孤蝶には、「此一年後、彦根中学から戻った馬場孤蝶は樋口家を訪れ、十一月三、四日に時は息も絶え絶えの一葉だった。妹邦子は「会って呉れとは云ひ兼ねる、唯見て行って呉れ」という。六畳に寝ていた一葉は孤蝶が「この暮にまたお目にかかりましょう」と言うと、一葉は「その時分には何に為つて居ましょう、石にでも為つて居ましょうか」ととぎれとぎれに語った。
明治二十九年十一月二十三日に一葉は短い一生を終える。

秋骨は「孤蝶子の君をおもうこと一朝一夕にあらず。その熱度のたかきこと計り難し」二十八・五・三
一葉は「そはかたじけなきこと」とほほ笑む。

その日記に、こういうことはとても辛いと書く。孤蝶はどこかへ行くと、必ず手紙を送り、野山で摘んだ花など持ってくる。そうして人に言わない秘密まで、一葉に語った。一葉は嬉しいけど心苦しいと感じている。こうした思いはどれくらい続くのであろうか、人の心は移ろいやすい、水の上の落ち葉にも似ていると、受け止めている。

一葉がめざまし草で絶賛を浴びた評が出ていて、戸川、平田が一葉宅へ喜びを伝える
「五月二日の夜、禿木、秋骨二子来訪。ものがたることしばしにして、今宵は君がもてなしをうけばやてまうで来つる也。いかなるまうけをかせさせ給ふぞや、これは大方のにては得うけ引がたしと、ふたりながら笑ふ。何事ぞと問へば戸川むし、ふところより雑誌とり出でて、朗読せんかと平田ぬしをかへりみていふ。こはめざまし草巻の四成き。一昨日の発行にて、わが文芸倶楽部に出したるたけくらべの細評あるよし、新聞の広告にみけるがそれならんしかと思ふに、あわただしうはとふ事もせず打えみ居るに、いかでまうせさせ給へ、この巻へ、この巻よ、けふ大学の講堂に上田敏氏の持来て、これみよと押開きさしよせられぬ、何ぞ何ぞと手に取りみれば、これ見たまへ、かくかくしかじかの評、鴎外、露伴の手に成りて、当時の妙作これにとどめをさしぬ、うれしさは胸にみちて物いはんもまなく、これが朗報、大学の講堂にて高らかにはじめぬ。さても猶うれしさのやる方なきに、学校を出るより早くはせて、はつだの書院に走り、一冊あがなふより早く禿木が下宿にまろび入り、君々これ見たまへと投つけしに、取りて一目みるよりはやく、平田は顔をも得あげず涙にかきくれぬ、さらばとく見せて此よろこびをものべ、ねたみをも聞えてんとて、斯く二人相伴ひてはまうで来つる也、いかでよみ給ひてよ、我れやまん、平田よと、詞せはしく喜びおもてにあふれていふ。今文だんの神よといふ鴎外が言葉として、われはたとへ世の人に一葉崇拝のあがけりを受けんまでも、此人にまことの詩人という名を送る事を惜しまざるべしといひし、作中の文字五六字づつ、今の世の評家作家に伎倆上達の霊符として呑ませたきものといへるあたり、我々文士の身として、一度うけなば死すとも憾なかるまじき事ぞや、君が喜びいかばかりぞうらやまる。二人はただ狂せるように喜びてかへられき。此評よ、いたる所の新聞雑誌にかしましうみてさわがれぬ。日本新聞なぢには、ただ一行よみては驚き歎じ、二行よみては打うめきぬとか有けるの由、国子のよそより聞来て、いとあさましきまでに立ぬる評かなと、喜びながら悲しがる。そは槿花の一日の栄えを嘆けばなるべし。世の中をしなべて、文学にはしりぬる比とて、仮初の一文、一章、遠国他郷までもひびきわたり聞えゆきて、立つ名さまざま、さてはよからぬ取沙汰もようように増り来たりぬ。此たけくべ書きつると同じ号に、我れと川上ぬしとの間のこと、あやしげに書きなしある報道有き。千葉あたりより来たりたる投書なりとか。これをばやがてよき材にして、人ねたむもし憎くみもす。ことなる事なき身どちには、さして何事なげかしさもおぼえねど、そもそものはじめより、うき世にけがれの名を取らじ、世の人なみにはあるまじのおもひなりしを、かくよからぬ評など立出くる、やましき事ならねど、我が不徳のするところかと、ものなげかしう思はれき。」
いま一つ手放しで喜べない一葉であった。

斉藤緑雨 幸田露伴 横山源之助新聞記者

平田禿木、馬場孤蝶、川上眉山、戸川秋骨、島崎藤村、星野天知、幸田露伴、斉藤緑雨、横山源之助、上田敏、泉鏡花、実際に会ってはいないが、森鴎外などが入れ替わり一葉を訪れ、サロン化していた。鴎外の紹介で青山胤道に往診を受けたが時既に遅く、絶望状態だった。17歳で父の葬儀を出して、数々の苦労をして、20歳から24歳の間に、一葉は御茶屋の女将のようにとりなしがさばけていた。貧弱な学歴にも関係なく、文字も綺麗で、流れるような筆から編み出される、ことばは詩のような趣があり、内容も濃く、一生のすべてが4年間の最後の1年半に凝縮されて、去っていった。父を亡くして7年間家主として責任を全うして、金策に走り、22編の小説、和歌を少し残していった。7年をこれだけ多くを経験した、そうして名を残すほど成長した一葉は天才というだけでなく、置かれた環境と努力の人だった。

横山源之助:毎日新聞記者、同僚岡野正味と一緒に一葉を訪ねたのは明治29年1月だった。横山源之助は富山県魚津の網元と、その女中との間にできた子で、すぐに左官職横山伝兵衛の許にやられた暗い過去を背負った人でした。二葉亭四迷と知り合いになって、その影響を受けて淪落の女性に深い関心を払うようになり、一葉の「にごりえ」もお力に関する興味から、訪れて二葉亭四迷の会わせようとしたらしい。

われ筆とるといふ名ある上は、いかで大方の世の人のごと、ひとたび読みされば屑籠に投げ入れいらるるものはえ書くまじ」という気迫を見せている。
一葉は女の子らしい遊びをするよりは英雄豪傑、任侠義人などの本を読んでいることが好きで、それで近眼になったと言う。

其の中にも一と好みけるは英雄豪傑の伝、任侠義人の行為などの、そぞろ見にしむ様に覚えて、凡て勇ましく花やかなるが嬉しかりき。かくて九つばかりの時よりは、我が身の一生の、世の常に終わらむことなげかわしく、あわれ、くれ竹の一ふしぬけ出でしがなどあけくれに願ひける」(塵之中)

只(ただ)利欲にはしれる浮よの人あさましく厭(いと)はしく、これ故にかく狂へるかと見れぱ、金銀はほとんど塵芥(ちりあくた)の様にぞ覚えし「塵之中」

一葉の子ども時代からの、秀でることに生きがいを見出すタイプ、明治では珍しい女性だったと思われる。金銭的な問題には生涯恵まれなかったが、名誉を最後には得て、みなに惜しまれながら無くなった、彼女の意気込みが達成された。幸せものとしていいのではないでしょうか。それには一葉を支える多くの人たちが居たのです。

「川上眉山」の印象を書く

給ふそよき我れにあたほとの事は何時にてもなすへしなといふ かかるほとに馬場君平田ぬしつれ立て川上眉山君を伴ひ来る 君にははしめて逢へる也 としは二十七とか 丈たかく色白く女子の中にもかかるうつくしき人はあまた見かたかるへし 物いひて打笑む時頬のほとさと赤うなるも男には似合しからねとすへ
眉山が一葉から借りた傘を返しに来る時の身なりが、金の指輪、金時計といういでたちに、一葉は痛烈な非難の日記を書いています。

何事ぞ、おととしの此(この)ころは、大音寺前に一文がしならへて乞食を相手に朝夕を暮しつる身也。学は誰か伝えし、文をば又いかにして学ぶべき。草端の一蛍、よしや一時の光をはなつとも、空しき名のみ、仇(あだ)なるこえのみ「水のうへ日記」二十八年秋

次に眉山が訪れた時、黄金の指輪、糸織の小袖なる華美なるはなく、博多結城のひとへに、角帯しめて羽織は着ず。入湯せんとする折なれば、手拭もて来たり。いたく人世を思ひいりてせんすべもなく、物弁別つき難く成し頃とて、かしらいたく気のぼりて、常に夢に中にあるやうの心地するといふ。今日も、こころわるくくてのみ暮しがたければ、しばしねぶらばやと横に成つれど、夫すらなしがたければ、せめては君のもとを訪ひて、めずらしき物がたりうけたまはらばやとて来つる也とかたる。こは君が筆に一轉化の来るばき時機なめり。ひたすらになつかしかしくやさしき方をのみ取出るやう成し人の、かくて誠に心もだへば、人世のうくつらき、人の情のあるて無きなど、こまかにうつし出るやうに成なんもはかりがたければ、こはこれ一級をすすむる時ならんとうれし。もろともにかたる事多し。わが身の素性など物語るに、さらば君に誠にをとなしくやさしき人におはしけり、思ひかけぬまですなほなる人成けり、さる柔和なるこころを持て、かかるうきよをかくまでにしのび渡り給ふこと、下のこころのいづこかつよき所のあればなるべし、男ごころのまけまじ気性にてするも、うきよの波にもまれては終におぼれぬ人少なきを、さるやさしき女性の身として、かくよに立て過し給ふ事、世にありがたき人かな、自選をものし給ふべし、今わが聞参らせたる所ばかりにても、たしかに人を感動さするねうちはたしか也、君が為には気のどくなれども、君が境界は誠に詩人の境界なるかな、おもしろき境界なるかな、すでに經来たり給ひし所は残りなく詩にして、すでにすでに人世の大学問ならずや、ふるひたち給ふべし、君にして女流文学に志し給はんか、後来日本文学に一導の光を傅へて、別に筆をもて世にたち給へなどいふ。そそのかし給ふな、さらでも女子は高ぶり安きをとて笑ふに、君は誠に物つつみし給ふ人也、よししからば、これより我れは書肆にはかりて、君のもとへ最速を打ち切らすべし、人すすねずば書かぬ人なめりとて笑う。やがて日も暮るに近ければ、又こそ勤はめとて立ち帰る。三年の知人に似たり。

眉山が一葉の写真を欲しいといって、婚約説が持ち上がった、緑雨がいきさつを述べて一葉は事の次第を納得する。

有名になってきて、文学界の同人も集まるが、一葉には今ひとつ浮かれ気分になれない。穴沢清次郎の話に、眉山の話が出てきます。

清次郎は夏ちゃんといい、一葉は清さんと呼んでいた。八犬伝を七歳の時に、三日で読んだというので、そんなに早く読めるのかと聞くと、「眼が二つあるから、二行宛よめるでしょう。ほ、ほ,、ほ、ほ。

また村上浪六に手紙を書いてから「文学的に書くので、私の手紙がわからないかな」と云ったりしていました。一葉さんは眉山のようなにやけ男は嫌いでした。眉山が一葉に「気持ちよく小説を書かせる人を女房に世話してください。そうでなければ、金があって生活の心配がなく小説が書けるような相手」としつこく云ったりしていました。襖越しに、私は一葉さんをお嫁にほしいのだなと思っていました。
 川上眉山は一葉が好きだったのでしょう。中々人生は小説のような事の運びにはならない。幸せな一葉は、文学的な事をなしえなかったでしょう。絶頂期に死んだことで後世に名を残すことになった。眉山は一葉死に際し、葬儀などに出席している。

「道徳すたれて人情紙のごとく薄く、朝野の人士、私利をこれ事として、世はいかさまにならんとすらん。われは一日安きをむさぼりて、百世の憂ひを念とせざるものならず。わが心にはすでに天地とひとつになりぬ。わがこころざしは、国家の大本にあり」と日記に書いたあとで、「暗夜」を発表し、国会議員波崎を襲って恨みをはらそうとする美女お蘭を、「文学界」の青年たちは、一葉を「お蘭さま」と呼んだらしい。しかし明治29年の一葉は下記の如く書きするすことになる。
一葉愛用の文机

象嵌が施された紫檀のもので、裕福だった頃の父の贈り物だった。

しばし文机(ふづくえ)に頼づゑつきておもへば、誠にわれは女成(なり)けるものを、何事のおもひありとて、そはなすべき事かは。我に風月のおもひ有(あり)やいなやをしらず、塵(ちり)の世をすてて深山にはしらんこころあるにもあらず、さるを厭世家とゆびさす人あり、……我れをしるもの空しきをおもへぱ、あやしう一人この世に生まれし心地(ここち)ぞする。我は女なり。いかにおもへることありともそは世に行ふぺき事かあらぬか。「みづの上」二十九年五~六月
明治に女一人で頑張っている、この一文には涙がこぼれます。

「幸田露伴」の印象
七月二十日 雨風おひたたし午後二時 ころ計らす三木君 幸田君を伴ひ来る はしめて逢ひ参らす 我は幸田露伴 と名のらるるに 有さまつくつくうち守れは 色白く胸のあたり赤く 丈はひくくして よくこえたり 物いふ声に重みあり ひくくしつみていと静かに

幸田文は「胸の辺り赤く」は酒やけといっておかしがった。一葉は露伴の文に心酔していたが、露伴も一葉を「対応は巧みで、人をそらさない。その生涯がいかに辛労の生涯であったかが知れる。負けん気の、物に耐える力ある、冷淡ならざるー然しながら人を腹の中で批判し得ぬ程馬鹿でない人である事は知られた。明治の婦人文学者では先ず第一であろう」「その作品は、優しい心と、烈しい抵抗力と、血や涙を以って、実世間を写した物である」幸田文は一葉作品には季節のことが書かれていないが、読んでいて季節感がよく出ていると書いている。

以下「露伴の書いた一葉の印象」
故一葉女史は一見したところ、先ず薄皮立の締つた、聡明そうな顔をした人であった、敢て醜いと云う程ではないが、さりとて非常な美人ではなかった、寧ろ妹の方が顔立ちは好かったように思う、其れから又応対が巧みであった、進退動作節に合して決して人を反らさない、是までの生涯が如何に辛労の生涯であったかは是によっても察せられる、婦人で少し学問でもある者は漢語など殊更に交え至極生意気臭いものだが、女史に於いては決して、そう云う事はなかった、能く消化のできた言葉附であった。

余は女史の小説に就いては、たけくらべを読むまでは余りに多く感服せなかった、然し之を読んで少なからず尊敬の念をを起こしたのである、其事は当時発行された目ざまし草に長く書いて置いた。


・・・・・負けぬ気、物に耐へる力ある、冷淡ならざるし然しながら人を腹の中で批評しえ得ぬ程馬鹿でない人である事は知られた。

明治の婦人文学者では先ず第一であろう、徳川時代より云うも女詩人としては此の人の上に出るものはあるまい。

・・・・女史のは然らず全く其優い心と、烈い抵抗力と、血や涙を以て、実世界を写したものである、そこで人を動かすの力がある、別言すれば女史の文は血や涙の化けたのである。・・・・

幸田露伴―「成功」明治39年7月
馬場孤蝶 平田禿木 斉藤緑雨

「斉藤緑雨」の印象
「正太夫(緑雨)としは二十九、痩せ姿の面やすごみを帯びて唯口元にいひ難き愛敬あり」「逢えたのはただの二度なれど、千年の馴染みに似たり」(樋口一葉)

「緑雨は一葉と同じように貧しかった一葉の葬儀や死後の出版に尽力した」
明治29年の日記には緑雨の記事が多く記され、一葉葬儀や母・たき葬儀での緑雨の尋常でない樋口家(否、妹 邦子)への応援ぶりにより、緑雨の作家一葉への思い入れがわかる。

一葉死後、本格的な全集編輯のための資料集めを行い、邦子からの紹介により、田中みの子や伊東夏子を度々訪れている。萩の舎塾生からは、一葉が詠んだ歌が集められ、昭和50年代初めに古書店主により緑雨原稿が発見された経緯と原稿分析は『幻の「一葉歌集」追跡』として纏められた。肺結核が進行していた緑雨は、明治37年4月13日に死亡したが、その2日前に馬場孤蝶を呼び、邦子 から預かっていた一葉日記や全集編輯のため集めた資料を樋口家に返すよう頼み、新聞への死亡広告を口述した。 帰路樋口家に寄った孤蝶から緑雨危篤を聞いた邦子は、小石川から人力車を飛ばし両国に向かったといわれている。
幸田露伴 森 鴎外 泉 鏡花 大橋乙羽

「一葉日記」には泉鏡花の名は出てこないが、鏡花の「薄紅梅」には彼が一葉を福山町の家を訪ねた情景がいきいきと描写されている。鏡花は一葉より一歳年少で、博文館編集員として大橋乙羽に世話になっていた。勤め人として一葉の福山町の家に原稿を取りに行っている。たぶん通俗書簡文ではないかと思われる。一葉はお酒を一滴も飲めなかったが鏡花には文学界の男性の付き合い方から、書かれているような一葉イメージを持っていたのであろう。あしらい上手な姉御風と感じていた節がある。

一葉死後妹邦子は大橋乙羽家に世話になり、姉の日記の散逸を恐れ、模写している。模写には感想文が続いている。

『薄紅梅』は泉鏡花晩年の中篇で、彼が若かりし頃に属した尾崎紅葉門下、硯友社を舞台にして、小説家の卵たちの恋と、背伸びした野心と、ちょっとした怪異とが綴られている。一応、明治期の閨秀作家である北田薄氷という人がヒロイン月村京子のモデルなのではないかという説もあるらしいのだが、このあたりは未詳。『薄紅梅』の抜粋を下に載せてあります。
泉鏡花

以下、「薄紅梅」の抜粋
十三:春頃出たんだ、『閨秀《けいしゅう》小説』というのがある、知ってるかい。」
「見ないが、聞いたよ。」
「樋口一葉、若松|賤子《しずこ》――小金井きみ子は、宝玉入の面紗《べール》でね、洋装で素敵な写真よ、その写真が並んだ中に、たしか、あの顔、あの姿が半身で出ていたんだ。」
「私もそうらしいと思うですがね、ほほほ。」
「おかしいじゃないか、それにしちゃ、小説家が、小説を、小説の貸本屋で。」
「ほほほ、私たちだって、画師《えかき》の永洗の絵を、絵で見るじゃありませんか。」
「あそうか、清麗|楚々《そそ》とした、あの娘が、引抜くと鬼女になる。」
十四:しかり、文金《たかしまだ》のお嬢さんは、当時中洲辺に住居《すまい》した、月村京子、雅名を一雪《いっせつ》といって、実は小石川台町なる、上杉先生の門下の才媛《さいえん》なのである。
 ちょっとした緊張にも小さき神は宿る。ここに三人の凝視の中に、立って俥を呼んだ手の、玉を伸べたのは、宿れる文筆の気の、おのずから、美しい影を顕《あら》わしたものであろう。
十六:また……ああ惜しいかな、前記の閨秀《けいしゅう》小説が出て世評一代を風靡《ふうび》した、その年の末。秋あわれに、残ンの葉の、胸の病《やまい》の紅《あか》い小枝に縋《すが》ったのが、凧《こがらし》に儚《はかな》く散った、一葉女史は、いつも小机に衣紋《えもん》正しく筆を取り、端然として文章を綴ったように、誰も知りまた想うのである。が、どういたして……
 ――やがてこのあとへ顔を出す――辻町糸七が、その想う盾の裏を見せられて面食《めんくら》った。糸七は、一雑誌の編輯にゆかりがあって、その用で、本郷丸山町、その路次が、(あしき隣もよしや世の中)と昂然《こうぜん》として女史が住んだ、あしき隣の岡場所で。……
おい、木村さん、信さん寄っておいでよ、お寄りといったら寄っても宜《い》いではないか、また素通りで二葉屋へ行く気だろう―
にはじまって、――ある雨の日のつれづれに表《おもて》を通る山高帽子の三十男、あれなりと取らずんば――と二十三の女にして、読書界に舌を巻かせた、あの、すなわちその、怪しからん……しかも梅雨時、陰惨としていた。低い格子戸を音訪《おとず》れると、見通しの狭い廊下で、本郷の高台の崖下だから薄暗い。部屋が両方にある、茶の間かと思う左の一層暗い中から、ひたひたと素足で、銀杏返《いちょうがえし》のほつれながら、きりりとした蒼白《あおじろ》い顔を見せた、が、少し前屈《まえかが》みになった両手で、黒繻子《くろじゅす》と何か腹合せの帯の端を、ぐい、と取って、腰を斜めに、しめかけのまま框《かまち》へ出た。さて、しゃんと緊《しま》ったところが、(引掛《ひっか》け、)また、(じれった結び)、腰の下緊《したじめ》へずれ下った、一名(まおとこ結び)というやつ、むすび方の称《とな》えを聞いただけでも、いまでは町内で棄て置くまい。差配が立処《たちどころ》に店《たな》だてを啖《く》わせよう。
 ――「失礼な、うまいなり、いいえね、余りくさくさするもんですから、湯呑で一杯……てったところ……黙ってて頂戴。」――
 端正どころか、これだと、しごきで、頽然《たいぜん》としていた事になる。もっとも、おいらんの心中などを書く若造を対手《あいて》ゆえの、心易さの姐娘《あねご》の挙動《ふるまい》であったろうも知れぬ。


泉鏡花の一葉への誤解は「にごりえ」の中のお関と同じような人間と混同しているようです。

http://www.meijigakuin.ac.jp/~siryokan/souritsu.htm

島崎藤村

上田 敏
「上田敏」の印象
優なるは上田君ぞかし、これも此頃打しきりてと来る。されども此人のは一景色ことなりてよろずに学問のにおひある。洒落のけはひなき人なれども、青年の学生なればいとよしかし二十八年十月

「星野天知」の印象
一葉を世に出したのは星野天知と平田禿木の文学界の2人と、半井桃水、田辺花圃なども忘れてはいけない。とりわけ文学界の2人の功績は大きい。

星野君はじめて来訪。かねておもひしにはかはりて、いとものなれがほに馴れ安げの人也」「小作りにて色白く、八丈もめんのきものに黒もん付の羽織り二重まわしをりて来たりき」

「星野天知が見た一葉」
窓際に二十四、五とも見える色の浅黒い、小さいけれども少し猪首な町屋娘が座っている。之が今日訪ねた女史である。其黒目勝ちの光りと反動的の覇気とが先ず吾眼を射た(文学界と一葉女史)星野天知「其の才筆は無論だが、世間苦労の拗ね方がレファインされて居る所が尊い」と的確な一葉の評価を与えている。文学界が祈りだした此一輪の名花という自負を持っていた天知は博文館に持っていかれるのが苦々しかった。

売文というには嘲罵の意味で、同人文学界は原稿料を払わなかった。しかし、星野の裁量で「北村透谷、一葉」だけには原稿料を進呈した。
北村透谷
(一葉の家に伺う途中止めて帰り自殺している。一葉は私に会ってくれればと悔やんだ)

萩の舎の花圃がもう少し洒落っ気があればと評した、其の一葉が上田敏に対して学者過ぎるという変りようを、花圃は知らなかったろう。一葉がこの数年間の苦労が人間の幅を大きくしたことを。最後に訪れた時、「霊魂不滅」について語った。上田は一葉死後、根も葉もない中傷、噂に反論して、品よく育って、言葉遣いなど淑やかな、上品な人と評した。「わかれ道」を傑作とした。上田敏は「海潮音」の名訳者

「島崎藤村」は「一葉さんは進んで人の処へ出かけていって華々しく推し回すというような、派手な遣り方の人ではありませんでした」「自分の家で面白い世界を作られた」「女史の会話は、機智、冷嘲、同情相交つて、殆ど応接するにいとまが無いくらいであった」「若い婦人の情熱と、年老いた婦人の賢さとが、ふしぎなくらいあの人には結びついている」「どの作にも婦人としての強い訴へがる」「私は女としての一葉をあまり好まなかった」「そうして、一葉の日記を見ると、彼女の方でも亦た私には殆ど交渉の無かったことが分かる」。一葉の日記には島崎藤村が出てこない、一葉は藤村の訪問を受けている。そうすれば一葉のことだから、藤村について書くはずである。しかしない。藤村の記述を発表前に、馬場孤蝶に削除を願い出た可能性がある。それとも一葉には藤村に書くべきことがなかったか。
前列左から上田敏(柳村)、星野天知、戸川秋骨、星野夕影、
後列左から島崎藤村、馬場狐蝶、平田禿木(明治27年)

明治28年春に写したもので、 
前列左から馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村 
後列左から上田敏・川上眉山

藤村、秋骨、孤蝶らが参加した浪漫主義文学の運動の中心的雑誌である。
文学界の同人たちは、一葉に遠慮して、西洋文学を語らなかった。小学校中退の一葉にとっては、彼らの文学談義を聞いているだけで、多くのしらなかった知識が身に付いていった。戸川残花から借りた、「罪と罰」を読み漁り、秋骨の「変調論」を愛するすねものと、「一葉・われは女なりけるものを」藤本精一郎「自由婦人」昭和二十三年九月に島崎藤村が同級の秋骨の書いた、一葉が読んでいることに対して「変調論を愛読するやにて、実にめずらしきすねものと在候」変調論は「罪と罰」の秋骨の書いた独断的評論。と星野天知宛てた書簡明治二十七年に書いている。秋骨が書いた「罪と罰」の評論が「変調論」

『島崎藤村』
近頃偶像破壊者が起こってきた。新派の婦人がしきりに一葉破壊を企てている。あの日記が公開されてからだ。もし一葉に優れた所があるなら、破壊されたあとでも優れたものに相違ない。・・仮に今日の婦人文学者が一葉の時代の文学の空気の中に居て、身を一葉の位置に置いたとしたらどうだろう。今の時に偶像破壊者であることは左程骨の折れないことではあるまいか。何故というに、大抵の人が皆偶像破壊者だから。

破壊された後、一葉には何が残るだろうか。大音寺前の活書は後になって見ても矢張り好いに違いない。当時の文学の空気の中で、あれだけ自分の創作を日常生活に近づけたことや、あの才気ある凡俗の観察や、女としての激情などは一葉の価値を定めさせるものであろうと思う。大正七年十月

一葉が読んだという「罪と罰」 内田老鶴訳
戸川残花が貸したようである。
戸川残花
(新人時代の田山花袋、島崎藤村の面倒をみたり、樋口一葉に縁談をすすめたエピソードがある。戸川の妹が一葉に習いに来ていた。)

罪と罰:ラスコーリニコフが、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持 つ」という独自の犯罪理論をもとに、金貸しの強欲狡猾な老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企てるも、殺害の現場に偶然居合わせたその 妹まで殺害してしまう。この思いがけぬ殺人に、ラスコーリニコフの罪の意識が増長し、発狂していく。

しかし、ラスコーリニコフよりも惨憺たる生活を送る娼婦ソーニャが、家族のためにつくす徹底された自己犠牲の生き方に心をうたれ、最後に自首をするまで様々な葛藤をして、人間回復への強烈な願望を訴えたヒューマニズムが描かれた小説。

ドストエフスキーが借金と賭博ですってしまった金銭を補うために罪と罰を書いた。一葉の境遇も竜泉寺時代が無かったら、「たけくらべ」は出来てはいなかった。竜泉寺でも、決め手は裏に庭があって、平安の王朝時代のような風雅な気持ちをこの庭に持ちたかったという一葉の願いで、場所は何処でもよかった。たまたま竜泉寺であった。しかし、ここでの生活は、長屋同士、むき出しの人間関係、性が乱れて、欲望がむき出しの実態、雑貨、駄菓子の仕入れ交渉、運搬、薄利多売でなかなかまとまったお金が入らない現実、妹邦子が止めるのも、嫌となるとすぐに辞めて、最後の丸山福山町へ転居していく、この二つの土地が「たけくらべ」「にごりえ」を生み出すきっかけになった。

その意味でも、ドストエフスキーと同様に、追い込まれた結果出来上がった作品であるが、これが生涯の最大の傑作となるという皮肉な結果は両者同様である。一葉はこの時点から、本当に変った。落ちてみて、落ちてみなければ分からない、本当の心を書き連ねられる作家となった。母たきはまだまだ見栄っ張りであった。娘の心も知らないで、母のんきだね。一葉は文学界の秋骨の「変調論」に興味を持った。「変調論」は小説「罪と罰」の評論であるが、この変調論では、主人公の肯定的な書き方をされていたので、一葉が興味を持ったことに藤村は驚くが、ラスコーリニコフを狂気に追い込んだ、青年期の見えざる敵におののく挑戦としての行動という解釈に一葉の心に響いたのでしょう。この「罪と罰」は二巻しか出なかった。すなわち未完の本でした。これはそれ以降の内容が一般受けしないので出版されなかったらしい。

一葉は主人公の青年ラスコーリニコフの持つ反抗精神に魅かれた。

一見の価値あり:明治28年に、この写真は、宗教家で歴史家でもある戸川残花が「太陽」に掲載したが、政界の一部の圧迫を受け、やむなく佐賀藩の学生達として紹介された。

http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html 
一度写真見てください。本当かと目を疑う人たちの顔触れに驚きます。篤姫ゆかりの人たち、孝明天皇の子供である明治天皇が映っている。まさかと思う写真です。小松帯刀、西郷、大久保、勝、伊藤博文、高杉晋作、坂本竜馬、桂小五郎などなど。本当ですかね?

 鴎外、露伴、緑雨

『鴎外・幸田露伴・齋藤緑雨の三人冗語』 に一葉を加えて「四つ手あみ」として4人でおこなう話になっていたが、一葉は断りの手紙を書いている。実現していた面白いものになっていただろう。お金持ちの鴎外北海道から舞い戻って小説を書いた露伴、世の中をシニカルに見る緑雨、それに紫式部以来の日本の小説家一葉の話については、どのような展開になるのだろうか。

脱天子(露伴)、登仙坊(雨緑)、鐘禮舎(鴎外)の名前で三人冗語は出ている。「霹靂車」「雲中語」などのコナーを設けて当時の創作その他の合評に筆をふるった。日清戦争後、「しがらみ草子」は終刊し、明治二十九年に文芸誌「まさまし草」の創刊号に一葉の賞賛の文が載った。
*「わかれ道」を「作者一葉樋口氏は処女にめずらしき閲歴と観察とを有する人とお覚ゆ。筆路は暢達に越えたり」として、「十三夜」「やみ夜」の作品も評価した。


「めさまし草」の巻の四に掲載された「たけくらべ」評
「たけくらべ」についての三人冗語の評
われはたとえ世の人に一葉崇拝の嘲りを受けんまでも、此の人にまことの詩人という称を送ることを惜しまざるなり」鴎外

たけくらべ出でて、復た大音寺前なしというべきまで、彼地の「ロカアル、コロリット:地方色」を描写して何の緊迫せる筆痕をも止めざるこの作者は、まことに獲易からざる才女なるかな
此作者の此作の如き、時弊に陥らずして自ら殊勝の風骨態度を具せる好文字を見ては、我知らず喜びの余りに起つて之を迎へんとまで思ふなり」「多くの批評家多くの小説家に、此あたりの文字五六字づつ技量上達の霊符として呑ませたきものなり」露伴

抒情詩人、芸術、耽美的一葉像が生まれた。
当時は「たけくらべ」を評価しない人は評論家ではないかのような風潮になっていた。
緑雨は「泣きての後の冷笑」一葉の中に秘められた激しい憤懣と抗議、そうして鋭いアイロニイと、深いペシミズム、さらにはシニシズムの精神を発見している。

特に鴎外は戦闘的啓蒙家として文壇(坪内逍遥)や医学界において攻撃的な批判を行った。しかし鴎外は一葉の葬儀に出ようとしたが、密やかに葬儀を行う一葉一家には似つかわしくなかった。このあたりが庶民の目線で小説を書き、庶民の苦しみを知った一葉と栄耀栄華を得た鴎外のこころの持ちようが異なっていた。これが幸田露伴と距離を置くことになる。

関良一  樋口一葉・考証と試論で晩年の一葉の日記に「わがこころざしは国家の大体にあり」「誠にわれは女成けるものを、何をおもいありてそはなすべき事かは」を挙げて一葉は単なるロマンチスト、感傷的な女性でなく、女なるがゆえにその志の実現されないことを嘆かねばならなかった。

「めさまし草」 まきの一からまきの四 明治29年1月から4月 盛春堂
明治29年1月から35年2月までに56冊を刊行した文芸雑誌。森鴎外の『しからみ草紙』を引き継ぎ発行され、鴎外・幸田露伴・齋藤緑雨による匿名合評「三人冗語」が権威あるものとされた。29年6月に樋口家を訪れた鴎外の弟・三木竹二から、一葉を加えた四人による「四つ手あみ」と称する合評計画が持ちかけられたが、一葉は断っている。

「こぞの秋、かり初に物しつるにごりえのうわさ、世にかしましうもてはやされて、かつは汗あゆるまで評論などのかしまししき事よ。十三夜もめずらしげにいいさわぎて、女流中ならぶ物なしなど、あやしき月旦の聞えわたれる、こころくるしくも有るかな。しばしばおもうて、骨さむく肉ふるはるる夜半もありけり。かかるをこそは、浮世のさまというべかりけれ。かく人人のいひさわぐ、何かはまことのほめこと葉なるべき。ただ女義太夫に、三味の音色はえも聞わで、心をくるはするやうのはかなき人々が、一時のしさびに取はやす成るらし。されども、其声集まりては友のねたみ、師のいきどほり、にくしみ、恨みなどの、限りもなく出来つる、とてあさましう情なくも有かな。嘘名は一時にして消えぬべし。一たび人のこころに抱かれたるうらみの、行水の如く流れさらんか、そもはかりがたし、われはいちじるしく、浮世の波というものを見そめぬ。しかもこれにのりたるをいかにして引もどさるべき。あさましのさま少しかかばや。」「水の上」明治二十九年一月

一葉はめさまし草にて激賞された「十三夜」の批評も冷やかに、すね者の噂さ通り素直に喜べない。彼女の今までの人生の中で、世の中をこのように、手放しで喜ぶほど御めでたく育ってこなかった。何かまた、足元をすくわれるようなことが起きないかと不安と疑心暗鬼の中で、複雑に揺れ動いている。

文藝倶楽部に一括掲載の「たけくらべ」について、「まきの四」に評論が載り、一葉の評価は最高潮に達した。5月2日夜、この「まきの四」を持参した平田禿木・戸川秋骨から一葉は内容を知らされた。「二人はただ狂せるやうに喜びてかへられき」だったが、一葉は覚めていたようで、日記には明確な気持ちを記していない 。

『文学界誕生』
北村透谷、星野天知、島崎藤村、馬場孤蝶、戸川秋骨、平田禿木らと「女學雑誌」に拠り、文学の自立を掲げて巌本善治から離れ、『文學界』を創刊することとなる。

巌本善治(クリスチャン)は明治23年森鴎外の「舞姫」が発表された。その中で処女を孕ませる下りに激怒した。

『森鴎外』
数々の作品や、留学先のドイツから女性が来日し、1ヶ月でドイツにもどり、一生文通を続けた。脚気細菌起源説で陸軍の兵士を脚気で多くの死者を出したことも汚点の一つとして語られている
一葉、与謝野晶子 、平塚らいてう を応援した。

軍服を着ている時文学の仲間から声をかけられた時、場合をわきまえろ、私は今、文人でなく、軍人だから声をかけるなと叱ったという。また出かけるときは軍服をきちっと着て出かけたのだが、徽章が軍医なので、子どもらが軍人さんだと寄ってきたが、なんだ、軍医かを去って行ったことに非常にショックを受けたという話が伝わっている。

与謝野晶子は明治三十三年、三十四年にかかれた「みだれ髪」が有名である。その前に一葉がいる。時期的には一葉はいい時代で、与謝野晶子の時代には一葉の文は読めなくなっていたのではないでしょうか。しかし、与謝野晶子は裕福な家庭の子供であって、一葉のような金銭的な苦労をしていない。作品は文学青年のロマンを湧き起こさせるものが多いのが一葉の社会の底辺に暮らす、苦しみを描いたが、与謝野晶子は直接的に恋、夫婦愛、弟愛を直接的なことばに歌いかけた。

七日母君ちの道気にて なやましうせさせ給ふ 午前浦嶌の妻来りて郵便をたのむかきてやる 午後西村の礼助あそひに来る夕ぐれまてありたりかゝりしほとに馬場 平田の二君上田柳村君を伴ひて来られしに
西村釧之助

ここに出てくる西村は、西村釧之助:母多喜があやめ時代、旗本稲葉大善に勤めていた時、家中に森良之進がいて、同家腰元ふさ と結婚した。これは父為之助、母あやめの媒酌によった。以来、樋口家、森家は親戚同様の交際をした。維新後稲葉家は静岡に従ったので、森夫婦は主家を離れ、一時樋口家に寄宿した。

一年半後、常陸の邦東宮後村に帰農し、名主西村左中方に復籍し、西村信夫となのった。その長男が釧之助である。上京し、豪西精舎塾に入るにあたり、則義が保証人になる。釧之助は小石川表町に店をだし、相当繁盛した。則義は曾て、森良之進を妻あやめの弟として届け出たことがある。

一葉は釧之助をいとこと思い、其の母きく(ふさ)を叔母と思うような間柄になっていた。一葉は竜泉寺に転宅する時、金子五円に工面を頼むも断れて「かれほどの家に五円・十円の金なき筈はあらず。・・・男の身のなさんとならばならぬべきかは、何ぞや釧之助風情が前にかしらを下ぐるべきかは」と西村釧之助に対して一葉は怒る(一葉に金を貸さない不義理者は皆罵倒される、一葉自身は義理堅く金離れがよいのは母の影響か)。

釧之助は邦子を嫁に欲しかったが、桶口家の方で渋っている間に西村は結婚をしてしまった。しかし、一葉没後、邦子は転々としたが西村家で手伝いをしている吉江政次と邦子は結婚し、西村の礫川堂を引き受け没するまで繁盛した。
その当時の樋口邦子;美しく、聡明である。一葉の後に生まれて父の最盛期を過ぎて、家運が傾いてからの経験しかなかったので、生まれた時から貧しさを知っていた。西村釧之助(すでに述べてある)は邦子を嫁にと言っていたが樋口家で渋っている間に結婚してしまった。

若松賤子(巌本甲子)元治元年3月1日(1864年4月6日)
明治29年(1896年)2月10日)言文一致小説 

一葉は先輩若松しず子の小説を読んでいた。賤子は宣教師の教育を受けた。幼女となり7歳で、日本最初の女性宣教師・キダーが開く英語塾に入学しますが、養父の経済的事情で一時中断します。塾が寄宿制のフェリス・セミナリー(現・フェリス女学院)として再開されると、賤子は復学し18歳で卒業しました。成績優秀な賤子は母校の和文教師となる。「小公子」の翻訳で知られる。旧姓、松川、会津若松出身戊申戦争で一家離散する。横浜の商人にひきとられる。明治29年結核にて32歳で死亡。巌本 善治と結婚、善治は明治16年洗礼を受け「基督教新聞」主筆、「女学雑誌」明治18年刊行する。「文学界」の若いメンバーは巌本 善治を敬遠した。若松賤子も準じて「文学界」には一文も執筆していない。一葉と生活環境が違い、教訓的な作風にはなじまなかった。
巌本 善治(妻若松賤子) 田邊花圃を三宅雪嶺氏に紹介した。
一葉「この子」は賤子的文体を真似て母子の愛情を描いたが、母の経験の無い一葉には心理描写は心を打たない。

妹のために生きてきた。一葉は自分だけの欲する女の自由を作品に果たそうとしたのが、人妻の恋を、世間の仕来りに縛られない愛情の世界を描こうとしたのが「裏紫」「われから」であると思う。ここから一葉は一枚脱皮をはかろうとしていたのだが残念です。


田沢稲舟
田沢稲舟(本名・田澤錦)は1874(明治7)年12月28日、旧鶴岡五日町68番地(現・木根渕医院)に医師、田澤清の長女として生まれた。3歳下には妹・冨がおり、女二人姉妹。医師の父と事業家の母(米相場・銭湯経営等)のもとに何不自由なく育ち、早くから文学=自己解放=に目覚め、朝暘小学校高等科卒業と同時に上京、当時人気があった作家、山田美妙に師事し、結婚、離婚、その後も文学修行に励んだ。しかし、1896年(明治29)年9月10日、21歳10カ月の短い人生を終わった。

山田美妙
http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp09.html
一葉に比し稚拙であるが、当時としては、画期的な題材を扱っている。

http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_83d6_1.html
山田美妙と結婚するが数ヶ月で離婚。一葉は羨ましかったと見え「うたかた」には狂おしく乱れた文字が残っている。一葉より二ヶ月早く22歳で亡くなっている。山形の故郷は稲舟を受け入れなかった、彼女も不遇の人だった。
かわいそうじゃ涙!!

一葉の日記に稲舟が訪れたことが記載されている。日記に大きく書かれた稲舟という文字に一葉を突き動かしたものは何だったのだろうか?稲舟も一葉を訪ねるぐらいだから、一葉の作品に敬意を持っていたのだろう。わざわざ訪ねるのは稲舟は性格は好いのでしょう。そのために早死にしたのかと思うと、したたかな一葉も後を追うように亡くなる、明治は厳しい時代だったようです。また、一葉と稲舟の間には何らかの交流があったらしく、1895年夏ごろの記述と思われる一葉の歌稿「うたかた」の中に、「いな舟 かのぬし 稲ふね かのぬし参られ候 田澤 田澤 田澤」という書き込みが見られる。

我を訪ふ人十人に九人までは、ただ女子なりというを喜びて、もの珍らしさに集ふなりけり。さればこそ、ことなる事なき反古紙作り出ても、今清小よ、むらさきよと、はやし立てる。二十九・五・二

「あやしうも心ほそうもある事かな」
今清少納言、紫式部と女子小説家であることに、興味が行き、一葉は女性ゆえの持て囃されていると思い、複雑である。

一葉は明治二十九年多忙な年を迎えた。文壇の有名人が足しげく訪れるが、一葉はいま一つ浮かばない心境である。

「雨じたりの音軒ばに聞えてとまりがらすの声かしましきにふと文机のもとの夢はさめぬ。今日は二月二十日成きとゆびをるに大かた物みなうつつにかえりてわが名わがとしやうやう明らかに成りぬ。木よ日なれば人々稽古に来るべき也。春の雪のいみじう降たるなれば道いとわるからんにさどな詫びあへるならんなどおもひやる。みたりける夢の中にはおもふ事こころのままにいひもしつ、おもへることさながら人のしりつるなど嬉しかりしをさめぬれば又もうつせみのわれにかへりていふまじき事かたりがたき次第などさまざまぞ有る。
しばし文机に頬づえつきておもえば誠にわれは女成けるものを何事のおもひあるとてそはなすべき事かは。」


空蝉(うつせみ)とは、「この世・この世の人」のことです。「現(うつ)し臣(おみ)」、つまりこの世の人ということから、「うつせみ」と変化したという説があります。万葉集では、空蝉・虚蝉・打蝉と表記されます。この世の中は、蝉のぬけがらのように仮のもので、はかないものだという感じがあったのでしょうか。

『星野天知』は「文学界」の編集者であった。芭蕉、西行、吉田兼好法師、鴨長明といった古典文学への共感に加えて、西洋文学の影響もあり、明治ロマン主義の中心的雑誌。同人には、平田禿木、北村透谷、馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村、戸川残花、上田敏、客員は田山花袋、国木田独歩らがいたが、なかなか原稿料は払われなかった。しかし一葉には必ず支払われた。一葉を世に出した功績は大きい。男として一葉には距離を置く姿勢とり続けた。同人達と異なり。その後は博文館という大手の出版社にとってかわる。これは馬場孤蝶が文学界の星野天知の方針に不満を持っていて、一葉も同調したと思われる。

『大橋乙羽』
博文館の編集者、一葉を名実共に一流作家に育て上げた。

「太陽」「文芸倶楽部」という人気雑誌を発行していて、一葉の主要な作品は、特に「文芸倶楽部」に「たけくらべ」を一括再掲載して、これを読んだ、幸田露伴、森鴎外、斉藤緑雨が雑誌「めさまし草」の合評欄「三人冗語」において、一葉の才能を絶賛し、一躍文壇の寵児となった。乙羽の一葉になした功績は大きい。
http://www.books-yagi.co.jp/pub/pages/taiyou/TAIYOU_01.HTML
http://d.hatena.ne.jp/T-kozou/20070605
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E6%96%87%E9%A4%A8

1:「閨秀」の時代 ――明治20年代
『女學雜誌』の「閨秀」 明治23年、『女學雜誌』に中島俊子、清水豊子ら8名の〈女性〉が記者として登用される。その地点を出発点に、その後「三閨秀」として小金井喜美子、若松賤子、田辺花圃らの作品 [小説]田辺花圃「藪の鶯」、清水紫琴「こわれ指輪」

2:『文藝倶樂部』の「閨秀小説」特集 ――明治28年
上記の「三閨秀」に樋口一葉、田澤稻舟、北田薄氷ら“新進の”〈女性作家〉を加えた形で、博文館の雑誌『文藝倶樂部』より「閨秀小説」特集号が刊行される。国内で初めて作家の肖像写真が掲載されたことでも知られる。[小説]樋口一葉「にごりえ」「十三夜」、田澤稻舟「しろばら」
文藝倶樂部第十二編臨時増刊
閨秀小説
大橋乙羽が女流小説家の秀でた人を特集に組んで、売り出そうとした雑誌で、口絵に若松賤子、小金井貴美子、樋口一葉の写真が出ている。この一葉の顔写真が出たことでひと悶着あったそうな。「十三夜」一葉女子、「やみ夜」なつ子、「はしがき」中島歌子、花圃、「わしれがたみ」若松賤子、「黒眼鏡」北田薄氷、「暮ゆく秋」大塚楠緒、「いろばら」稲舟、「名誉夫人」小金井喜美子、漱石の愛する大塚楠緒さんが出ています。大塚楠緒は漱石の友人の妻で、35歳で死亡している。漱石の楠緒への歌「ある程の菊投げ入れよ棺の中」と死を惜しんでいる。

小金井貴美子こがねい きみこ 翻訳家・小説家 1870.11.29-1956.1.26 石見国(現在の島根県)に生まれる。当時女子の最高学府であった東京女子師範学校付属女学校に学び、文学に親しむ。実兄森鴎外が主宰する『しがらみ草紙』を中心にアンデルセン、ハイゼ、レールモントフ などの翻訳を発表し、「若松賤子と並ぶ閨秀の二妙」(石橋忍月)と絶賛された。鴎外が『スバル』を創刊すると「子の病」「春の日」などの小説を発表し、晩年には佐佐木信綱や与謝野晶子らに短歌の指導を受けて歌文集『泡沫千首』を自家出版した。他に『森鴎外の系族』『森鴎外の思い出』などがある。掲載作は、明治二十八年(1895)十二月発行の『文藝倶楽部第十二編臨時増刊閨秀小説』(博文館)初出。

北田薄氷きただ うすらい 小説家 1876.3.14-1900.11.5 大阪府生まれ。女子文藝学舎(現在の千代田女子学園)に学ぶ。明治二十五年(1892)初めて小説を書き、父が春陽堂主和田篤太郎と知り合いだった縁で、和田から尾崎紅葉の紹介を受け門をたたく。薄氷の号は紅葉が名付けたものである。樋口一葉の才知には及ばなかったが、 貞節な女性の哀切を反俗的に描いた作品を短い間に生み出した。明治三十一年当代の売れっ子画家梶田半古の後添えとなり、梶田薄氷名でも作品を発表したが、明治三十三年、二十四歳で腸結核でなくなる。 掲載作は明治二十九年(1896)「文藝倶楽部」に初出。

文藝倶楽部 第参巻第二編臨時増刊 第二閨秀小説 「うつせみ」
         明治30年1月20日発行 博文館

第二号では、左上石槫わか子、田沢稲舟、左下北田博水、伊藤簪花の顔写真が出ている。

田沢稲舟本名は錦(キン)・錦子(キンコ):樋口一葉は1872(明治5)年生まれで、稲舟はそれより若く生年は1874(明治 7)。と同時代の作家である。明治20年代は女性作家が数多く出て活躍し、平安朝以来の女流文学隆昌の時代といわれた。

中でも一葉と稲舟は一頭地を抜いており、1895(明治28)年12月号『文芸倶楽部』では一葉の「十三夜」「やみ夜」と稲舟の「しろばら」「片恋」、1897年(明治30)年1月の同誌には一葉「うつせみ」と稲舟「唯我独尊」が同時掲載されている。

大評判となった明治28年12月「閨秀小説」ですが、
既に一葉は亡く、「第二閨秀小説」の最後を飾るのが一葉の「うつせみ」で、一葉と同じ29年に死亡した田澤稲舟の「唯我独尊」も収められている。
一葉関連の人物一覧 http://homepage3.nifty.com/bishouan/jinbutu-1.htm

3:女流作家」の誕生 ――明治30・40年代
『青鞜』
明治44年発刊の〈女性の手による、女性に向けた〉雑誌『青鞜』は、見方を変えれば、〈女性〉が自らを囲い込んでいったとも考えられる。様々なジャンルの集合体でもあるこの雑誌の中で、彼女たちはどのような言葉と方法によって自らを表現したか。 [小説]田村俊子「あきらめ」「女作者」「生血」

田村俊子本名、佐藤とし。東京浅草蔵前生れ。東京府立第一高等女学校卒業、日本女子大学校国文科中退。没後、田村俊子賞が創設された。代々続く札差だったという米穀商の家に生まれる。1902年に幸田露伴の門下に入り、露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を発表するも、露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる。女優としての芸名は花房露子。しかし文学への意欲は失われず、1909年に結婚した田村松魚の勧めで書いた『あきらめ』が、1911年大阪朝日新聞懸賞小説一等になり文壇デビュー、その後「青鞜」、「中央公論」、「新潮」に次々と小説を発表し、人気作家となる。しかしそれも長くは続かず、1918年、朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、松魚と別れバンクーバーへ移住。1936年、悦の死去により18年ぶりに帰国。日本で小説家としての活動を再開したが、かつての筆力はなく、また佐多稲子の夫である窪川鶴次郎との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ、上海で脳溢血により客死した。享年62。

当時の女流文学は、男性に比べて人生を見つめる深さとか、構成力の未熟さなどで完全に劣っていた。一葉は苦労して得られた生活の上の経験からの不屈の精神で耐え、生き抜いてきた実生活から得られた題材を扱い、抒情的精神に加えて実際に起こったことを踏まえた、実生活に立って書き記した点で、他の女流作家とは異なる。即ち、既成概念としての道徳やしきたりに対する反抗が希薄で類型的で、多くは悲劇で終わり、その悲劇が感傷的になり、葛藤の奥深く、実生活に根ざしていない点で一葉と異なる。明治のもうひとりの女性の与謝野晶子は裕福な家のお嬢さんでやはり、実生活に根ざして書くような立場ではなかった。夢見る少女のような作品で、一大ブームになったが、これも一葉の実生活の上に立って書いた先に、晶子が近代的なスタイル(ロマンと希望で若者の心をわし掴みする)ほんの少し前に出てきて、最後の古典を踏まえて書いた最後の小説家・詩人だった。

『半井桃水との出会い』― 一葉の人生に大きな影響を与えた人物―
明治二十四年四月、一葉は妹くにの友人(野々宮菊子桃水の妹の友人)の招介で桃水を訪ね、小説の指導お願いする。桃水の第一印象を下記のように書き記している。最初は一葉が生活に困っているので世帯が多い桃水一家の洗濯を請け負った。

十五日 雨少しふる。今日は野々宮きく子ぬしが、かねて紹介の労を取たまはりたる半井うしに、初てまみえ参らする日也。 ( 略 )  初見の挨拶などねんごろにし給ふ。おのれまだかゝることならはねば、耳ほてり唇かわきて、いふペき言もおぼへずのぶべき詞もなくて、ひたぶるに礼をなすのみ成き。「よそめいか計おこなりけん」と思ふもはづかし。君はとしの頃卅計にやおはすらん。姿形など取立てしるし置んもいと無礼なれど、我が思ふ所のまゝをかくになん。色いと白く面ておだやかに少し笑み給へるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん。おもむろに当時の小説のさまなど物語り聞し給ひて、「我思ふに叶ふべきは人好まず、人このまねば世にもて遊ばれず。日本の読者の眼の幼ちなる、新聞の小説といわば有ふれたる奸臣賊子の伝、或は奸婦いん女の事跡の様の事をつゞらざれば、世にうれざるをいかにせん。( 略 ) 我は名誉の為著作するにあらず、弟妹父母に衣食させんが故也。( 略 ) 君が小説をかゝんといふ事訳、野々宮君よりよく聞及び侍りぬ。さこそはくるしくもおはすらめど、しばしのほどにこそ、忍び給ひね。我れ師といはれん能はあらねど、談合の相手にはいつにても成なん。遠慮なく来給へ」と、いとねんごろに聞え給ふことの限りなく嬉しきにも、まづ涙こぼれぬ。

一葉は桃水に一目ぼれになる。しかし、萩の舎や周囲の説得などもあり、最後は一葉は桃水と決別することになる。この冷めた目で見る、一葉の桃水感は、熱にうなされている患者が、熱が冷めてすっきりした景色、周囲がはっきり見えるように、桃水を冷静に観察している。

色いと良く面おだやかに少し笑み給へるさま、誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ、丈(た)けは世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん(一葉「若葉かげ」)

桃水もまた後年下記のように一葉のことを述べている。
一葉死後数年後の一葉が訪れた時の記述。三指(みつゆび)で畏(かしこま)つてろくろく顔も上ず、昔の御殿女中がお使者に来たやうな有様で、万に一つも生意気と思はれますまいか、それのみ心を砕かれるやうでありました。(桃水「一葉女史」)

半井桃水の祖先が和気清麻呂ということらしい。

半井桃水は対馬藩の御典医、半井湛四郎の長男として万延元年に生まれる。
「眼に青葉、山ほととぎす、初がつを、垣根卯の花、さみだれの、ふるやの軒に おとづれて 朝顔の苗、夕顔の苗、藤豆いんげん 白粉の、苗売る声の おもしろや」半井桃水 

長唄「苗売」歌沢、長唄、常磐津に優れた詞を残している。

『日記発表の影響』
桃水は一葉亡き後、多くは語らず、決して一葉を悪く言わなかったが、日記が発表されてから世間の目を気にしてか、禿木は非常にショックを受けたらしいが孤蝶はあえて発表したため、鴎外とか藤村とかに色々波紋が広がり、露伴と鴎外の不仲にもつながる。

やうやう我心によの中の哀れといふこと思ひしるままに、月にも花にも感ふかく成(な)りて、心のうちにしのびがたきふしぶしをかたはしもらすにこそ、真の情はこもり侍れ、はかなきにおもひゆるしてしら露の哀れ玉よと君みましかば

最初の日記「若葉かげ」は小説の師半井桃水との出会いから始まり、以後ほぼ全編、恋の相手であった桃水を軸に書かれていることから、一葉の日記が恋愛日記とも呼ばれるゆえんです。
以後日記は引っ越しの度に、「蓬生日記」「しのぶぐさ」「塵中日記」「塵之中」「水の上日記」など変わっていった。

今日は道をかえてお堀端を帰る。・・・・・・堤の柳の糸長くたれてなびくは、人もかく世の風にしたがえへとにや、いとうとまし。引かへて松のひびきのたうたうとなるは、高きいさぎよき操のしるべ覚えて、沈みし心も引起すべくなん。秋の夕暮れならねど、思ふことある身には、みる物聞くものはらわたを断ぬはなく、ともすれば身をさへあらあらぬさまにもなさまほしけれど、親はらからなどの上を思い切れば、我が身一つにてはあらざりけりと思ひもかしつべし。あゆむともなしに、いつか九段の坂上には成ぬ。ここよりはいとにぎわしく、馬車など音絶えず、心せずばあしもとなどもあぶなでなり。猶おもひつづけてうつむき勝にくる様の、いかにあやしかりけん。道行人のおもてさのぞく様にするも、いとつつましく人わろければ、さしもみえじと思へど、猶おのずから色にももる成べし。家に帰りたるは、くらく成て成けり。

一葉日記には桃水に小説の書き方を教わりに行った帰り、遠回りして皇居のお堀端を歩いて帰る道すがらの心情を吐露している。

身をさへあらぬさまにもなさまほし」と思い詰め、悲しみに打ちひしがれている。
以前桃水から「余り和文めかしき所」多い、「俗調に」書くようにと言われている。

萩の舎で古典を学んでいた一葉が2ヶ月で俗調に書くことができなかった。桃水の性格から、厳しいことをいう人ではないでしょうが、一葉は書いていったものが、思い道りにいかないことにショックを受けて、このまま小説家として身を立ていけるのだろうか不安感にさいなまれていたのではないだろうか。桃水を待ち続け、粘って批評をもらった帰り、愛と小説の評価との複雑な心情を自自身、心がまとまらず、遠回りして、心を整理しながら帰ったのでしょう。

しかし、今では小説家としては一葉の方が立派に認められている。師に恵まれなかったのは一葉の不幸なのだろう。歌にしても中島歌子の指導では、才能が開花していないのは、一葉の才能か、師の指導なのだろうか?

桃水の一葉女史
「非常に年寄りめいて帯も夫に適当に好み、頭の銀杏返しも余り濃くない地毛ばかりで小さく根下がりに結った上、飾りといふものが更にないから大層淋しく見ました。どちらかと言へば低い身であるのに少し背をかがめ、色艶の好くない顔に出来るだけの愛嬌を作って、静粛に進み入り、三つ指で畏つてろくろく頭も上げず、肩で二つ、三つ呼吸をして低音ながら明晰した言葉使い、慇懃な挨拶も無論遊ばせ尽くし、昔の御殿女中がお使者に来たような有様で、万に一つも生意気と思われますまいか、何うしたら女らしく見るかと、それのみ心を砕かれるようでありました。私も始め弟妹も、殆ど口を酸っぱくして、座布団を勧めたが、とうとうこれも敷かず仕舞、二時間ばかり対話した為不行儀な我々は膝も足も折れそうに覚えました。二時間も対坐しながら、用事らしい用談もなく立ち帰つた夏子さんは、数日の後野々宮女史を介して私に申し込まれた、自分は小説を書いてみたい、是非書かしてくれといって四五日の後夏子さんは、仕立物を持って、私の宅へ参られました。野々宮さんから聞いていますが、私不賛成、男子ですら小説など書く時は、さも道楽者のように世間から思われる、況やご婦人の身で種々の批判を受けるのは随分苦しい事であろう、且つ貴嬢の体質も余り強い方とは認めぬ、願わくば他の方面に、職業をお求めなさいと、言葉を尽くして諫めましたが、何分針仕事位では母と妹を十分に養う事も出来ぬ、如何なる批評も甘受するから、是非ということでありました。」

その後、一葉は「闇桜」を武蔵野の第一号に記載した小説であります。武蔵野は三号で廃刊となる。

桃水は一葉に距離を置いていたことを述べる
「私は貴嬢を女として見做して交はりません、貴嬢も私を男と思って下さらんように願いたい、さもなければ何事にせよお互いに遠慮があってお話も出来かねる」と畑島桃渓、小田果園の面前で約束しました。

かなり予防線を張って答えています。余計にあやしく感じますが、いかがでしょう。

女史は博く覧洽く聞て、普通の婦人の知らぬ事まで能く注意して居られました。夫ゆえ女史の作物を見て「此奴ただものでない」という考へを起こした人もあつたやうです。併し私の見た女史は普通よりも物優しい憫れっぽい謹深い、恥ずかしがりの苦労性で、到底恋愛というような事を思立つ程の余裕もなく、どちらかといえば偏屈な事に比べては四五十も心の老た婦人でありました。

故斎藤緑雨氏の如きも始め私の話を聞いて「夫は貴君の処だけで殊勝げに見せ掛けるのだ僕一番近寄って化けの皮むいてくれる」と大層力んで居ましたが、女史と親しく交わった後「全く貴君の言った通り僕の観察は誤った」と話されたことがあります。「中央公論」明治40年6月号

この内容を一葉が聞いたらどのように思っただろうか、かわいそうな気がします。

まあ、一葉日記を読んだ後、10年後のコメントですが、なんと言いいましょうか、降りかかる塵を払いのけるような物のいいようで、一葉の勝手な思い込みで、私桃水は迷惑していると言わんばかりで、一葉に聞かせたい、いや聞かせないで24年間の生涯でたった1年間の恋を大切にしてあげたい。「恋する一葉は素敵さ~・・・」で没した方がよかったのかもしれない。

内容はいたって突き放した一葉論で、親しかった桃水の妹からも、桃水は綺麗な人が好きで、一葉は眼中になかったと述べている。火の粉を振り払うのはいいが10年以上たっての、一葉の心を無視し、突き放した話に、一葉が聞いたらと思うと哀しくなる。一葉の一方的な片思いであったのか。あれだけ日記に熱い思いを書き連ねたのに。

桃水は晩年 わか(若枝)三十五歳と結婚している(美人:色男は辛いね!)。布施明のように何も語らないのがいいのかも。


桃水一家、両親、弟、妹の写真これが妻に誓った一生再婚しないという誓いを破りわかと結婚した写真。後年桃水は粋な老人になっている。
桃水・妻わか

五年ぶりにておかう君にあふ、取集めての吊詞などいふにこころうくただ涙ぐまれぬ、鶴田ぬしがはらにまうけし千代と呼べるがことしは五つに成しが、いとよく我れに馴れてはなれ難き風情、まことの母とや思ひ違へたる哀れ深し、ちよ様は我れをわすれ給ひしかとうふに房々とせし冠切りのつむりをふりて否やわすれずといふ、二階のはしごの昇りにくきを我が手にすがりて伴ひゆくも可愛く、茶菓子などはこぶをあぶなしといへども誰もてなふれそおお客様には我れがもてゆくのなりとてこまごまとはたらく、かかるほどに戸田ぬしが子も目さむれば、おかう殿いだきて来てみす、まだ生れて十月ばかりのほどならんいとよくこえてただ人形をみるやうにくりくりとせしさま愛らし、目もはなもいと小さくて泣く事まれなる子といふがうれしければ、抱き取りてふりつづみ見せ犬はり子まはしなどするに、いつとなくなれて我が膝にのみはひよる、こはあやしき事かな、常にをとなしき子なれども見馴れぬ人にはむずかりて手をもふれささず、此のほど野々宮様・大久保様などあやし給ひしにいたく泣入りてこうじけるを、今日はかく馴れ参らせてよろこび居る事とおかうどのいぶかる、半井ぬしほほえみて

  桃水の弟の子である千代と母親の鶴岡たみ子(桃水が千代を引き取る)
一葉の誤解参照

縁のあるなめりといひ消つ、すし取寄せくだもの出しなど馳走をつとむ、四年ぶりにて半井ぬし が誠の笑がほを見るやうなるが嬉しく、打くもりたる心のはれる様也、そのむかしのうつくしさはいづこにかげかくしたるか、雪のやう成し色はただくろみにくろみて高かりしはなのみいちじるく成りぬ、肩巾の広かりしも膝の肉の厚かりしもやうやうにせばまりやせて打みる所は四十男といふとも為ならず見ゆ、なつかしげに物いひて打笑むさま、さはいへど大方の若ざかりよりは見にくからず、ただ誠の兄君伯父君などのやうにおぼゆ、君はいくつにかならせ給う、二十四とや、五年の前に逢そめまいらせたるその折に露違はずもおはしますかなといひひてこころおく方もなく語る、此人ゆえに人世のくるしみを尽していくその涙をのみつる身とも思いひしらねば、ただ大方の友とや思ふらん、今の我身は諸欲脱し尽して仮にも此人と共に人なものおもしろき世を経んなどかけても思はず、はた又過にしかたのくやしさを呼おこして此人眼の前に死すとも涙もしそがじの決心など大方うせたれば、ただなつかしくむつまじき友として過さんこそ願はしけれ、かく思ひ来りて此人をみれば菩薩と悪魔を裏表にしてここに誠のみほとけを拝めるようの心地いひしらずうれし、日暮に近く暇ごひして帰らんとするに、さらば又此頃とはせ給へ、われも例の神鳴りのけなき折君がもとを訪はん、もろともに寄席にも遊ばばやなどいふ、下座敷に下りくれば、樋口様は帰らせ給うか我れも逢ひ参らせたかりしをとて父君出でおはします、又とはせ給へゆるゆる御物語りせばや、とてこれもかれもなつかしげなるがうれしく、暇をこひて出るこころ夢のやうなり、家に帰りて直に入浴、道にて雨にあふ、此よは大雨也、(日記「水の上」)

一葉の名も売れて、久しぶりに桃水に会いに行く。そこには一葉が誤解している桃水の子がいる。桃水のやつれた姿、しかし、一葉はその姿にも、心の兄と云うような支えとを感じている。以前のような熱は冷めているが、一葉がこの五年間辛酸をなめて成長した姿がこの日記には見られる。楽しく過ごした一日、かって恋焦がれた桃水からは少し距離を置いた書きように、一葉のこころの安らぎが感じられる。一家の写真の父親も出てくる。「此よは大雨也」で終わっている最後には自然とこころが調和して心地よい随筆を読んでいるようです。

塩田先生の桃水評
作家としては文学史上にれっきとした位置を占めるほどの人ではないが、人間としては、物の順序やきまりをよく心得た、世話好きで物わかりのよい、もことに出来た人物と思わざるを得ない。世話好きだから、随分女の世話もし、遊び人だからとりまわしもうまく、殺し文句もつぼを心得ていて、そのために誤解もされたようだが、実際は芯に頑固なところがあって、規を超えなかったというのが本当である」と記述されている。上の写真も桃水像を見ると、納得させられるコメントです。

一葉は桃水、中島歌子といい文学に対する師を得ることに、恵まれなかった。しかし、恋を知り、胸を焦がした一葉はそれ以上に人間的に成長したのでしょう。

そのむかしのうつくしさは、いづこにかげかくしたたるか。雪のよう成りし色は、ただくろみみくろみて、高かりしはなのみいちじるく成りぬ。肩幅の広がりしも、膝の肉の厚かりしも、やうようにせばまりやせて、打みる所は四十男といふとも偽ならず見ゆ。」二十八年六月三日日記
一葉は完全に桃水から覚めた目で実際の桃水を記述している。

一葉が三宅雪嶺・花圃夫妻の新居を訪ねて、その帰り、桃水の経営している神田三崎町の葉茶屋まで人力車で訪れたのが十一月十一日である。「ありし病ひの後は、いといたう、やせ、さいも見あぐる様成に人の細々と成むるに、・・・客といへばかしら下げ給うことのいたましさ。これをなわいとすれば、身にはつらしとも覚さざめるを、見る目はいと侘しい想いを誘いだされるばかりだった。」一葉が作り上げていた桃水が現実の姿が見えてきた一葉には、冷静に男を見ることができるようになった。しかし、この後竜泉寺に引っ越し、商売を始めて桃水のことがわかることになる。

本郷菊坂に住んでいるときに初めて桃水が「胡沙吹く風」が本になったのを持って訪れています。母は桃水を気に入ったようですが、妹邦子(野々宮菊子からの話を聞いていたので)は、どうも怪しいという感じを持ち、好きになれなかったようです。

桃水の大正元年八月「一葉女史の日記に就いて」女学世界
比類なき秘書(一葉日記のこと)が感情熾烈なる女作家の忌憚なき告白録として、人生に対する偽らざる観察誌として公刊せられたる上は、関係深き私が、多く書かれて居る、私が如何に女史を見ていたか、また如何に取り扱ったかを、参考として記される事も、強ち無益ではないと信ずる。私は何人に対しても、故女子とは親友であった、言得べくんば兄妹であったより以上の何事もなかったと、常に明言していたのである。私は少しでも女史の胸中を窺知していながら、偽り飾った訳ではない。実際女史の心には恋てふものの影だにも映る事を許されないと確信して居たのである。それゆえ一二の文士に付いて女子が恋物語りを伝えられた時も、私は一笑に附し去って、斯言った事を覚えて居る、女史は恋を歌ふ人で、実行し得る人ではない、女史は恋を理想化せしめたいと力ねる人で同時に理想の恋は歌ふべくして実現せぬということを知りぬいている人であると。私は日記に書かれている女史の文を見て、初めて女史が理想の恋の研究材料の一部に使われていた事を知った。それ以前は何事も一切知らなかったといふ外はない。

貴方は もう忘れたかしら 赤い手拭い マフラーにして 二人で行った 横丁の風呂屋「一緒に出ようね」って 言ったのに いつも私が 待たされた 洗い髪が芯まで冷えて 小さな石鹸 カタカタ鳴った 貴方は 私の身体(カラダ)を抱いて「冷たいね」って 言ったのよ 若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方のやさしさが 怖かった。

「神田川」南こうせつ、喜多条忠の歌詞で有名です。この歌の最後のただ貴方のやさしさが 怖かったは喜多条忠氏によると、最初のフレーズは女性側の心情が歌われています。この最後のフレーズのみ男性側のフレーズとして、このままの小さな幸せに浸っていると男として、これでいいのだろうかと不安を表わしていると述べている。

一葉の恋愛観を以下に述べます。

一葉は「厭ふ恋こそ恋の奥成れ」:みぐるしく、にくく、うく、つらく、浅ましく、かなしく、さびしく、恨めしくなどすべてを備えたものであった。

一葉も、このような恋に浸り、結婚や同棲などしたりすると、名作を書き得なかったのではないだろうか。稲舟を羨ましがった一葉は山田美妙との結婚に羨望の眼差しであったが、数ヶ月で離婚し、実家で再婚後、土地の理解が得られぬままに死んでしまった。このことは一葉が知っていたはずである。

羨ましかった稲舟が不幸な転帰をたどったことは、一葉にとっては象徴的であったろう。桃水に早く死んでいった兄、父の姿が、女の手で一家を支えることの辛さから、優しく、兄や父のように慕っていたのが、一葉の気持で、伊藤夏子女史が言うように結婚などは考えていなかったと思われます。生活ができないなら母親を連れて、お嫁に行けばよいと言われたと一葉は伊藤夏子女史に相談している。お嫁はそんな理由で行くものではないとイ夏ちゃんは云う。一葉は男をより好みしていたのではなく、はなから行く気はなかったのではないでしょうか。そうして成長して自分に自信ができてきた一葉は、もう既に桃水の兄や父親を慕うような時期は過ぎて、ただ懐かしい人になったのではないでしょうか。

桃水の友人の緑雨(朝日新聞時代からの)は皮肉屋で毒舌家は5月24日に一葉を訪れている。29日に「われから」の疑問を解くために現れた。二度の訪問にて、一葉日記に「此の男、かたきに取りてもおもしろき。みかたにつきなば猶さらのをかしかるべくて、眉山、禿木が気骨なきにくらべて、一段の上ぞとは見えぬ。逢えるは、ただの二度なれど、親しみは千年の馴染みにも似たり。当時の批評壇をののしり、新学士のものも知らずを笑い、江戸趣味の滅亡をうらみ、其身の面白からぬ事をいひ、かたる事四時間にもわたりぬ。暮れぬればとて帰る。車はかどに待たせ置つる也」と書いている。

緑雨は一葉を皮肉な女と見、また、「にごりえ」以後の小説は、みな、「泣きての後の冷笑」という結論をだした。いろいろと悪い噂があっても、一葉が自分の眼で確かめた緑雨は、自身の小説を眼光紙背に徹する読み方をした上で、まともに受け取ってくれた最初の人だと思った。

吉原で消し炭になって暮らしたいという緑雨の不満が、一葉の体の衰えた胸に響いた。また言葉がわかることが緑雨にはさらに響いた。

{消し炭は引手茶屋のごろごろして、早帰りの客を遊女屋へ迎えに行く男衆のことで、このような言葉が通じる一葉を緑雨は好ましく思った。}和田芳恵

半井桃水と知り合いになるきっかけは、一葉が萩の舎に入門した、明治十九年、妹邦子は敬愛学舎で英語を学び、和洋裁を習った。更に、本郷の木村裁縫伝習所に通った。ここで野々宮菊子と知り合い、菊子は築地に出来た東京府高等女学校に入った。伝習所に行っていて、桶口家が仕立物の仕事をしていて、註文主の斡旋を頼まれ、菊子の築地の同級生に半井幸子は桃水に妹であった。一家は桃水の弟妹書生と大人数なので、仕立物を頼んだ。一葉は仕立物を届けに行ったとき、桃水が新聞記者で,作家と知り、母滝子、妹邦子と相談し、野々宮菊子に仲介を頼んだ。
一葉二十歳、桃水三十二歳 二十四年四月十五日 「若葉かげ」

一葉は小説家になろうと相談したが、桃水は一葉に小説を書くことを止めるように言った。(当時、小説書きはまっとうな仕事と思われていなかった)。

一葉の小説は一般受けしなくて、桃水は小説指導は もう少し俗っぽく あまりにも古典的すぎて、世間受けがしないといわれる。一葉は花圃のように円転滑脱な才能と広い教養が無かったため、苦労した。生きるための文学であってはならないという気持ちと身体が弱い一葉には生きていくために文学をするしかない葛藤があった。桃水から戯作的文章をものにしていこうとあせっていた。

一葉は桃水から受けた指導は、まず趣向を立て、桃水の同意を得れば、その趣向にそって場面、場面を作り、それを物語として纏め、浄書したものを、桃水に届ける。会話、字句について若干の修正をし、誤字、仮名遣いを正すという、几帳面な方法だった。懇切に一葉を導いた。基礎的な作業の役割は果たしている。しかし、一葉の現実生活の取り組み、文学界の教養ある人たちとの交わりで、桃水との決別は仕方がなかった。

『一葉の誤解』
桃水は故郷の対馬から弟の浩、茂太、妹の幸子を引き取り、親代わりとして学校へ通わせていました。またこの家には幸子の学友で、福井県敦賀町出身の写真館の一人娘鶴田たみ子も寄宿していました。桃水の弟浩とたみ子が恋仲になり、たみ子が妊娠します。浩は当時独逸協会医学校に在学中で、いずれ祖父の家の龍田家を継いで医者になる立場にありました。浩は養子に行く身、たみ子は後継ぎ娘だったから二人を結婚させることは不可能で、困り果てた桃水は浩を退学させ、女学校を中退したたみ子を平河町に借りた一軒家にかくまい、密かに出産させました。生まれた娘千代は桃水が引き取って養育し、たみ子は敦賀へ帰郷させました。一葉は千代を桃水の子と思い込みます。このことは後に桃水本人の口からからはっきり否定されますが、一葉の日記を読む限り、死ぬまで誤解は解けなかったようです。

これには、同じく桃水を思っていた野々宮菊子も誤解を解いてやらなかった。多くの学歴と教職の身をおいて、重要な役職に付いた人でも、人間としていかがなものでしょうか。そ誤解のおかげで、一葉は桃水から分かれる決心をするが、思いは募るばかりであった。

萩の舎は一葉にとって、いい意味でも、悪い意味でも一葉の詩人としての才能を開花させ、永遠の小説を残してくれるきっかけとなる。花圃は意地悪もしたが、一葉の文学上の援助もしてくれた、萩の舎の皆は、いいところのお嬢さんたちで、根っからの悪人はいなかったようだと感じる。後年の竜泉寺町の商いで実感することとなる。

穴沢清次郎は西村釧之助の弟の小三郎が穴沢の家の養子になりましたので、西村とは親戚筋になります。西村家は茨木県真壁郡長讃村出身、以前旗本稲葉家に一葉のお母さんと共に仕えて一葉の父母が媒酌人になり、親戚以上の付き合いをしていた。一葉さんはよく西村家に金を借りに来ていました。たぶんお母さんのお古でしょうか、外に赤い色彩の物は少しも身につけていませんでした。私は明治十年生まれで、一葉さんは「二十二歳」でした。後に私に「乙女心を知らなかった」と述懐されましたが若い女の細腕で生きていこうとした一葉さんは、本当に青春時代というものがなかったのです。

穴沢の実家は茨木県筑波郡北条町の呉服雑貨商で、当時日本橋にあった有名な呉服問屋が取引先の一つで、そこの主人、堀越角次郎さんと父が親しかった。堀越さんは福沢諭吉の尊敬者で、そのため私は慶応義塾の予科に入りました。私の店に、近くの土地から見習いとして良家の子息が、多く奉公していました。その中に吉江政次という人がいて、西村の文房具屋を引き受けることになり、一葉さんの妹邦子さんと一緒になりました。私は入学後、悪性の網膜炎にかかり三年間ほとんど失明状態で、回復しても同級生が皆上級に進んでいるので、嫌になり、官学へ転校しようと思い、英語は国民英学会、数学は研数学館に、国文の徒然草は一葉さんに教えてもらうことなりました。
吉江政次(後に樋口邦子と結婚して樋口政次となる)

一葉から国文を習った、穴沢清次郎氏は一葉のことを、髪の毛は薄く赤茶けていたのは、今思えば体質が弱い上に、栄養が十分でなかったためでしょう。銀杏返しでうつむきかげんでつつましくしていただけで、世間で言われるような猫背ではありません。大変色は白く、目元にぱらぱらとそばかすがあり、目立たぬ程度の化粧でした。一重瞼で、近眼のせいか、キラキラと朝露のような瞳でした。口もとはしまって小さく、受ける印象は都会風の気のきいた人です。決して、色っぽさは。ありませんでしたが妹邦子さんに比べて陰気で小柄でしたが、本当に高い教養を身につけた美しい人でした。一葉さんは主人で、邦子さんは女房役、外出のおり、邦子さんが顔を直してあげたりしていたのが昨日のことのように思い出されます。一葉さんは、どんなに直しても、決して編集者の手に渡そうとしませんでした。困っている編集者へ奪うように渡すのは、いつも邦子さんの役割でした。

「源氏」や「古今和歌集」の講義には、かつて一葉に半井桃水を紹介した野々宮菊子と、菊子が誘った安井てつ が通いました。安井てつ は教壇に立ち男女共学の研究に携わっていましたが、文部省から3年間のイギリス留学を命ぜられ、帰国後、明治41年創立の東京女子大学の第二代学長となったひとです。 「徒然草」の講義にはクリスチャンで一葉の妹の友人俵田初音、野々宮菊子の同僚教師石黒とら子など。男性では一葉の知人宅に寄宿していた慶應の学生穴沢清次郎が通い、二高受験に備えて国文の指導を受けていました。学歴はない一葉でしたが、萩の舎で身につけた古典文学の素養にさらに独学で磨きをかけ、自分より学歴も年齢も上の人たちを弟子にしていました。一葉の講義を受けに来たのは「源氏物語」野々宮菊子、安井てつ、「徒然草」妹の友人俵田初音、石黒とら子、「国文の勉強」穴沢清次郎、大橋乙羽の妻などでした。

安井てつ:東京女子大学初代学長新渡戸稲造の後を受けて、第二代学長に就任。

「此夜中町に紙かひにゆく、あらざりしほどに安井てつ子岩手よりもらいたるのなりとて大いなる林檎もて來にける、それも女子師はん校の方へ田舎よりとゞきたるを直に我家にもて來しよし、常に口重に世辞など数々なき人なれど、心にしみてうれしとおもう事のあればかく取わきての事などもすめり、可愛ゆき人のこゝろよと母も妹もひとしくいふ。」

夏ちゃんは皮肉やさんで清(穴沢清次郎)さん、下田歌子が男であったらと世間では云うけど、あれが男であったら洟もひっかけないと申しておりました。その反面、虐げられた女性の味方で、大隈伯糟糠の妻(糟糠の妻とは、貧しいときから連れ添い苦労を共にした妻)を追い出し、玖磨子夫人を迎えた場合や島田三郎と政子さん折など、没人情を行ったものと痛撃していました。
下田歌子  島田三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%94%B0%E6%AD%8C%E5%AD%90

岩手から帰った野々宮菊子が友人安井哲子を連れて来り、桃水の紹介で知った大橋乙羽の妻とき子などは、さらに戸川残月(このとき四十歳、鴎外の「水沫集」「内田不知庵訳{罪と罰}貸して見聞を広めるために一葉に貸し与える」の娘戸川達子も一葉に歌を習った、これは中島歌子が黙認した黙認した弟子をとることを・・・これには正岡子規をはじめとして和歌革新の運動が徐々に起こり、旧派歌風は歌壇の上から勢力を失うようになり、中島歌子自身の生活も困窮していった。新しい歌を否定して、古い歌の本歌取りをなしていった歌子の考えは、裕福な夫人やお嬢様方の教養の一つであり遊芸であった。歌を通じて心の道場しての役割をなしていなかった。一葉の如く、歌で身を立てようとしている人は無かった。一葉は花鳥風月の表面的に愛でるより裏から実生活をシニカルに見る癖が龍泉寺時代を経て、返り咲いた萩之舎での指導は型道理のもので、一葉にはもう魅力を感じるもので無くなっていた。この後現れた与謝野晶子は新体詩の影響を受けて、新古今風の詠法で革新的な歌を詠みだす。一葉の歌は旧派の残照でしかなかった。さらに一葉は歌での絶望を、小説という方向へ向かっていった。

このとき一葉に「源氏物語」の講義は安井哲子によれば、高等師範の講義より面白かったと言われている。現在のフェリス女学院の三田村雅子教授とどう違ったのでしょうか知りたいところです。

龍泉寺からお店の商品の買い出しで(朝夜明け前、真っ黒なうちに根津をでて、神田の田町まで買出しにいって、会って来る頃は午前十時ごろで、それから筆を取った)出歩いた後で丸山福山町に変わってきた、頃で心身とも弱ってきていて、結核になる前の、体調の悪化していく時期であった。桃水の表現には、何か・・感じる。

半井桃水宛書巻(明治二十五年六月)
桃水は一葉の“書”を好み「武蔵野」に一葉の自筆の文を載せている。

色いと良く面(おもて)おだやかに少し笑(え)み給へるさま、誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈(たけ)は世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へぱ、まことに見上(あぐ)る様になん「若葉かげ」二十四年四月十五日

完全に舞い上がってしまっています。危険です!しかしこれも芸術の肥やしになると思えば許しましょう。

私の半井桃水より受ける印象は、また過去の経歴や一葉に対する心使いなどをする限り、遊び人でハンサムが災いしているが、こと一葉に対する限りは、彼女を思っての指導や自分の力量のないところは、尾崎紅葉を紹介するなどしているし、金銭面でもできる限りのことをしている。

尾崎紅葉は廓通いとのうわさがあり、一葉は教えを受けることはなかった。一葉は紅葉は好きではなかった。

しかし得体のしれない天啓顕真術会 久佐賀義孝などへ接近する度胸を持つ一葉が尾崎紅葉に教えを請うことなど問題がないように感じるが、これは桃水に遠慮していたのではないか。

結果的に文学界、露伴、鴎外の方向へ向かうことになったのは良かった。

この行為は、半井桃水の写真に映るように(若い頃の半井一家の写真で若い桃水は前首相の小泉純一郎氏に似ている)、彼の育ちと、また持って生まれた性格でもあったのであろうと思う。そこまで、親しく、金銭の見返りも無く貸し与える事が出来るのだろうかという、一般常識に適合しない人柄であったと感じる。

当時尾崎紅葉も廓通いの人と噂を聞きつけた一葉は、結局彼には会わなかった。半井桃水は自分の限界と経済的な援助は、一葉を一流にすることと考えての判断で、桃水は紅葉に託すことにした。一葉が桃水の女、妾という噂があったが、これだけ、桃水が一葉を思っての行動には、肉体関係以外の、一葉の魅力があったと考えるのは、いけないでしょうか。

一葉ご乱心(萩の舎の同門が独立していくことに心を乱された一葉)
久佐賀はまさご丁に居して天啓顕真術をもて世に高名なる人なり、うきよに捨ものの一身を何処の流れにか投げこむべき 学あり力あり金力ある人によりておもしろくをかしくさわやかにいさましく世のあら波こぎ渡らんとてももとより見も知らざる人のちかづきにとて引き合せする人もなければ我れよりこれを訪はんとて也

一葉は名前を「秋月」と偽名で会っている。
我れはまことに窮鳥の飛入るべきふところなくして宇宙の間にさまよふ身に侍るあわれ広き御むねはうちにやどるべきとまり木もや
我身父をうしなひてことし六年うきよのあら波にただよひて昨日は東今日はにしあるは雲上の月花にまじはり或は地下の塵芥にまじりはり老たる母世のことしらぬいともとを抱きて・・・・・・・・
さらば一身をいけにえにして運を一時のあやふきにかけ相場といふこと為し而見ばや」「されども貧者一銭の余裕なきして而我が力に而我がことを為すに難くおもひつきたるは先生のもと也」二十二歳の一葉が「先生久佐賀様この好死処ををしへ給らずや」と述べて四時間も話し込んだ。久佐賀の誘いを断り、上手く歌塾を開く資金を援助を申し込んでいる。

田辺花圃の歌塾を開くことに一旦は歌をあきらめた一葉が心乱れてこのような行動に出たと推察されます。一葉の才能はいかに高くても、男にとって一葉は男に対しては女でしかなかったことを知ったのは久佐賀の付き合いからであった。一葉はかなりしたたかに成長した。チャイコフスキーは作曲に際してのパトロン(富豪の未亡人ナジェジダ・フォン・メックから)がいたが、援助を打ち切られてからも名作を作曲した。ヨーロッパには芸術家にはパトロンが居ることあった。

久佐賀義孝
(貴方の身上を小生が引受くるからには貴女の身体は小生に御任せ被下積りなるや否や)

龍泉寺時代に親戚も訪れる人もなき、と孤独な毎日を過ごし、最初は繁盛していた商売も商売敵ができて、閑古鳥鳴く毎日。
敵(ひしや、斜め向かい)に同業出来る、八日よりあきないひま也。」塵の中日記明治二十七・一・七、八

一銭、一厘の商売も忙しいばかりで利潤が上がらず、嫌気がさしていた時、一葉は何を血迷ったのか、本郷真砂町三十二番地天啓顕真術会 久佐賀義孝を訪れ相場を習いに行っている。

うきよに捨てものの一身を、何処の流れにか投げ込むべき。学あり、力あり、金力ある人によりて、おもしろくをかしくさわやかにいさましく世のあら波をこぎ渡らんとて」塵の中明治二十七・二・二十三

さらに血迷うのは日蓮宗が神道化した蓮門教の二十二の宮を祭っている、人丸は蓮門教の行者である。この得体のしれないものにも一葉は訪れている。全くこの行動力と度胸には参ります。

桃水との決別をした一葉は、変な行動にでます、それが久佐賀義孝とのできごとです。
誰かく落はふれ、行ての末に、うかぶ瀬なくして、朽も終わらば、つひのよに斯の君に面を合はする時もなく、忘られて、忘られはてて、我が恋は雲のうはの空に消ゆべし。」塵中明治二十六・七・二十

寂静さんは、必ず、桃水と怪しげな天啓顕真術会 久佐賀義孝とには肉体関係があったと推察されています。寂静さんはこのような話になると必ず関係を主張しますが、非常に個人的な好みによるものであるので、誰しもに当てはまるものではないでしょうに。

少なくとも、久佐賀とは絶対にないと感じる次第です。それが、一葉なのです。一葉は秋月という偽名で近づいている。いつか本名になり、住所も知らせて手紙のやり取りをしている。一葉は人を見る力を、生活の中から備えてきたと思われる。一度会ってどのような人物か探り、うまくいけばお金になるように思い接近したと思われる。久坂賀の誘いの手紙に一葉はことごとく断りの手紙を書いている。

久佐賀より書状来る。君が歌道熱心の為に、しか困苦せさせ給うさまの、我一身にもくらべられていと憐なれば、その成業の暁までの事は、我に於いていかにも為して引受べし。され共、唯一面の識のみにて、かかる事をたのまれるとも、たのもみたりともいふは、君にしても心ぐるしきかるべきに、いでやその一身をここもとにゆだね給はらずや。と。厭ふべき文の来りぬ。

処女のままに死んでいくのはかわいそうと寂静さんは言いますが、十七歳から女戸主として一家を明治に支えて行くことが、どれほど大変なのかを、食べ物も事欠く時に、愛や恋などと言って、男女の関係をズルズル続けるほど、一葉は暇ではなかっただろう。それなら、雑貨駄菓子屋などしないで、久佐賀義孝からもらったお金で、好きな文を書いていれば楽でしょうが、一葉はそのような生き方を選ぶ人ではなかっただろう。寂静さんはあまりにも恋を重要視過ぎるきらいがあります。世の中、愛や恋ばかりで動いている人たちばかりではないのです。例えば多くの研究者は、給料、寝る時間、家族も犠牲にして研究に没頭する人が多い。愛や恋、家族団欒の楽しい家庭、それに充実した研究や創造的仕事、これが可能なら云う事無しです。

芸術の美神は嫉妬深く、必ずその祭壇に血のしたたる犠牲を要求する。この世の幸福という犠牲と引き換えににしか、芸術の栄光をさずけようとはしない。恋か、健康か、富か、家庭の団欒か、そのいずれかを犠牲に捧げなければ、芸術家としてのキップを手渡してはくれない。一葉は、恋も健康も、富も、ある意味では家庭の炉辺の団欒も犠牲にささげた。その上に、骨身をけずる精進という行が要求される。そういう芸術観は、今や時代錯誤と嘲笑を買うだろうか。私は実作家として、今もまだ、この古風な芸術観を捨てきれない旧弊で頑固な作家の一人である。『炎凍る 一葉の恋 瀬戸内寂静』

漱石の兄夏目大一 父夏目直克一葉の父の上司

また父則義の務め(警視庁属)の上司に夏目漱石の父夏目直克がいた。漱石の兄夏目大一の結婚相手に一葉の事があり沙汰されたこともあるらしい。ただ、その兄も3歳に死亡している。兄大一の写真はかなりハンサムで竹野内豊、中井貴一に似ていて渋い。「漱石の思い出」を書いた夏目夫人鏡子氏によると、かなり確かな話であったようであった。樋口則義は長男泉太郎を亡くし、西本願寺で大々的に葬儀を行った。夏目直克も長兄大一、次男栄之助を喪ったばかりで、部下の心痛を察してか弔問に訪れている。

樋口家には結核性体質があっただろうと推察される。姉の子も早くして死亡している。泉太郎、夏子は結核、則義、邦子の子も三人死亡している。則義の弟の息子も原因不明で死亡している。墓は杉並区和泉町に移っている。一葉十八歳、邦子十六歳、次男虎之助二十四歳、長女ふじ三十三歳滝五十六歳、則義五十六歳

朝かほの露、風の前のともし火、それよりも猶あやうき人の命、いつをいつといふ限はあらねど、老たるはさても有なん、年若き身こそいと安からね、其人に寄て親はらからの苦楽は生ずる物なるを、我兄泉之君世を早くし給ひしより以来、袖の涙かはく時なく、むねの思ひ絶るまなかりし、其折々かひつづくるも、一は人しらぬ悲しみをもらし、一は我身の経歴になん、思ひ出る明治二十年七月の頃なりけり、我兄ひと病にかかりぬ、素より世の人よりは弱かりし人の病なれば、其事となくなやみて七月も過ぬ、八月過ぬ、九月十七日といへるに、例の如く余は師の本がり行ぬ、午後四時といへるに家に帰るに、兄は強くなやみて臥居給ふ、そもいかにと母にとふに、いはく大病也、物へまかりたるに其処にて甚しく血を吐したり、家に帰るに未ダやまず、清に養生をなすとて聞て、いといと打驚きぬ、そも此日を病の初として、十月・十一月を寒しく過て十二月とも成るぬ、かひなくも二十七日といへるに、遠きやみ路の人には成ぬ、其折の事はかく事もあらず涙のみなり、まして、育てし父母の情しるべし、
七日・十日の程は悲しきことだに思い出ず、夢の様にて過ぬ、

このように書いた一葉だが、一葉も二十五で同じ結核で死ぬことになる。

一葉の兄泉太郎の葬儀に際し、夏目直克 五十銭香料 の名が載っている。これも夏目大一がこの年に死亡したので、相憐れむ気持ちがあったのではということである。
http://www.imai-aud.co.jp/Dkininaru.htm
http://www2.bbweb-arena.com/mshermit/mshermit_078.htm

この和気清麻呂と夏目漱石は既にお札の顔になっている。一葉もなるべくしてお札の顔になったようです。


『田辺花圃』
髪型は洋風


       ⇒
鹿鳴館スタイル
   モガ?
夏子(一葉)入門当時の歌塾「萩の舎」には、大勢の姉弟子がいました。中でも一番一葉に影響を与えたのは田辺龍子です。

龍子は〝お姫様〟と呼ばれて育ち、跡見花蹊の塾、明治女学校、東京高等女学校(御茶ノ水女子大の前身)専修科卒業など、当時の女性として最も恵まれた教育を受けています。英語が達者で、早くから束髪に洋装スタイルを通しました。

明治20年、田辺花圃のペンネームで書いた処女作「藪の鶯」(坪内逍遥に師事して、逍遥が手直しして発表した)が大評判となり、稿料33円20銭を得たというニュースに、一葉は羨望を感じます。このときの刺激が、のちに一葉を小説に向かわせるきっかけになります。
一葉は和歌で食べていく事は無理と分かり、小説で生きていこうと、この田辺花圃の小説の代金をみて、自分もそれで生計を立てようと決意する。最初桃水を紹介したのは、野々宮菊子だった。

一葉の田辺龍子
花圃女史田辺竜子君は、ことし二十四ばかり成るべし。故の元老院議官、今金鶏の間祇候太一ぬしの一人娘におはしまして、風采容姿、清と酒をかね給へるうへに、学は和漢洋の三つに渡りて、今昔のをしへの道あきらにさとり給ひ、書は我師の君いつの高弟にて、あいよりあをしと師はの給へり。和歌は天ぴんと故伊藤祏命うしもたたへ給へりしとぞ。文章は筆なめらかにして、しかも余いんにとませ給ひ、俗となく雅となく、世の人もて遊ばぬはなし。其名の世に聞え初しは、君が二十一ばかりの頃、藪の鶯となんいふ小説あらはし給ひしより成りけり。其後都の花に八重桜といふものし給ひ、よみ売新聞に、をだ巻物語を草し、ことし、小説くさむらに、万歳の善作あり。又女学雑史の特別記者として、小説に紀行に高名なるいと多し。さるからに、いささかも、ほこりかなどのけはなくて、打むかひ参らする折は、をかしき滑稽ものがたり、洒落の談話のみせさせ給ひて、人のおとがひをこそはとけ恐ろしなどおもはするけは、いささかもおはさざるこそいと有難けれ。おのれは当時の清少納言と心のうちにはおもひぬ。「筆すさび」

一葉が「たけくらべ」を発表した時には、もう既に三宅花圃は過去の人となり、若松賤子は既に亡くなっていました。

『田辺花圃に負い目を持つ一葉』
田辺龍子が書いた『藪の鶯』を読んで自らも小説を書くことを思い立った。また、小説の師半井桃水と決別した後、雑誌『都の花』という小説発表の場を提供してくれたのも龍子(都の花に掲載するとき一葉の文を手助けしている)であった。さらに、『文学界』の同人たちと一葉を結びつけたのも、彼女であったのだ。つまり、一葉にとって龍子は、常に道を開いてくれた恩人であった。だが、だからこそ、一葉には複雑なものがあった。むしろその恩を自分の負い目としてくすぶらせ、いつも一歩前を行く彼女に嫉妬してもいたのである。それゆえに、彼女の歌門のニュースは大きなショックであった。貧民街で細民相手に駄菓子を売る自分と、文才に花開かせて今また歌門を開く輝かしい彼女。どうしても縮められないこの距離を思い、一葉は眠れぬ夜を過ごしたのであろう。

三宅雪嶺
(花圃が選んだ旦那さま、男を見る目があった花圃:一葉は面食いでありすぎ)

女文豪が活躍の面影 三宅花圃 が選んだ主人は最初、どのような人物かが分からない人で、花圃の裕福な育ちとは違って当時は貧乏だった。

見ての通りの人物ですが、花圃は才色兼備で広く知識を持っていて、一葉よりは見識も広く深かった。一葉は萩の舎の先輩である花圃に羨望と競争心を持っていた。

小説を書くきっかけもこの花圃の影響が大きい。結婚後、一葉は花圃の自宅を訪れて、今までのお嬢さんの生活から比べると見劣りするので、思わず泣き出したと花圃は後に述べている。思えば花圃はどのような人とでも結婚できる状況の女性だったのにもかかわらず、三宅雪嶺を選んだことが立派であったが、花圃の才能は生かされなくなったのが残念だった。花圃は小説を何かのために入用な金銭のために書くものであった。

比べて一葉は金銭のためと言いながら、文学的に高いものを目指していた違いが後世に名を残すかどうかが決まるのである。それは貧しさに耐えて、早死にを覚悟する必要があります。現在、多くの小説作品がどれくらい後世まで残るのであろうか。

明治25年田辺花圃と結婚(巌本善治仲人を務める質素な結婚式だった)三宅雪嶺(哲学者)が文化勲章を受賞

元禄風の才人 三宅花圃 「女学世界」明治四十一年七月号
私が其の時十七歳、夏子が二歳下で十五の折りです。「今まで知らない人だが・・・・新しく来たのかしら」などと思いながら見ていますと、髪など結うー変った結び方をして(一つは髪が薄かったからでしょうが)そればかりでなく、立ち居振る舞いも何となく変わっていて、ぢきに「元禄風」というような感じがおこりました。「まあ、祇園のお梶とでも言いたいような人だった」と思っております。

萩の舎でコックリ様が流行って、中島歌子が大好きで、講義や歌の会などを済むのを待ちかけて、一同持ち出して行っていました。(明治17年伊豆に漂着したアメリカの船員が伝えた)それがいつも夏子の都合のいいように動くのです。歌子先生も信じ切っていましたので、不思議だということになって、ハテ変なことだと横で見ていますと、夏子が知れないように動かしているので御座いました。それで歌子先生に話しますと「それだもの、彼女には呆れかえる」と申して、それ以来コックリさんを止めてしまいました。歌を作るのは遅い方です。そうして洒落など分からない人で、兎に角変わっていました。

そう綺麗な人でもないのですが、お世辞の実にいいこと、それは最う人を逸らさないー客あしらいの実に上手な人でした、抜け目のない、気の置けない、まあ下町風といったようで、何かかう人に摺りつくようにしてものをいうという風でした。私などは「夏っちゃんのとこころへ来るとなんだかお茶屋に来たようだ」と申した位。こんな風に上手でしたから行く方も行きやすく、おのずから人を引き付けたので御座いましょう。


たぶんこれは龍泉寺の時の下町の生活を身にしみて感じたためであろう。これが「たけくらべ」を書く下地ができたともいえます。一葉は逆境の中に成長していったようです。また萩の舎では、このような振る舞いでないと生きていけなかった、一葉の知恵だったのでしょう。花圃のような実家がしっかりして、学歴、才能、結婚して成功している人にはわからない苦労があったのでしょう。

すねて、ひがんだ感情や観察があの人の小説には総てに見えていますので、それが又あの人の作の優れたところです。

夏ちゃんはまたよく泣く人でした。何かというと「私こう思う」とか「どう思う」と言ってはよく泣きました。あんなに勝気な人でいながらそれはよく泣くのです。ひどく張のある人が却ってひどく泣くようですね。

往来でも、この人をモデルにしたいと思うと、どこまでもその人についていったことが度々あるようです。


桃水のことをよく話すので「貴方そんなことを滅多に話すものじゃありません。人に何とか云われますよ」と申したことでした。誰のでも半井さんの噂をずんずんするものですから果たして評判に上がりました。「わるく噂もしてみたいて、あの都都逸はなかなか穿つてるね」など申したので私も大笑いひてしまったこともありました。

こういう風に萩の舎のみんなに話していることは、桃水との関係はそんなに深いものではなかったように感じられます。

没する折りの語を申して終ひに致しましょう。「私が死んでもナニ裏の豆腐屋のお爺さんが死んだも同じ事だから別に騒がない方がよい」と申したそうです。語の裏に却って抱負が見えておりますので、この心が作に努め力めさせた所以でございましょう。(談話手記)―「女学世界」明治四十一年七月号

かなり鋭い観察です。言いえているので納得させられます。(たぶんそのような人である一面を一葉は花圃には映ったのでしょう。競争心を見せていたからでしょう。花圃は余裕の人であったので、上から見下ろすようにしていた、立場の感想でしょうが、しかし一葉は一年一年成長して変わっていきます)。

萩の舎の三羽ガラス田辺花圃、伊藤夏子、樋口夏子(一葉が入る前に一人上手な人がいたが結婚して辞めて一葉が入った)

わが友樋口一葉のこと  田邊夏子  「婦人朝日」昭和十六年九月号
伊東夏子イ夏ちゃんが語るヒ夏ちゃん一葉のことには、田邊花圃が語った一葉と異なった一葉が出てきます。人の悪口は言わない、禁酒会の会長の奥さんにお酒を注ごうとする一葉、身繕いがいつもきちっとしていて、どこかうちとけない感じがあった。高度の近眼のエピソード、桃水のこと、終焉の地での御見舞金のこと、毎日一葉宅に伺っていたエピソードなどなど、友人として心温まる内容です。イ夏ちゃんなどのすべての手紙を大切に保管していた様子。一葉の性格がうかがいしれます。持つべきものは本当の友です。私には本当の友と呼べるものはあるだろうかと、考え込みます。

「君は世の義理や重き、家の名や惜しき」「君と半井ぬしとの交際断ち給ふ訳にいかずや」イ夏ちゃん

“萩の舎“の皆からあからさまに、噂を立てられ、作家仲間からから半井桃水が連れている女性を一葉と間違える斉藤緑雨などは、世間の週刊誌的な噂話を信じる一般常識的な人たちと異なる人種が桃水や一葉であった。(野々宮きく子、鶴田たみ子が一葉のスキャンダルを萩の舎でにおわすので桃水と別れることになる)(萩の舎友人伊藤夏子、イ夏ちゃん、ちなみに一葉は ヒ夏ちゃん

伊東夏子ぬし不図(ふと)席を立(たち)て「我にいふべき事あり此方(こなた)へ」といふ 呼ばれて行(いき)しは次の間の四畳計(ばかり)なるもののかげ也 「何事ぞ」と問へば声をひそめて「君は世の義理や重き家の名や惜しきいづれぞ 先(まず)この事問はまほし」との給ふ 「いでや世の義理は我がことに重んずる事也 是故(これゆえ)にこそ幾多の苦をもしのぐなれ されど家の名はた借しからぬかは 甲乙なしといふが中に心は家に引かれ侍り 我計(ばかり)のことにもあらず親あり兄弟ありと思へば」といふ「さらば申す也 君と半井ぬしとの交際断(たち)給ふ訳にはいかずやいかに」といひて我おもてつとまもらる 「いぶかしうもの給ふ哉(かな) いつぞやも我いいつる様にかの人年若く面て清らになどあれば我が参り行ふこと世のはばかり無きにしも非ず 百度も千度も交際や断ましと思ひつること無きならねど受(うけ)し恩義の重さに引かれて心清くはえも去あへず今も猶かくて有なり されど神かけて我心に濁りなく我が行(おこなひ)にけがれなきは知り給はぬ君にも非じ さるをなどこと更(さら)にかうはの給ふぞ」と打恨めば……「日記しのぶぐさ」二十五年六月十二日

伊東夏子の一葉の対する、萩の舎の噂に、一葉に意見を申す。一葉は素直に忠告を聞き入れることが出来なく、うじうじしている。中島歌子も一葉の心が決まっているなら云うべき事はないが、そうでないなら、“あんさん別れなはれ”と忠告する。

このとき、一葉が桃水の妻と吹聴されることに怒って、以下の如く述べる。
我ひとたびはあきれもしつ一度は驚きもしつ、ひたすら彼の人にくくつらく、哀れ潔白の身に無き名おほせて世にしたり顔するなん、にくしともにくし、成らば疑いを受けしここらの人の見る目の前にて其ししらをさき胆を尽くしてさて我心の清らけきをあらはし度しとまで我は思えり

川上眉山の場合もあった怒り方である。実に恐ろしきは、女子の怒りなりけん。あなおそろしや。(一葉は感情の起伏の激しい人であったようです。明治にはまだ、控え目で、大人しく従う女性で、あまり学があると生意気と思われる風潮があったような気がします。明治には飛んでいる人に入ったのでしょう。しかし、冬の雪の日の桃水に自宅で、桃水が寝ているのを起きるまで寒い中待っていたエピソードや、初めて桃水にあった時の態度の描写では慇懃な態度で非常に大人しくしていたことが記されている。立場と場合をわきまえた人でもあったようです)。

我はじめより、かの人に心ゆるしたることもなく、はた恋し床(ゆか)しなど思ひつること、かけてもなかりき……ある時は厭(いと)ひ、ある時はしたひ、よ所(そ)ながらもの語りききて胸とどろかし、まのわたり文を見て涙にむせび、心緒みだれ尽して迷夢いよいよ闇(くら)かりしこと四十日にあまりぬ……忘るるひま一時も非(あら)ざりし「につ記」二十五年六月~八月

恋は~素敵 ね、人の心を~狂わせる、それでも恋に~身を焦がしたい、それが、それが~女、おんな一葉の 生きるさだめ~。(お粗末)一葉も女なればこそ恋心も、組み込まれた子孫を残すための遺伝子の働きに逆らわずに行きたかった。しかし、桃水とでは、一葉の文学は生まれなかった。恋を振り切り、一葉は荒野を目指す。愛だの恋だ‥いっていては一葉の文学は達成できなかった、苦しい中で生まれるが芸術家の人生です。



井原西鶴

一葉最初の作品「闇桜」雑誌「武蔵野」に載った一葉の「闇桜」を当時の東京朝日は「“闇桜”燈ともし頃を散る恋の心いとあわれなり。」

「一葉女史の「闇桜」趣向新しからねど文章艶麗にてイヨ女西鶴さまとお賞め申したし」。大阪朝日

処女小説「闇桜」を桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した。西鶴は雅俗折衷の文体で浮世草子と呼ばれるジャンルで名作を多く残した。西鶴の浮世草子は、「町人物」「好色物」「武家物」に分けられる。西鶴の文体は簡潔でしばしば難解だと言われるが、多くを語らない俳諧の影響だという説もある。またその難解な文章を理解できるだけの、知識と好奇心のある成熟した読者がいたことが前提になっていると指摘される。明治初期に、淡島寒月が彼を再発見し、幸田露伴や尾崎紅葉に紹介したところ、彼等も西鶴を非常に評価し、またその作品にも影響を与えた。このことから、以降に構築された「日本文学史」の中で、「元禄の文豪」として扱われるようになった。

「闇桜」上
隔《へだ》ては中垣《なかがき》の建仁寺《けんにんじ》にゆづりて汲《くみ》かはす庭井《にはゐ》の水《みづ》の交《まじ》はりの底《そこ》きよく深《ふか》く軒端《のきば》に咲《さ》く梅一木《うめひとき》に両家《りやうけ》の春《はる》を見《み》せて薫《かほ》りも分《わか》ち合《あ》ふ中村《なかむら》園田《そのだ》と呼《よ》ぶ宿《やど》あり園田《そのだ》の主人《あるじ》は一昨年《をとゞし》なくなりて相続《さうぞく》は良之助《りやうのすけ》廿二の若者《わかもの》何某学校《なにがしがくかう》の通学生《つうがくせい》とかや中村《なかむら》のかたには娘《むすめ》只一人《たゞひとり》男子《をとこ》もありたれど早世《さうせい》しての一|粒《つぶ》ものとて寵愛《ちやうあい》はいとゞ手《て》のうちの玉《たま》かざしの花《はな》に吹《ふ》かぬ風《かぜ》まづいとひて願《ねが》ふはあし田鶴《たづ》の齢《よはひ》ながゝれとにや千代《ちよ》となづけし親心《おやごゝろ》にぞ見《み》ゆらんものよ栴檀《せんだん》の二葉《ふたば》三ツ四ツより行末《ゆくすゑ》さぞと世《よ》の人《ひと》のほめものにせし姿《すがた》の花《はな》は雨《あめ》さそふ弥生《やよひ》の山《やま》ほころび初《そ》めしつぼみに眺《なが》めそはりて盛《さか》りはいつとまつの葉《は》ごしの月《つき》いざよふといふも可愛《かあい》らしき十六|歳《さい》の高島田《たかしまだ》にかくるやさしきなまこ絞《しぼ》りくれなゐは園生《そのふ》に植《うゑ》てもかくれなきもの中村《なかむら》のお嬢《ぢやう》さんとあらぬ人《ひと》にまでうはさゝるゝ美人《びじん》もうるさきものぞかしさても習慣《しふくわん》こそは可笑

「闇桜」下
福《ふく》やいそいでお医者様《いしやさま》へお父《とつ》さんそこに立《た》つて入《い》らつしやらないで何《ど》うかしてやつて下《く》ださい良《りやう》さん鳥渡《ちよつと》其《そ》の手拭《てぬぐひ》を何《なん》だとヱ良《りやう》さんに失礼《しつれい》だがお帰《か》へり遊《あそ》ばしていたゞきたいとあゝさう申《まを》すよ良《りやう》さんおきゝの通《とほり》ですからとあはれや母《はゝ》は身《み》も狂《きやう》するばかり娘《むすめ》は一|語《ご》一|語《ご》呼吸《こきふ》せまりて見《み》る/\顔色《かほいろ》青《あほ》み行《ゆ》くは露《つゆ》の玉《たま》の緒《を》今宵《こよひ》はよもと思《おも》ふに良之助《りやうのすけ》起《た》つべき心《こゝろ》はさらにもなけれど臨終《いまは》に迄《まで》も心《こゝろ》づかひさせんことのいとをしくて屏風《べうぶ》の外《ほか》に二|足《あし》ばかり糸《いと》より細《ほそ》き声《こゑ》に良《りやう》さんと呼《よ》び止《と》められて何《なに》ぞと振《ふ》り返《か》へれば。お詫《わび》は明日《みやうにち》。風《かぜ》もなき軒端《のきば》の桜《さくら》ほろ/\とこぼれて夕《ゆふ》やみの空《そら》鐘《かね》の音《ね》かなし

「武蔵野」は桃水らが作った雑誌で第三巻にて終わっている。売れなかったんだろうねえ。一流どころの雑誌ではなく、出版事業も大変ですから。それにしては、朝日新聞はよく褒めています。西鶴の到来とは大阪らしい記事ですが、一葉はまんざらでもないのでしょう。
一葉の「菊坂時代」の話である。

後日談で伊東夏子は一葉のことをとても心配し、妹邦同様に、一葉を脱線しないように見守った2人でした。それとは反対の花圃は萩の舎ではしゃぐ一葉と舎の噂に“みな子”が一葉を上手く炊きつけ聞き出したということが・・・何しろ田中みな子(どちらつかずで、皆と同じように態度を変える)と言う先生がついていますので大変でしたよ。「夏ちゃん又半井の噂かい」と聞くと、「悪くも噂がしてミタイトントン」それはすごい都々逸なんか作ったと申します。・・・一葉座談会

この萩の舎のうわさも、一葉がまいた種からで、一葉のはしゃぎようが最も大きい原因と思われる。
忍ぶれど 色に出にけり 我が恋は 物や思ふと 人の問ふまで 」(平兼盛)

これは「雪の日」の日記で、隣の女房の「お楽しみなるべし、御浦山しう」などのいきさつから出た話で、尾ひれがついて、緑雨も鎌倉で桃水に「御同行の一葉女史によろしく」と冷やかすように、周囲は一葉と桃水との関係があたかも事実のように取りざたされていた。
萩の舎の上流社会対平民組みとの反映かもしれない。

一葉の噂に対する激昂は、川上眉山(眉山と恋仲と噂を立てられた)の場合も同様で、複雑な心情だが、一葉の潔癖さを表す一面ではないだろうか。

野々宮きく子は、敬虔なクリスチャンで高学歴・才気ある女性である。一葉から和歌を教わっている。しかし当時の最高の学歴を持っていた。そのくせある引け目を感じている女性で、悪い人ではないが、人の喜びを喜ぶより不幸を悲しむ方に、心がひかれがちな女性であった。一葉より3歳年上で教員になろうとした(当時女性が自立できる唯一の仕事が教員であった)。桃水とも一葉とも親しかった。ただ2人が接近すると水を差したがる性格で、それでもって2人(桃水、一葉)とも大好きという。一葉に古典を習っていた。当時の女性としては勉強家である。「野々宮君」は、野々宮菊子のこと。千葉県の生まれで、教職を目指して東京府高等女学校に通っていた頃、一葉との交流が始まった。一葉に半井桃水を紹介したり、また、彼女に和歌の弟子を斡旋し自らも習うなどして彼女の生計を援助したりした。時として、互いに批判的な眼差しを向け合う時期もあったが、一葉の生涯にとって重要な関わりを持った人物である。

この時期、菊子は東京市麹町尋常小学校訓導をしていたと思われるが、頻繁に一葉宅へ和歌の稽古に通っていたのである。ついでに言えば、明治28年以降は安井てつ(後の、東京女子大学第2代目学長)などを伴って一葉宅へ通い、和歌や「源氏物語」「古今和歌集」などの古典の指導も受けた。「安井てつ(哲子)さんのことは大変誉めていましが、野々宮菊子さんは、心の中であざわらっていたようです。あるとき、野々宮さんが一葉さんに「私は多情よ」と申しますと、一葉さんは、「多情は犬ですよ」とずばり極めつけて、ほ、ほほ、ほと笑ったことがありました。」穴沢清次郎
野々宮きく子

松涛軒は桃水が茶屋経営に失敗して、桃水の後妻になったわか(千賀子)が譲り受けた店で、「松涛軒の店先をのぞいて一言もいわずに帰ってしまわれた時の一葉さんは本当におかしな人だと思ったと母(千賀子)が申した事がございました。」との下りは、一葉が誤解(桃水と千賀子の関係を邪推)してやきもきして、見に行った様子をありありと表している。一葉の心は恋する乙女のようにいじらしい。「恋は素敵ね、心を狂わせる~」 もういい結構だ、こりゃまた失礼いたしました。
   何事も語るとなしに玉くしげ
         ふたりある夜は物も思わず


恋に身を焦がす一葉 がいじらしい。恋をする感性は、小説を書く上で必要な資質なのでしょうか。芸の足しというように。

一葉はこの時代の常識でとらえられると、型破りの行動的なことをします。その当時の一般常識で、判断されると、醜聞が さもホントらしくなっていき、週刊誌的なように無いことをあるようにささやかれているのではないかと思う。

小説も、これは男を知らないと書けないというくだりには、今の若い漫画作家や小説家に官能漫画、官能小説を書かせると、結構経験も無いのに想像で描いてしまうのではないか?それも経験者と言われる人たちよりも更に官能的に描ける場合もあるのでは無いかと思う。龍泉寺前、丸山福山町の女性たちの実態を代筆していて、店の間取りや、客あしらい、悩みの相談などから、土地勘のある、場所を舞台にあたかも、自分が体験したかのように書き現したが、内容表現には一葉の心模様がよく現れている。一葉は禅、仏教にも良く通じていたと書き記されている。作品の多くは、死で終わる場合など、社会の底辺にあえぐ人間模様をえがき無常観を漂わせる。情感に訴えかける一葉の小説、反対に漱石の小説は理屈っぽい精神小説で対照的です。

一葉の生涯を考えるに、もしも(if)ということを言わせてもらうなら、いたるところに(if)が言いたくなります。しかし、どの項目をとっても一葉の文学は成り立たなかったと考えると、17歳にして女戸主となり、父の葬儀を取り仕切り、一家(母、妹)を養っていかなくてはならない身の上を最後まで全うして、死んでいった一葉を思うと誰しも、愛惜の念を禁じえない。そうした中で生み出された小説は、人生から絞り出された作品でしょう。

多くの経験によって生み出された、『たけくらべ』『のごりへ』『十三夜』などは一葉の苦労なくては生まれ得なかったでしょう。一葉の実生活に根ざした作品ですから。一葉はお金のために小説を書いていたわけではないでしょう。かなり立派なもの、後世に残るものを目指していたと思われます。かなり試行錯誤しながら書いたと思いますが。

明治の平均寿命が40歳代前半だった時代、一葉に取って、結核は兄から受け継いだ病気や従兄のハンセン氏病?による死亡で、自分は長く生きられないと察知していた節があります。最後晩年、前田愛氏の指摘する奇跡の14ヶ月の作品群を書き上げた上、全エネルギーを費やして書き綴った小説、借金に次ぐ借金に竜泉寺の商いの疲れ果てた結果、一生の炎の全てを使い果たしたのではないか。兄も父も、一葉の死の後母もあっけなく失意のまま亡くなる、明治という時代は、医学の行き届かなかった時代だったのである。

中島歌子 小石川安藤坂にあった「萩の舎」

萩の舎主催
後ろから二列目の左三人目から伊藤夏子、一葉(十八歳)、田中みの子、中嶋歌子、田辺龍子、片山てる。一葉が下谷西黒門町、田中みの子が下谷区谷中町、伊藤夏子が団子坂でお互いの距離が近い関係で特に親しかった。みの子は一葉の小説が日の目を見るよう新聞社へ斡旋したりもしている。田辺龍子(花圃)は、一葉にとっては姉弟子で、のちに文学界へ一葉を紹介している。三列目に中島歌子がいます。其の前の列のお嬢様がたは、絢爛豪華な衣裳を身につけ、高貴な家の方々で、発表会の萩の舎の前には黒塗りの人力車がご紋入りで止まっていた。明治時代の中流以上の女性が着物で写真を撮るときには、袖の中に手を納めておくのがたしなみであった。衆人の前に着物の中の手を見せるときは性を意味した。踊り手、芸者、遊女を意味した。

萩の舎中、明治20年2月21日の発表会後の集合写真を見ると、3列目中島歌子の左後ろに移っている一葉は瓜実顔の美しく、色白に写っている。この頃の写真の女性は手を見せないように、着物の袖で隠している。中島歌子が2列目は、1列目はかなり有名な家のお嬢様方ではないかと思われる。ここで、一葉の右手が見えている、彼女のみが手が見えている。

明治24年萩の舎社中の一同を介した写真では、3列目に中央に中島歌子がいて、左に田中みの子、一葉、伊東夏子の平民3人組みがいる。歌子の右隣には田辺龍子がいる。この写真でも、一葉は4年後、かなり幼さが無くなり、さらに綺麗になっている。一葉22,23歳の頃の写真ではふっくらして女性らしくなり、目元口元はきりりとしている。若い中で一葉の着物が一番地味ですかね。

最後列左より三番目が一葉です。その一段下が田辺花圃ですが、一葉の右手が写真から見えています。下から写したからと、このとき着ていった着物は母が用意したどこかの古着を繕った着物で、着丈が短く、手を隠しているのが見えている。一葉の右は一生の友伊東夏子、その下の段が中島歌子。
瓜実顔、目元がきりりとして口を結び、見ただけで聡明そうです。一葉の着物だけが地味です。最前列の綺麗な着物を着ている人たちは良家のお嬢さんなんでしょうね。

瓜実顔で目元がきりっとして、口元は小さく結ばれている。これからの苦労が一葉を変えていく。横にはイ夏ちゃん、下には田邊龍子、その右中島歌子例年二月、塾では一年の稽古(けいこ)の発会を行った。二十年、一葉は初めてこれに参加する。入門して2年めである。
一葉は同門の令嬢、貴婦人達が言い交している新調の晴れ着の話を、胸がふさがる想いで聞いている。上野西黒門町に帰った一葉の前に母が差し出したのは、知人から調達した「どんすの帯一筋、八丈のなへばみたる衣一重」である。いったんは古着を身に着けて晴れの席にのぞむ恥しさで出席をためらった一葉も、やがて心をとりなおして、古着の裾を引きほどき、火のしをかける。発表は二月二十一日である。毎週土曜日の稽古日には、彼女は連続して最高点をとっていた。発会当日、弟子たちは三つ重ねの紋付きを着てずらりと居並んだ。一葉が身に着けていたのは、母親が用意した緞子(どんす)の帯と八丈の重ねだった。

当日課せられた和歌の題は「月前柳」。彼女は、打ちなびくやなぎを見ればのどかなるおぼろ月夜も風は有(あり)けりと詠んで、六十人余りの中でやはり最高点だった。一葉は歌子の気に入る歌の好みを知っていたのか、歌子は一葉に目をかけていたのかどちらかでしょうが、一葉の才能がそうさせたのなら、もっとできる歌人についていれば歌でも名を残す作品を書いたのではないかと残念です一葉は悔しがる先輩、田辺龍子らにぽんぽんと背中をたたかれる。

中島歌子の指導ぶりを示す一例
小石川稽古成り。朝風のいと寒かるに、起き出てみれば、霜ましろに置けり。初霜にこそなどいふ。八時頃家を出て師の君がり行く。暮秋の霜といふ題なん出ぬ。
   めずらしく朝霜みえて吹風の
        寒き秋にも成にける哉
実景成りとて十点になりぬ。
次に有孝卿の成りし、竜田川紅葉みだれて流るめりてふを、本歌に取りて
   いささ川渡らばにしきとばかりに
        散こそうかべ岸のみみじ葉
かくなんいひて、いたく師の君にしかられにき。本歌を取て、そを受けたる詞なしとて成り。さもあらばあれ、小言にたゆまず、猶かかる歌もよむべし。其の中には、少しも聞こゆるものも出こん、などの給ふ。・・・・・
実感実景が詠まれているから平凡なうたであるが、それでよいのだと教える。
後半の本歌は「古今集」秋下、題しらず、よみびとしらずの歌である
   たつた川紅葉みだれて流るめり
        わたらばにしき中やたえなん
であるが、「渡らばにしき」では、この本歌を受けたという詞にはならないと教えた。小言をいわれても、本歌取りの練習もしっかりしておく必要があるのだ。そうしているうちに、よい歌がよめるようになりとはげましている。「一葉と和歌と(萩の舎)藤井公明」

歌は当時の女性の最高の教養、極めて高貴なかたには、歌子はお屋敷に出向き指導したが、一葉が鞄持ちでついていくと、時の皇后などもお見えになっていて、一葉もそれを垣間見たと思われる。龍泉寺の人たちとの付き合いと時の最高レベルの上流階級の世界をみたのは一葉ぐらいであろう。格差社会の頂点とどん底を見た一葉の心にはどのように思っただろうか。

田沢稲舟の着物姿は「萩の舎」のお嬢様方の華麗な着物姿に似ている。
裕福な家庭のようです。

一葉の写真にこのような着物姿がなく、地味な着物姿しかないというのが、人並の青春時代の輝かしい事が一度もなかったようです。

そのために地味な着物を着ていたので老けて見えたのでしょう。

山田有策監修『「たけくらべ」アルバム』
芳賀書店 昭和15年、
清方62歳の作品「一葉」(部分)
眠られぬ夜、裁縫の手を休め雨音に耳を傾け物思いにふける一葉の姿日記を読むと、寝るのは12時から1時が多く、徹夜で著作や読書をするときは眠気防止に濡らした手ぬぐいをハチマキにしていたらしい。

一葉は、針箱と小布を広げた畳紙を前にして端座しているこの一葉の画想を、随筆「雨の夜」から引き出したといわれている。

「庭の芭蕉いと高やかに延びて」という書き出しに続く「眠られぬ夜なれば臥床に入らんも詮なしとて小切れ入れたる畳紙取り出し、何とはなしに針をも取られぬ」この絵の一葉の手は堅縞模様の前掛けの上におかれた左手を右の親指が揉み解している図柄は「斯くたまさかに取出るにも指の先こわきようには、はかばかしゅうは絵も逢いがたきを」と嘆く、「雨の夜」に一節を視覚化しているように思われる。
「一葉に聞く、井上やすし」

明治大正は学生に裁縫を習わせた。この当時は、裁縫を習う学校があって、妹邦子は行っていた。

庭《には》の芭蕉《ばせを》のいと高《たか》やかに延《の》びて、葉《は》は垣根《かきね》の上《うへ》やがて五尺《ごしやく》もこえつべし、今歳《ことし》はいかなれば斯《か》くいつまでも丈《たけ》のひくきなど言《い》ひてしを夏《なつ》の末《すゑ》つかた極《きは》めて暑《あつ》かりしに唯《たゞ》一日《ひとひ》ふつか、三日《みつか》とも数《かぞ》へずして驚《おどろ》くばかりに成《なり》ぬ、秋《あき》かぜ少《すこ》しそよ/\とすれば端《はし》のかたより果敢《はか》なげに破《やぶ》れて風情《ふぜい》次第《しだい》に淋《さび》しくなるほど雨《あめ》の夜《よ》の音《おと》なひこれこそは哀《あは》れなれ、こまかき雨《あめ》ははら/\と音《おと》して草村《くさむら》がくれ鳴《なく》こほろぎのふしをも乱《みだ》さず、風《かぜ》一《ひと》しきり颯《さつ》と降《ふり》くるは彼《か》の葉《は》にばかり懸《かゝ》るかといたまし。雨《あめ》は何時《いつ》も哀《あは》れなる中《なか》に秋《あき》はまして身《み》にしむこと多《おほ》かり、更《ふ》けゆくまゝに灯火《ともしび》のかげなどうら淋《さび》しく、寝《ね》られぬ夜《よ》なれば臥床《ふしど》に入《い》らんも詮《せん》なしとて小切《こぎ》れ入《い》れたる畳紙《たゝうがみ》とり出《い》だし、何《なに》とはなしに針《はり》をも取《と》られぬ、未《ま》だ幼《いとけ》なくて伯母《をば》なる人《ひと》に縫物《ぬひもの》ならひつる頃《ころ》、衽先《おくみさき》、褄《つま》の形《なり》など六づかしう言《い》はれし、いと恥《はづ》かしうて是《こ》れ習《なら》ひ得《え》ざらんほどはと家《いへ》に近《ちか》き某《それ》の社《やしろ》に日参《につさん》といふ事《こと》をなしける、思《おも》へば夫《そ》れも昔《むか》し成《なり》けり、をしへし人《ひと》は苔《こけ》の下《した》になりて習《なら》ひとりし身《み》は大方《おほかた》もの忘《わす》れしつ、斯《か》くたまさかに取出《とりいづ》るにも指《ゆび》の先《さき》こわきやうにて、はか/″\しうは得《え》も縫《ぬ》ひがたきを、彼《か》の人《ひと》あらば如何《いか》ばかり言《い》ふ甲斐《がひ》なく浅《あさ》ましと思《おも》ふらん、など打返《うちかへ》し其《その》むかしの恋《こひ》しうて無端《そゞろ》に袖《そで》もぬれそふ心地《こゝち》す、遠《とほ》くより音《おと》して歩《あゆ》み来《く》るやうなる雨《あめ》、近《ちか》き板戸《いたど》に打《うち》つけの騒《さわ》がしさ、いづれも淋《さび》しからぬかは。老《おい》たる親《おや》の痩《や》せたる肩《かた》もむとて、骨《ほね》の手《て》に当《あた》りたるも斯《かゝ》る夜《よ》はいとゞ心細《こゝろぼそ》さのやるかたなし。
「雨の夜」随筆、両手を出して夜半眠られず、針仕事の手を休めている一葉。

裁縫は邦子、上手で早かった。一葉は近視のためか、裁縫は苦手のようだった。生活のために着物の裁縫で生活していた。

萩の舎で一葉は「ものつつみの君」と呼ばれていたが(田中みの子が名づけた。萩の舎で上流階級の人たちと共に生きていく上での一葉の処世術だった)、針仕事、水仕事、雑貨、駄菓子の買い出しで荒れた手を、上流の集まる萩の舎のお嬢様方には見せたくなかった。

萩の舎の裕福な平民組みの「田中みの子」は長男と谷中町三丁目に住んでいた。「筆すさび」には空蝉が夫の留守を守る、中川紀の守の屋敷、夕顔の五条つつましい家のイメージをたたえて「源氏物語の世界」を描き出している。

空蝉:控えめで、容貌も非常に地味な女性であったが、小柄で立ち振る舞いが水際立っており趣味も良かった。求愛に対しても、悩み迷いながらも最後まで品良く矜持を守り通し、貴公子である源氏を感心させている。彼女のモデルに関しては、境遇や身分が似ているため、作者である紫式部自身がモデルではないかと言われている。

帚木(ははきぎ)『源氏物語』五十四帖の巻の一つ。第2帖。貴人たちの女性談義「雨夜の品定め」があることで知られる。『古今和歌集』収録の坂上是則の和歌「園原や伏屋に生ふる帚木のありとてゆけど逢はぬ君かな」で広く知られることになった。そこから、近づいても逢ってくれない人、逢えそうで逢えない人の喩えに用いられ、『源氏物語』では第2帖の巻名にもなった(この場合の逢えない相手は空蝉)。

夕顔「帚木」巻で語られた「雨夜の品定め」で、「常夏の女」として名前が出てくるがその時は聞き流される。登場する回数こそ少ないものの、佳人薄命を絵に描いたような悲劇的な最後が印象に残る女性。儚げながら可憐で朗らかな性格で、源氏は短い間であったが彼女にのめりこみ、死後も面影を追う。

桐壺帝時代(光源氏の父親)東宮または親王の妃のことを指します。『源氏物語』に登場する六条の御息所も東宮の妃であった方でした。しかし夫の東宮は皇位につかれることなくこの世を去り、妃とその姫が後に残されたのです。 未亡人となった御息所はいつしか源氏と出会い、七歳も年下の源氏を迎え入れるようになります。 しかし、時が経つにつれ御息所の源氏への想いは狂おしいほど燃えさかり、源氏はそれを重荷に感じ始めました。「夕顔」の巻で源氏と逢引する夕顔を取殺した物の怪で、物語のなかに御息所のそれではないかと示唆する部分があるとする説がある。「葵」の巻では、賀茂祭(葵祭)の加茂川での斎院御禊見物の折に、つわり中の源氏の正妻葵の上の牛車と鉢合わせになり、場所の争いから下人に恥辱な仕打ちを受けたことを発端に、生霊となって妊娠中の葵の上を悩ませ、8月の中ごろに夕霧を出産後に葵の上は急死してしま。御息所が、己の髪や衣服から芥子の匂いがするのを知って(芥子は悪霊を退けるための加持に用いる香)、さてはわが身が生霊となって葵の上にあだをなしたか、と悟りおののく場面は有名。源氏が後に住まいとする六条院の秋の町は御息所の旧邸で、死後も紫の上や女三宮などに取り付き源氏に恨み言を言いに出現している。(「若菜下」「柏木」)の中宮は母御息所が未だ成仏していないことを悲しみ、追善供養を行っている。(「鈴虫」)

上村松園 六条の御息所「焔(ほのお)」

“雨夜の品定め” 頭中将、左馬頭、藤式部丞)が長雨の続く五月雨の夜に、光源氏に対して、様々な女性について語る有名な場面です。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/kotennko19.htm
このサイトを読んでいただくと、萩の舎での一葉の思いが伝わるようです。
しかし、一葉は紫式部より、清少納言に人間的共感を覚えていたようです。
清少納言  

中島歌子が一葉に「尺なる金剛石一つほり出してし哉」これに対しての一葉はその心にいかる。

一葉「何故ぞや、こころの中の金剛石をすててさのみ野山にもとめ給ふらむ」田中みの子とともに中島歌子にも一葉は情を交わした一件の出来事を知っていた。そのように成功している、中島歌子は財もあるのに・・・・・。しかし中島歌子もそんなに裕福な状態が長く続かなかった。生い立ちから苦労を重ねた人生で、一葉を特に目をかけていたのは、その苦労がよくわかったからである。ゆくゆくは萩の舎を譲ことも考えていたらしい。一葉はそのことを知らず、不満を持っていた。

「お宮さんダイヤモンドに目がくらみ、今月今夜のこの月を私の涙で曇らせてみよう」。貫一・お宮の物語。

貧しきなかにも、礼節を失わずに、糊口としての文を軽蔑している一葉にとって、怒り心頭のことばであった。あればあったで人はさらにもっとほしくなるもの、節度(足る)を知ることは、なかなか難しい。

「金色夜叉」より
「一月の一七日、宮さん、善(よ)く覺えてお置き。來年の今月今夜は、貫一は何處(どこ)で此月(このつき)を見るのだか!再來年(さらいねん)の今月今 夜……十年後(じふねんのち)の今月今夜……一生を通(とほ)して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!可(い)いか、宮さん、一 月の一七日だ。來年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一は何處かでお前を 恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思ってくれ。」尾崎紅葉
尾崎紅葉:一葉には今一だった遊び人との噂で、桃水からの紹介を断る。

萩の舎は文京区春日1-9-28
中島歌子の歌塾『萩の舎』は、傳通院前の安藤坂の途中にあったといわれるが、現在跡地にはマンションが建ち面影を残す物は無い。この熟には、多くの名家から和歌を習う指定が通うとともに、樋口一葉もここで和歌・書道(千蔭流)・古典を学び、佐佐木信綱にして田辺竜子、伊藤夏子らとともに一葉も”萩の舎の三才媛”とも呼ばれた


牛天神社(北野神社)

入り口

境内には「萩の舎」を主宰していた中島歌子の歌碑がある。
雪のうち 根ざしかためて 若竹の 生い出むとしの光をぞ 思う

伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。

夏目漱石「こころ」の先生はこの近くに下宿していたとの設定になっています。『私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻って又富坂の下へでました。』 「こころ」

二十六年八月廿七日 小石川稽古に趣く。稽古後、師君と少しものがたりす。伝通院内淑徳女学校とかやに我を周旋せられんとする物語あり。我も思ふ処のべなどして帰る。母君にこの事を聞かせ奉るに、喜限りなし。今宵はいたく勉強したり。

伝通院内淑徳女学校の読書の先生にと中島歌子が斡旋してくれた。しかし小学校中退の一葉は学歴のために就職できなかった。「女子にながく学問をさせなんは行々の為よろしからず、針仕事にても学ばせ家事の見ならひなどさせん」という母の意見に従ったのだ。この時のことを彼女は「死ぬ計悲しかりしかど学校は止になりけり」と後に記している(「塵之中」1893(明治26)年8月10日)

針仕事が女の仕事と言う時代の考え方が一葉の生涯の就職口に影響する。父則義の進学させたいと言う思いと一葉の希望を叶えてあげれば一葉の才能ももっと開花したのではと思うと、残念である。一葉に学歴があればな~と思うのは私だけではないでしょう。

私立青海学校卒業証書。
番号一号は首席を意味している。

小学中等科第一級を五番、続いて高等科第四級を首席で修了。
三級に進まず退学する。

女子にながく学問をさせなんは行々(ゆくゆく)の為よろしからず、針仕事にても学ばせ家事の見ならひなどさせん。

父の「猶しばし」との意見と争ったが「死ぬ計悲しかりしかど学校は止になりけり」となるが、「夜ごと夜ごと文机に向かうことを捨てていない
その頃の人は、みな我をみておとなしき子とほめ、物おぼえよき子といいけり。父は人にほこり給へり。師は、弟子中むれを抜けて秘蔵にし給へり」日記明治二十六・八月

二といふとし、学校をやめけるが、そは母君の意見にて、女子にながく学問をさせなんは行々(ゆくゆく)の為よろしからず、針仕事にても学ぱせ、家事の見ならひなどさせんとて成(なり)き。父君はしかるべからず、猶(なお)今しばしと争ひ給へり「塵之中」

小説かく、文つくる、ただこれ、七つの子供の昔より思い置きつることの、そんかたはしをもらせるのみ」日記明治二十八・十

わが身は無学無職にして家に産なく、縁類の世にきこゆるもなし、はかなき女子の一身をささげで思ふ事を世になさんとするとも、こころ限あり、知恵の極みしるべきのみ

死ぬ計悲しかりしかど学校は止になりけり」と述べた一葉であった。しかし、父の言うままに母が従っておれば学歴が、将来中島歌子が一葉に仕事を斡旋しようと働いてくれたのが、淑徳女学校はであった。現在の淑徳学園。この年の9月に創設された。開校直前まで教員を探していたのだろうか。一葉は、「読書」の教員として周旋されたらしい。母が喜んだと記しているが、「今宵はいたく勉強したり」という言葉には、彼女自身の喜びや期待が窺える。しかし、学歴がいくら首席であっても、小学校中退なので就職はかなわなかった。このころからもう学歴社会の歪の目があったのでしょうか。

父則義が一葉に高等学問を勧めたが、明治の時代はまだまだ女子が学問という時代ではなく残念ながら、首席で中途退学している。しかし、父が中島歌子の萩の舎に入れたのは、学問の変りのたしなみとしてであった。一葉に時代のハイソサェティのお嬢様方を見る機会を与えた。最下層の龍泉寺町の長屋で子ども相手に一葉が商売をしていたときには、この落差は大きかったに違いない。この格差社会の経験が一葉の小説のもととなっている。

一葉には本当に足を引っ張る人は少なかったようであった。桃水の噂話、萩の舎での金の盗難事件(一葉に嫌疑がかかる、“大つごもり”の題材か?)これとても、お嬢様たちには痛くもない話、一葉の評判は落ちても、萩の舎での歌の実力は一葉が一番だった。平民3人組み、一葉、伊藤夏子、田中みの子(筆すさびに みの子の家のたたずまいがでてくる)。特に伊藤夏子は同じ夏子と言うこともあり、裕福な商家の娘で、敬虔なクリスチャンであったが、最後の最後の一葉に付き、一葉に援助し助け続けた。「和田芳恵の樋口一葉伝―一葉の日記」は一葉の年齢とともに書き記されたものですが、田辺花圃(良家の子女で最高の学問を身につけた才女)は一葉に先んじて小説を発表するし、萩の舎の歌子より和歌の指導を出来る分家のような形をとっている。そのために大金を投じたようだが、家は有名な政治家のお嬢さんで育ったので問題は難なくクリアーできたでしょう。いきさつは中島歌子が一葉に二円か何がしのお金が消えたのは、一葉が集金した中で、一葉がもらうべき金子を差し引き渡したらしい。「わかれ道」のようなエピソードです。


田辺花圃
一葉は田辺花圃に見習い、小説でお金を稼ごうとした。当時は女性が財産が無くて一家を養うには、身を売るしかなかった。妾は当時には公認のもの、一夫多妻が普通だった。花圃に相談する一葉は、花圃が結婚して家庭に入ることを知る。

それで花圃は一葉に単行本を出すように薦める。色々あったってくれたが雑誌の掲載になった。花圃はやはり、才女で小説も書いたが、生活がかかっている一葉とは違った。

田辺花圃の存在が一葉を小説家にしたことはゆがめないしまた桃水から分かれて、都の花に小説を掲載させてくれたのも、文学界との付き合いを始めたのも花圃の尽力があったからで、ライバルとともに一葉の恩人の一人である。

渋谷三郎、一葉の婚約者だった。
坂本三郎は真下之丞の妾腹にあたり、一葉の日記では渋谷三郎として一葉が14歳、三郎が19の時に松永政愛の家で初めて会い、父・則義が病床にあった晩年、見に来た三郎に則義が婿養子に入ことを望み、三郎も応諾の口約束をしたようだが、則義没後の樋口家零落や、取り持ち連中の利欲あって母から破談にしている。打算の多い人物とし、出世のためには好きな女も捨てる。しかし、後年一葉が死んでも何かと樋口一家に心をかけたらしいと、塩田良平氏は述べる。

しかし、花圃が後年一葉について語るときの辛らつさは、有名になった一葉への嫉妬、ひがみがあった。人を評するときには、気をつけたいものです。浪六も「よく私の家に来たが、つつましやかな小柄な女性だった」お金には触れずに、「現在、昭和九年、一葉女史とか何とかいいますが、普通の女ですよ」と切り捨てている。写真の風体からそのようなことを言いそうな感じだ。文筆家というより何かやばい仕事をしているおっさんのように見える。

友人『伊藤夏子』
近眼で今度お弟子入りした樋口夏子さんは「まま子」みたいな人ね。歌がるた取る時、かるたに噛み付くように眼をつけるので、樋口さんの頭が邪魔で、眼鏡をかけてちょうだいと申しましたが、眼鏡はかけないのです。牛込の小川町に私が引っ越してきたとき、樋口さんが遊びに来ました。私が戸外を見て、夏ちゃん、来てご覧よ安藤坂を通る人が見えると申しますと、いやだね、私が近眼だもんだから、あんな嘘をいって・・・どうしても信じませんでした。闇の晩は普通に歩いて、月夜の晩に手を引いてくれとは変ではないか・・なまじ見えるからかえって水溜りに落ちて危ないと申したそうで、皆で大笑いしました。田中さんはあけぴろげで何でもぽんぽん言う方でした。私もkなり露骨なほうでしたが、いくら親しくしてもなんだか霞のかかっているような人で、もう少し打ち解けてザックバランになってくれればいいのにと思っていました。寄り付きにくいというか、行儀のいい人でした。来ている着物もきちっと着ていて、泊まりに来ても、朝早くからちゃんと支度をして膝も崩さずに座っていました。私は朝寝が出来ないのという風に、距てつけがましいと思ふくらい行儀のいいかたでした。

生活上きちっとした性格と、だらだら眠れない、交感神経が少し過緊張気味であったようで、筋の緊張、末梢の血行障害などで肩こりもこれから来ている。

斎藤緑雨は一葉の独身論を伊藤夏子に訊ねたが知らないと答えたが、ただ一度、ある人に、金がなくて食へないなら親を連れて嫁に行けと言われた、イ夏ちゃん「お嫁というものは、食べるために行くのでない」と私にいうとことがございます。私もその自分はそんなことは考へませんものですから、そうね、食べるためにいくものじゃないわねと申したことがございます。田中さんはあれは望みが高いからだといわれたそうです。桃水の嫁に行くことなど考えてもいなかったと思われます。萩の舎ではずいぶん悪く云われて、一葉は今にやくざ小説家の食いものになるなど云われました。

はなから、一葉はお嫁に行く気は無かったと思われる。また母たき、妹邦子を残して行けなかった。

わたしら平民組三人は、何かにつけて催し物があれば、後ろに控えて、お茶、お菓子などの振る舞い役に回っていた。格差社会で維新で功績のあった者や儲けた者が幅をきかせていた。

「人々もはや来給ひてこなたへとの給はするに、目とどめて見てけれぱ、げにや善尽し美つくしたるきぬのもやうおびの色かがやく計(ばかり)に引つくろひ給ふ……いとどはずかしとはおもひ侍(はべ)れど、此人々のあやにしきき給ひしよりは、わがふる衣こそ中々にたらちねの親の恵とそぞろうれしかりき「身のふる衣まきのいち」明治二十年二月二十一日

真下専之丞 慈雲寺 慈雲寺内一葉・真下の碑

『一葉の父と祖父』
生来農を好まず経書に心を寄せ 慈雲寺の白厳(はくがん)和尚の寺子屋では群を抜いて優秀であった一葉の父大吉は大吉が立身の理想像として胸に描いていたのは、父親の友人で郷党の出世頭、真下晩菘(ましもばんすう)だった。中萩原の中農の子だった彼は、今や直参の侍となり蕃書調所の取調役として異国の書物を調査していた。

一葉の両親が甲州大藤村中萩原から両親が駆け落ちをして江戸にやってきて、同郷の成功者・真下晩菘を頼り、仕事に励んだとき、母たきは旗本二千五百石稲葉家の乳母として住み込み働く、稲葉の妻鉱が、事業の失敗で小石川柳町の裏に戻る。其の時1人息子正朔を預かるこの没落も一葉には乳兄弟の哀れを感じた。

山梨県塩山市中萩原の樋口家の墓

一葉の祖父の八左衛門は則義の父、享和二年(一八○二)生まれ。甲斐の国中萩原村(山梨県塩山市中萩原)八左衛門は学問があり、村人の訴訟事を引き受けた代言人で万副寺の惣代であった。その息子則義も農を好まず、碩学で、慈雲寺の住職白巌和尚の寺子屋の筆子になった。滋雲寺の境内と地続きに住む安兵衛の娘あやめと親しくなり、大吉(則義)と自由恋愛のため反対され、安政四年四月東京の同郷の成功者真下専之丞(中萩原の農民で益田藤助で八左衛門が兄事していた、この真下を頼って立身出世の人に厄介になった。

渋谷三郎(法政局参事官、早大教授、早大法学部長と登りつめ、第二次大隈内閣時代に秋田・山梨両県知事も歴任しました)。は一葉と結婚の約束を交わした成功者である(いきさつは、父の同郷の恩人、真下専之丞の妾腹の子、つまり孫の渋谷三郎です。一葉は13歳のとき知人の家(明治18年樋口家の親戚にあたる松永正愛という人の妻のところで裁縫を習いにいっていた)で6歳上の三郎と出会っています。その後三郎は一葉宅に出入するようになり、一葉の父も、早稲田専門学校で法律を学ぶ苦学生の三郎の面倒をよくみています。しかし、結婚の条件に多額の金子を要求したため、母多喜は怒り、破談になった。暑中見舞い、年賀の挨拶ぐらいの付き合いになっていたが、何かと心配してくれていたようだが、出世してトップを目指す人の場合はこれくらいの心配りがないと出世は出来ないでしょう。生来持っている、打算とよく気がつくものがないと、上役の受けもよろしくない。一葉とは反対の性格の人であった。一葉の父の見込みどおり出世していく三郎に対し、困窮していく一葉は日記の中で「思へば世は有為転変也けり」「此人のかく成りのぼりたるなんことに浅からぬ感情ありけり」と、複雑な心境を書き記しています。一葉は世間の打算と浅はかさ、厳しさを知った。

一葉は金がなくても、昔母が乳母に雇われた、没落したお屋敷のお嬢さんや、友だち、萩の舎の挨拶には何らかのものをもって挨拶に出かける習慣が身についていた。金がなくても決まりは決まりとして知人にふるまうのである。全くその日暮しの生活であったが。稿料が届くという知らせがあると一家をほっとさせ、とたんににぎやかにうきうきとなるが、こういう生活態度がやがて次の稿料を目当てに借金生活をする気持ちを強くさせることに、あわれさがあった。塩田良平氏

この真下晩菘の妾腹の孫、則義の生前に一葉と婚約する話のあったのが、出世した渋谷三郎である。一葉は没落していく一方、男に引け目を見せまいとする一葉の肩肘張った態度が見られる。戸主としての責任を負い、母たきと妹くにの幸せを、自分を犠牲にすることで、乗り切ろうとする一葉は世の愚考、俗物ぶりをバランスよく見つめる冷静な目が出来てきていた。

「暗夜」は一葉の渋谷三郎への答えであった。
「・・浮世の中の淋しき時、人の心のつらき時、我が手にすがれ、我が膝にのぼれ、共に携えて野山に遊ばばや、悲しき涙を人には包むとも我れにはよしや瀧つ瀬も拭う袂はここにあり、我れは汝(なんじ)が心の愚かなるも卑しからず、汝が心の邪(よこしま)なるも憎からず、過ぎにし方に犯したる罪の身をくるしめて今更の悔みに人知らぬ胸を抱かば、我れに語りて清(すず)しき風を心に呼ぶべし・・」

直次郎は車にはねられ、目覚めてみると菩薩と見まがった没落した屋敷に住む松川蘭、お蘭さまは車にはねられた時の車の人物が亡き父の恨みの政治家であった。美しかった救済の夢は荒れ寺のような邸の内で悪夢に変り、お蘭さまにはめられ直次郎は政治家へのテロに走ることとなる。

直次郎は失敗し、お蘭さまはいずこへ・・・・・・。政治家がお蘭の恨みの人物で、渋谷三郎が政治家で、一葉の恨みの人とダブらせるが、政治家は生き残り、お蘭は失敗に終わる復讐を知り、どこかへ消え去る。

母君は、いと、いたく名をこのみ給ふ質にておはしませば、児(こ)、賎業をいとなめば、我死すともよし、我をやしなはんとならば、人のみぐるしからぬ業をせよとなんの給ふ。そも、ことわりぞかし。我両方(ふたかた)は、はやう志をたて給て、この府にのぼり給ひしも、名をのぞみ給へば成けめ「筆すさび」一二十四年九月

龍泉寺茶屋町、一葉の店舗模型などがあり、見かえり柳、吉原大門(鉄性の飾りアーチで両替屋、燈篭、車夫は門前に待機している)、中之町玉菊燈篭(24歳で死んだ売れっ子)、張見世、検査場、東盛小学校、太郎稲荷(美登利が日参した)千束神社、酉の市鷲神社(おおとり)大音寺などが興味をそそられる。お齒ぐろ溝は楼閣の周囲に掘ってあり、外の世界と隔てる境界線の溝で、遊女のお歯黒で黒く染まった色をしていた。大黒屋など大きいみせはみな三階の作りになっていた。「見返り柳いと長けれど」実際に柳はそんなに長くは無い。柳の糸が長い、それから、回って行くと距離が長い、お齒ぐろ溝があるため、見ると近いが、実際には遠回りしなければならないという掛詞になっている。大音地前と吉原というのは、行ってみれば遠いが、しかし、また近い。

お歯黒 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AD%AF%E9%BB%92
かなり臭いものだったそうで、お歯黒溝に流れる黒い水はさぞ臭かったであろうと推察される。
「お歯黒溝」の壁

「廓の成り立ち」
都市に廓と呼ばれる空間を作り、遊女を集団で囲い込む仕組みは、1528年財政難にあえぐ室町幕府が傾城局を設けて、官許の遊女に年十五貫文の税金を課したことに始まる。集団を隔離して管理するようになるには、徳川政権になってからである。廓の制度が整備されるのは、秀吉の天下統一(1590)から鎖国の断行(1639)にかけての半世紀を要した。

売春防止法(昭和31年5月24日法律第118号)が出来るまで、多くの日本人は吉原通いを罪、とは思っていなかったと述べている。多くの芸術家などは、吉原から帰る・・・というのが一種の語り草になっていた。この様な男社会を目の当たりにした一葉は<男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり>という土佐日記の出だしのように、女性の性、不倫、姦通を描いてみた明治にとって稀有な作家であった。男も女に狂い(にごりえ)、女も男に狂う(裏紫)この様な題材を描くのは、周囲の環境もあるだろうが、一葉の男性社会、格差社会、底辺に生きる人たちとどうしようもない、男女の性の実体を見聞きしていただろうからでと想像できる。桃水、久佐賀という占い師に近づく一葉の度胸、お金目当ての接近であったが、体を張っての交渉で、一葉は男の本質、天啓顕真術会 久佐賀義孝との話し合いなどで、成長し、扱いを知った。ことの成り行きはいざ知らず、結果的には一葉文学に何らかの影響を及ぼしていると考えられる。この大胆不敵な行動を取る一葉は常識で計りかねる、いわゆる世間の、萩の舎の噂の種になる事は当然であったろうが、一般的読者もそのような関係を邪推するだろう。何も無いのはおかしいという常識である。一葉はこの常識が通じない人であった。

平田禿木、が馬場孤蝶の一葉に入れ込みようが、気に入らず むくれた という話し、川上眉山と一葉が婚約しているという噂など、世間の噂というものは得てしてこの様なものである。男女の交わりを経験していなくても、書き込める文章があるのでは無いか、それが小説家である。すべてを経験したことしか書けない小説家などいない。

一葉が桃水と久佐賀との関係があったそれは、お金が入っているからで、そのような場合、男は必ず体を要求するものだという一般常識は、ことしたたかな一葉に当てはまるのだろうか。桃水も久佐賀も(文学界)の仲間たちも皆、一葉が好きだった。彼女の顔かたちというより、彼女の文学的素養が彼女の魅力を増していた。話も、同時代の文学青年より上手だったに違いない。皆は一葉と話したかった。一緒に居たかった。話すと不思議な魅力のある女性だった。

江戸幕府から維新を経て、明治の中頃には、封建的な風土とともに鹿鳴館時代の新しい西洋風にファッション以外に、思想的にも変っていく時代で、新旧取り混ぜた時代だったと思われる。古い江戸の考えや、物腰を身につけて育った一葉は、考えの中には、当時の常識である女性の立ち居振る舞い、考えに同調しない新たな一葉の世界の考え方があったと考えます。そこが、文学を志す青年達には魅力的だったのではないか。この様な形で女性と議論を闘わし、年齢差以上に、もっと大人になっていた一葉の頼りがいのある化粧ッ気のない姉さんは、桃水とあった頃の初々しい乙女ではなく、したたかに数年の間に成長して、文壇の人気者になってしまった。それは彼女の書くものの素晴らしさ、当時の女性には無い素養、源氏物語をうつし書きし、枕草子も、徒然草も書きうつし、西鶴をも読んで、尾崎紅葉の勉強もしていた女性はそういなかっただろう。

「一葉の源氏物語の萩の舎の講義は「両手をすっぽり袖口に引っ込め、其の手を胸元できちんとかき合せ、いくらか前かがみに座っておられる。それが講義のときのお夏さんのきまった姿でした」疋田達子(文学界客員戸川残花の長女)樋口一葉『主婦の友社』昭和22年5月

一葉の講義は興が乗ってくると、かた、背中辺りが震えるよに見える、しかし、つまらないときには、髪の解れをつまみ、くるくると指で巻き上げるような仕草をしたそうな。

一葉と源氏物語
一葉はどの様な状況下にあっても、源氏の世界のような、優雅な心を失うことなく、ちょっとしたことにも風雅を愛する気持ちを持ち続けた。しかし、現実の世界とは裏腹だった。
紫 式部
土佐光起筆中宮彰子(時の権力者菅原道長の娘)
  紫式部の花と実

源氏物語は光源氏が様々の女性と関係を持っていく話である。光源氏を通してみた女性、女性からみた男性光源氏の男女の立場、ものの見方、葵の君を思い続けながらも次々と遍歴を重ねる男性と一人の男性を追い、待ち続ける女性との男女差を一葉は知っていたと思われる。光源氏と言い、もてた男性の最後は哀れな場合が多い。一葉の最後は、みなから惜しまれ、今でも思われるのは、一葉の24年の苦労が報われた一生だった。

中宮定子(藤原道隆の娘:才能豊かで教養もあった)に仕え、定子死後「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」遺詠、清少納言(枕草子は中宮定子の応援と鎮魂の書)の最後は哀れだったという、宮中では才女と言われただけに落差が大きい。よく男性が成功して、苦労を共にした細君を袖にして、若い女性に走るのはうらやましい話であるが、その最後は哀れな場合が多い。定子一族の没落と清少納言との苦労を共にしたものだけが分かる最後である。

清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば、まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし 行末うたてのみはべれば え心になりぬる人は いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ をかしきことも見過ぐさぬほどに おのづからさるまてあだなるさまにもなるにはべるべし そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」 - 『紫日記』紫式部は意地悪を書いています。

桃水から尾崎紅葉を紹介してもらうことになっていたが、叶わなかった。もし、合って桃水以上の文章の手ほどきを受けていたなら、どのようになっていただろうか? 紅葉のよからぬ噂も関係したとの話もある。一葉は紅葉をあまり買ってはいなかった。西鶴、露伴を買っていた。

鏑木清方は「その時代の子どもは今の子どもと違って、ほんとうの子どもの遊びらしい遊びに余念がないのと、商人や職人の多い下町の人には、幕府の朝政も、たいした関心を持たなかったのだから、人種がどうというどころか、子どもの私たちは、第一山の手なる境界、もう一つ進めていえば、自分たちの住んでいるところを下町と呼ばれることも知らなかった」(こしかたの記)鏑木清方

http://www.otorisama.or.jp/torinoichi.html 酉の市
http://www.dentan.jp/minowa/minowa02.html 千束稲荷神社



山本松谷画「吉原各桜」

酉の市には鷲大明神の東隣にあった新吉原では、通常開けない大門以外の門を開いて遊客を呼び入れたといわれます。それは酉の市への参詣が新吉原に繰り出す格好の言い訳ともなって、鷲大明神と新吉原にはまさにタイアップの関係が成立したのです。

「たけくらべ」は最初「雛鳥」と題せられた未定槁があった。文学界に掲載するにあたり、福山町で少し手直しして「たけくらべ」にした。

筒井筒ゐつつゐつつにかけしまろがたけ すぎにけらしないもみざるまに
  くらべこし振り分け髪もかたすぎぬ  君ならずして誰かあぐべき


伊勢物語の「筒井筒」の段の二首からとったといわれている

瀬戸内晴海監修 樋口一葉作品集 たけくらべ 朗読CD 幸田弘子 お勧めします。
まるで詩を聞いている如く、流れるような文章に幸田さんの語りとあいまって、一葉が描いた吉原界隈の子ども達の世界へといざなってくれます。読むより、聞いて味わうものと知りました。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person64.html#sakuhin_list_1
http://www.books-yagi.co.jp/pub/pages/bungei/pdf/01-03.pdf 貴重な原文
http://www.books-yagi.co.jp/pub/pages/bungei/pdf/01-04.pdf 「われから」
青空文庫、樋口一葉を参考にしてください。

11月23日は、一葉さんの命日ですので、各地で一葉祭が行われます。一葉記念館(竜泉寺町)では、幸田 弘子さんの『たけくらべ』の朗読会を行っています。 一葉忌は毎年、東京都文京区にある法真寺でもあります。

         明治初めの大門

江戸時代はコの字形の柱に冠木門であったが、
アーチ型の上に寺院などの窓に使う花頭形の
飾りを乗せている。

吉原大門

郭の中(仲之町)から外の五十軒町方面を望む
(明治中期の写真)

     見返り柳

見返ると、まるで遊女が
別れを惜しんで手をふって
いるかのように見えるという
柳の木です。





五十間道 ここからちょうど五十間の距離に大門がありました。
西河岸 同じ局女郎の見世ですが、羅生門より少し高級な見世が並んでいました。
仲の町 吉原のメインストリートです。茶屋(引手茶屋)が並んでいました。
待合の辻 呼び出し(上級の遊女)がここで客を待ったことから、この名があります。
羅生門河岸 「羅生門の鬼」のように、客の手をつかんだら離さないということからこの名がある。
         吉原でも最下級の局女郎のいる場所です。

http://www.furukawa-s.com/itiyo-yosiwara.htm たけくらべの世界がよく分かるサイト
http://www.furukawa-s.com/itiyo-yosiwara2.htm
柳川藩立花家下屋敷にあった光月町(現入谷2丁目)の太郎稲荷


鷲神社

樋口一葉文学碑


三島神社横道は往昔より、吉原土手に通ずる本通りで小高い土手であった頃、三島神社に参詣するは石橋を渡ったのである。土手が無くなった明治末よりその石橋を境内に敷き「三島様の石橋」として保存した。


    大音寺(龍泉寺町)
『たけくらべ』の信如の育った龍華寺のモデルといわれる大音寺の入り口。一葉旧居跡からは現在の国際通りを隔ててすぐの位置にある。

樋口一葉玉梓乃碑

千束稲荷神社 2月の二の午の日、千束稲荷神社で初午祭が行われる。五穀豊穣を祈って行われる。

太郎稲荷神社 大名の立花邸内にあったものなんです。西国の大名立花家の先祖が太郎稲荷の夢のお告げにより切腹を免れることが出来たということで邸内にお祭りしたんだそうです。こちらは上屋敷だったんですが、入谷の方には下屋敷があってその邸内にも祭られていて、太郎稲荷が現存しています。こちらのお稲荷さんは戦前は立派な社でしたが、立花家でも維持出来なくなって、お稲荷さんをお守りして祀ってくれる事を条件に土地ごと町へ下さったんです。高村光太郎は明治16年、この立花屋敷跡の借家で生まれている。嘉永.慶応の江戸切絵図を見ると、吉原遊郭の裏、入谷田圃の中に立花左近将監屋敷がある。流行(はやり)神として有名な太郎稲荷の盛況ぶりは、「近古聞及はぬ群参」「神前は賽銭供物に山をきづき」という程であったらしい。明治5年立花邸は廃され、左近原と呼ばれる淋しい原っぱになった。

美登利が日参した 太郎稲荷
井上安治画
  
「たけくらべ」の祭礼の舞台になった千束稲荷神社
社殿の和歌囃子。氏子は竜泉寺町と千束町の一部。


お歯黒溝とはね橋
大竹雪江 画

東盛小学校
(正太郎の通った公立小学校)

おはぐろどぶ 吉原を囲む用水路です。
遊女がおはぐろを捨て、そのために水が黒く濁ったので、この名があります。
龍泉寺町は、「三島神社から新吉原揚屋町の裏手へ通う通りを中心に、遊郭の裏側に広がった町」
「たけくらべ」の原稿:一葉筆


人力宿屋の隣、一葉の店、伊勢屋酒屋、魚屋
大音寺通りの一葉の店と「たけくらべ」の舞台となった場所

廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に 燈火《ともしび》うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來《ゆきゝ》に はかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前《だいおんじまへ》と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社《みしまさま》の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦《いへ》もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひは かつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形《なり》に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂《でんがく》みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手當こと/″\しく、一家内これにかゝりて 夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月|酉《とり》の日例の神社に 欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ 熊手の下ごしらへといふ、正月 門松とりすつるよりかゝりて、一年うち通しの夫れは誠の商賣人、片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着《はるぎ》の支度も これをば當てぞかし、南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ 大福をあたへ給へば 製造もとの我等萬倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは 思ひのほかなるもの、此あたりに 大長者のうわさ も聞かざりき、住む人の多くは廓者《くるわもの》にて良人は小格子の何とやら、下足札そろへてがらんがらんの音もいそがしや 夕暮より羽織引かけて立出れば、うしろに切火打かくる 女房の顏もこれが見納めか十人ぎりの側杖無理|情死《しんぢう》のしそこね、恨みはかゝる身のはて危ふく、すはと言はゞ命がけの勤めに遊山《ゆさん》らしく見ゆるもをかし、娘は大籬《おほまがき》の下新造《したしんぞ》とやら、七軒の何屋が客廻しとやら、提燈《かんばん》さげてちよこちよこ走りの修業、卒業して何にかなる、とかくは檜舞臺と見たつるもをかしからずや、垢ぬけのせし三十あまりの年増、小ざつぱりとせし唐棧ぞろひに紺足袋はきて、雪駄ちやら/\忙がしげに 横抱きの小包はとはでもしるし、茶屋が棧橋とんと沙汰して、廻り遠や 此處からあげまする、誂へ物の仕事やさんと 此あたりには言ふぞかし、一體の風俗よそと變りて、女子《おなご》の後帶きちんとせし人少なく、がらを好みて巾廣の卷帶、年増はまだよし、十五六の小癪なるが 酸漿《ほゝづき》ふくんで此|姿《なり》はと目をふさぐ人もあるべし、所がら是非もなや、昨日河岸店に何紫の源氏名耳に殘れど、けふは地廻りの吉と 手馴れぬ燒鳥の夜店を出して、身代たゝき骨になれば再び古巣への内儀《かみさま》姿、どこやら素人よりは 見よげに覺えて、これに染まらぬ子供もなし、秋は九月|仁和賀《にわか》の頃の大路を見給へ、さりとは宜くも學びし露八《ろはち》が物眞似、榮喜《えいき》が處《しよ》作、孟子の母やおどろかん 上達の速やかさ、うまいと褒められて今宵も一廻りと生意氣は 七つ八つよりつのりて、やがては肩に置手ぬぐひ、鼻歌のそゝり節、十五の少年がませかた恐ろし、學校の唱歌にも ぎつちよんちよん[#「ぎつちよんちよん」に傍点]と拍子を取りて、運動會に木やり音頭も なしかねまじき風情、さらでも教育はむづかしきに教師の苦心 さこそと思はるゝ入谷《いりや》ぢかくに育英舍とて、私立なれども生徒の數は千人近く、狹き校舍に目白押の窮屈さも教師が人望いよ/\あらはれて、唯學校と一ト口にて此あたりには呑込みの つくほど成るがあり、通ふ子供の數々に或は 火消鳶人足、おとつさんは刎橋《はねばし》の番屋に居るよと 習はずして知る其道のかしこさ、梯子のりのまねびに アレ忍びがへしを折りましたと訴へのつべこべ、三百といふ代言の子もあるべし、お前の父さんは 馬だねへと言はれて、名のりや愁《つ》らき子心にも 顏あからめる しほらしさ、出入りの貸座敷《いへ》の祕藏息子寮住居に 華族さまを氣取りて、ふさ付き帽子 面もちゆたかに洋服かる/″\と花々敷を、坊ちやん坊ちやんとて此子の追從するもをかし、多くの中に龍華《りうげ》寺「龍華《りうげ》寺」は底本では「龍華寺《りうじ》」]の信如《しんによ》とて、千筋《ちすぢ》となづる黒髮も 今いく歳《とせ》のさかりにか、やがては墨染にかへぬべき袖の色、發心《ほつしん》は腹からか、坊は親ゆづりの勉強ものあり、性來をとなしきを友達いぶせく思ひて、さま/″\の惡戲をしかけ、猫の死骸を繩にくゝりて お役目なれば引導《いんだう》をたのみますと投げつけし事も有りしが、それは昔、今は 校内一の人とて假にも侮《あなど》りての處業はなかりき、歳は十五、並背《なみぜい》にていが栗の頭髮《つむり》も思ひなしか 俗とは變りて、藤本信如《ふぢもとのぶゆき》と訓《よみ》にてすませど、何處やら釋《しやく》といひたげの素振なり。

龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出る風説《うはさ》をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此處しばらくの怪しの現象《さま》に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみ有けるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懷かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに傳へ聞く其明けの日は信如が何がしの學林《がくりん》に袖の色かへぬべき當日なりしとぞ。

千束稲荷神社

明治40年頃の鷲神社
「酉の市」小鳥居付近の写真

みどり

千束稲荷神社の夏祭りに始まった「たけくらべ」は大鳥大明神の酉の市(浅草の鷲神社は東側に新吉原という遊郭があり、酉の市御例祭の日には遊郭内が開放されたといわれ、地の利も加わり最も有名な酉の市として現在に至っております。)に賑わいをバックにクライマックスを迎える。この酉の市には隔離されていた、吉原も解放される。夏祭りの表、裏組の喧嘩も酉の市には商売に精をだして小遣い稼ぎをする。美登利も初潮を迎えて、お店に出るようになっていく。信如は修行に旅立つ、水仙の造花の花一輪残して。

造花の水仙をおいて行った信如は、漱石の「それから」のようなの生の百合は息苦しく感じるし、いずれは枯れます。
しかし、造花は枯れません。変わらぬ永遠の連某という感じが僧侶になるために決別を意味しているようなのです。

鏑木清方 美登利(たけくらべ)
鏑木清方は樋口一葉を心から敬慕し、
この『たけくらべ』は暗唱ができるほど
熟読していたそうです。
木村荘八画『たけくらべ』第七章
「道端に珍しき花などを見つくれば、おくれし真如を待ち合して、これ此様うつくしい花が咲いてあるに、桜が高くて私には折れぬ...」
木村荘八画『たけくらべ』第十二章
「真如が何時も田町へ通ふ時...運わるう大黒屋の..」
木村荘八画『たけくらべ』第十二章
「さっと吹く風大黒傘の...さのみに思わざりし前鼻緒のずるずると抜けて...」

樋口一葉 明治書院 写真作家叢書 塩田良平によると、たけくらべのモデルが出ている。
長吉のモデルは龍泉寺町98番地松山朝次郎の長男庄太郎といわれている。三五郎は同じ町103番地通称虎さんと言われた車夫の息子、山田三太郎。正太郎は同町364番地の質屋の息子、福田仙之助で当時祖母と暮らしていたが21歳で死んでいる。信如のモデルは大音寺の住職卓応の長男加藤正道。公立学校は東盛小学校(明治21年竣工)美登利については、松大黒楼の大巻が美登利の姉で、大黒屋の寮のすぐ近くに「松大黒楼」の支店「新松大黒楼」が出来、本店の大巻はそこへ移り、妹格の花魁「若緑」が残った。この「若緑」が美登利のモデルの可能性が強い。一葉は吉原の仲之町の手引茶屋「伊勢久」の番頭女中「木村ちよ」と懇意にして、当時の吉原廓内の事情に詳しかった。
大門吉原の唯一の出入り口 張見世 歌麿 明治時代の廓の張見世

正岡子規は当時23才の一葉の『たけくらべ』を読んで、こう評している。

一行を読めば一行に驚き一回を読めば一回に驚きぬ。 われかつて閨秀小説の語を嫌ふ。これを読むを欲せず人のこれを評するを聞くをだに嫌へりしなり。一葉何者ぞ」 ワッツ イチヨウ!

閨秀小説というのは女性の才人が書いた小説で、子規はそういう書は嫌いだと言ってるが、しかし、一葉とは何者だ。と驚きを示している。

高山 樗牛

高山 樗牛は「たけくらべ」によって熱烈な一葉ファンになり、その死にあたって、「その来るの何ぞ遅き、その去るの何ぞ疾き」と悼だ。
高山 樗牛は、機会あるたびに一葉にふれ、その文学史上の炳乎たる地位を称賛した。

『にごりえ』 題名の由来
『伊勢集』
 にごりえにすまむことこそかたからめいかでほのかに影をだに見む
 すむことのかたかるべきに濁江のこひちにかげもぬれぬべらなり


本郷丸山町明治二十六年七月二十日日記「かくあやしき塵の中にまじはりぬる後、よし何事のよすがありておもひ出られぬとも、夫は哀れふびんなどの情にはあらで、終に此の世を清く送り難く、にごりにごりぬる浅ましの身」と記されている。

終焉の地本郷丸山福山町四 
酌婦から聞いた話からできた「にごりえ」のお力が縁日にたたずんだ源覚寺

目と歯痛の御利益があるそうです。

真砂町の久佐賀義孝へ送った手紙
にごりににごれる世の中をいとひて清き一生を送らんとする身に災厄しばしば来たり危難度度のぞみて人知らぬ苦しみにこころ痛めつつ猶此のよを捨てもはてぬるは或る一つの大きなる望みにつながるればに御座候を我天声の小さくかすかに小溝の中に育ちて汚れの うちに死するうじむしと同じかるべしはさても情けなき生まれに御座候はずや天は無意識にして万物を生じ愛憎好悪なくおのおの処を得せしむるものと存じ候。

手紙で一葉が主張したかったのは、自分のように差別されやすい立場に住んでいて、生業といえば、ほとんど評価の対象とならない零細な商い生活をしている。一人の人間として自分の可能性とか、あるいは汚れなく生きようと努める義務、自由や幸福を求める権利そういったものが自分にもあるはずだし、境遇のいかんにかかわらず、人間すべてがそういうものが与えられていいはずなんだ」野口碩「一葉をめぐって」

鏑木清方画「にごりえ お力」昭和9年(1934)

「何たら事だ面白くもないと癇癪まぎれに店先へ腰をかけて駒下駄のうしろでとんとんと土間を蹴るのは二十の上を七つか十か引眉毛に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人食ふ犬の如く、かくては紅も厭らしき物なり、」
お力と呼ばれたるは中肉の背格好すらりつとして洗ひ髪の大嶋田に新わらのさわやかさ、襟もとばかりの白粉も栄えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳のあたりまで胸くつろげて、煙草すぱすぱ長煙管に立膝の不作法さも咎める人のなくこそよけれ、思い切ったる大形の浴衣に引かけ黒儒子と何やらのまがひ物、緋の平ぐけが背の処に見えて言わずと知れしこのあたりの姉さま風なり...」
木村荘八画『にごりえ』の挿絵 鏑木清方画「にごりえ」のお力と朝之助



おい木村さん信《しん》さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉《ふたば》やへ行く氣だらう、押かけて行つて引ずつて來るからさう思ひな、ほんとにお湯《ぶう》なら歸りに屹度《きつと》よつてお呉れよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言譯しながら後刻《のち》に後刻にと行過るあとを、一寸舌打しながら見送つて後にも無いもんだ來る氣もない癖に、本當に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて閾《しきゐ》をまたぎながら一人言をいへば、高ちやん大分御述懷だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい燒棒杭《やけぼつくひ》と何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで呪《まじなひ》でもして待つが宜いさと慰めるやうな朋輩の口振、力ちやんと違つて私しには技倆《うで》が無いからね、一人でも逃しては殘念さ、私しのやうな運の惡るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か何たら事だ面白くもないと肝癪まぎれに店前《みせさき》へ腰をかけて駒下駄のうしろでとん/\と土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛《ひきまゆげ》に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好すらりつとして洗ひ髮の大嶋田に新わらのさわやかさ、頸《ゑり》もと計の白粉も榮えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳《ち》のあたりまで胸くつろげて、烟草すぱ/\長烟管に立膝の無作法さも咎める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形《おほがた》の
裕衣に引かけ帶は黒繻子と何やらのまがひ物、緋の平ぐけが背の處に見えて言はずと知れし此あたりの姉さま風なり、お高といへるは洋銀の簪《かんざし》で天神がへしの髷の下を掻きながら思ひ出したやうに力ちやん先刻《さつき》の手紙お出しかといふ、はあと氣のない返事をして、どうで來るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つて居るに、大底におしよ卷紙二|尋《ひろ》も書いて二枚切手の大封じがお愛想で出來る物かな、そして彼の人は赤坂|以來《から》の馴染ではないか、少しやそつとの紛雜《いざ》があろうとも縁切れになつて溜る物か、お前の出かた一つで何うでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたら宜かろ、あんまり冥利がよくあるまいと言へば御親切に有がたう、御異見は承り置まして私はどうも彼んな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前なぞは其我まゝが通るから豪勢さ、此身になつては仕方がないと團扇《うちは》を取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。

魂祭《たままつ》り過ぎて幾日、まだ盆提燈のかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つは駕《かご》にて一つはさし擔ぎにて、駕は菊の井の隱居處よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、彼の子もとんだ運のわるい詰らぬ奴に見込れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをして居たといふ確かな證人もござります、女も逆上《のぼせ》て居た男の事なれば義理にせまつて遣つたので御坐ろといふもあり、何のあの阿魔が義理はりを知らうぞ湯屋の歸りに男に逢ふたれば、流石に振はなして逃る事もならず、一處に歩いて話しはしても居たらうなれど、切られたは後袈裟《うしろげさ》、頬先《ほゝさき》のかすり疵、頸筋の突疵など色々あれども、たしかに逃げる處を遣られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、蒲團やの時代から左のみの男と思はなんだがあれこそは死花《しにばな》、ゑらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井は大損であらう、彼の子には結構な旦那がついた筈、取にがしては殘念であらうと人の愁ひを串談に思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、恨は長し人魂《ひとだま》か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き處より、折ふし飛べるを見し者ありと傳へぬ

この最初の表現は、銘酒屋の雰囲気を良くつたえている、名文です。
銘酒屋の店先でお力とお高かが議論している場面で「気を付けてお呉れ店先で言はれると、人聞きが悪いではないか、菊の井のお力は土方の手伝いを間夫に持つなどと考違へをされてもならない、夫は昔の夢物語さ」「お前は思い切りが宣すぎるからいけない、兎も角手紙を御覧、源さんも可愛さうだわな」

斉藤緑雨がこの「にごりえ」を一葉に「涙の後の冷笑」と評し、一葉もこの評にうなずく。一葉は越してから家の看板に「お料理仕出し云々」と千陰流の筆を握った。其の家に居た銘酒屋の女で一葉の所へ客筋に出す手紙を書いてもらいに来ていた。其の女は後数寄屋町の芸者になってからもわざわざ一葉に所へ文を書いてもらいに来ていた。

昔一葉の母が仕えた旗本稲葉家の姫で、今はすっかり落ちぶれたお鉱、その夫で車夫をしている寛、両人のこども正朔の一家を訪れた一葉が、持ちた三人が源七、お初、太吉のモデルなのか、源吉のモデルが、一葉の親戚の広瀬ぶんという女に迷ってやはり車夫まで身を落とした小山内庄司ということ、朝之助のモデルは半井桃水であるのではと述べる和田芳恵氏

そもそも最初から私は貴君が好きで好きで、一日お目にかからねば恋しいほどなれど、奥様にと言ふて下されたら何うでござんしょうか、持たれるは嫌なり他処ながらは慕はしし、一ト口に言われたら浮気者でござんしょう」この一節が一葉の桃水への複雑な心情を表わしている。

十三夜
滝澤徳雄画『十三夜』。

「さやけき月に風のおと添ひて、虫の音たえだえに物がなしき上野へ入りてよりまだ一町もやうやうと思ふに、いかにしたるか車夫はぴつたりと轅を止めて、誠に申かねましたが私はこれで御免を願ひます、..」
幼なじみの煙草屋の倅で、車夫になった貧しい高坂録之助と資産家の原田勇に嫁した阿関が偶然にも夜上野の森で出会い身の上を語る場面。この絵と下の挿絵は「十三夜」の情景をよく映し出している。

『十三夜』の挿絵高級官僚原田勇に嫁いだお関が、昔憧れの青年だった落ちぶれた緑之助と再開したときのシーン。

幼なじみの煙草屋の倅で、車夫になった貧しい高坂録之助と資産家の原田勇に嫁した阿関が偶然にも夜上野の森で出会い身の上を語る場面

下谷御徒町、下谷西黒門町、神田淡路町に一葉は父が死ぬまでの18歳までに住んだ場所です。「十三夜」は舞台が神田、下谷になっている。主人公のお関は一葉の姉ふじが再婚した相手からも夫婦仲が良くなく、家出をしたことがヒントとなっている。お関の両親は一葉の両親がモデルではないかと言われている。落ちぶれた緑之助は稲葉寛の没落をモデルとしている。

一葉は、見聞した材料から、自身の体験を盛り込み、自身の古典的な知識を加えて作品を作るようなスタイルです。いたるところに、経験した材料が使われている。

十三夜 後の月:「十三夜」とは、陰暦の毎月13日の夜をいいますが、特に陰暦9月13日の夜とその月を指します。(2008年は、新暦10月11日)

陰暦8月15日の「十五夜」の月に対して、陰暦9月13日の月を「後の月」(のちのつき)、といい、「中秋の名月」の次に美しい月といわれ、もうひとつの月見とされています。「十三夜様」は縁起の良い月とされ、「拝むと成功する」といわれています。また、「毎月十三夜の月を拝むと、財運に恵まれる」ともいわれています。

芋名月 豆名月・栗名月:十五夜はもとは、里芋をはじめとする畑作作物の収穫祭でした。芋類を供えて芋の収穫を感謝する習わしから、「芋名月」とも呼ばれています。

十五夜の「芋名月」に対して、十三夜は、収穫した豆や栗を供えるので、「豆名月」や「栗名月」といいます。やがて稲作中心となり、米で作る団子を供えるようになりました。

片見月は縁起が悪い? 十五夜に月見をしたら、十三夜にも月見をしなければならないといわれています。十五夜だけの月見は「片見月」(かたみつき)といって、縁起が悪いとされます。稲作以前の社会では、芋も豆も栗も主要な食料でした。そこで十五夜と十三夜の両方を祝ってこそ、完全な畑作収穫の祭りになるとされ、収穫儀礼として手抜かりがないように、言い伝えられたものです。

このような仕来たりも明治になって廃れてきましたが、一葉は江戸の気風を残す最後の作家ですから、このような仕来たりは大切にしたと思える。

上野へ入りてよりまだ一町もやう/\と思ふに、いかにしたるか車夫はぴつたりと轅を止めて、誠に申かねましたが私はこれで御免を願ひます、代は入りませぬからお下りなすつてと突然にいはれて、思ひもかけぬ事なれば阿關は胸をどつきりとさせて、あれお前そんな事を言つては困るではないか、少し急ぎの事でもあり増しは上げやうほどに骨を折つてお呉れ、こんな淋しい處では代りの車も有るまいではないか、それはお前人困らせといふ物、愚圖らずに行つてお呉れと少しふるへて頼むやうに言へば、増しが欲しいと言ふのでは有ませぬ、私からお願ひです何うぞお下りなすつて、最う引くのが厭やに成つたので御座りますと言ふに、夫ではお前加減でも惡るいか、まあ何うしたといふ譯、此處まで挽いて來て厭やに成つたでは濟むまいがねと聲に力を入れて車夫を叱れば、御免なさいまし、もう何うでも厭やに成つたのですからとて提燈を持しまゝ不圖脇へのかれて、お前は我まゝの車夫さんだね、夫ならば約定の處までとは言ひませぬ、代りのある處まで行つて呉れゝば夫でよし、代はやるほどに何處からまで、昔の友といふ中にもこれは忘られぬ由縁のある人、小川町の高坂とて小奇麗な烟草屋の一人息子、今は此樣に色も黒く見られぬ男になつては居れども、世にある頃の唐棧ぞろひに小氣の利いた前だれがけ、お世辭も上手、愛敬もありて、年の行かぬやうにも無い、父親の居た時よりは却つて店が賑やかなと評判された利口らしい人の、さても/\の替り樣、我身が嫁入りの噂聞え初た頃から、やけ遊びの底ぬけ騷ぎ、高坂の息子は丸で人間が變つたやうな、魔でもさしたか、祟りでもあるか、よもや只事では無いと其頃に聞きしが、今宵見れば如何にも淺ましい身の有樣、木賃泊りに居なさんすやうに成らうとは思ひも寄らぬ、私は此人に思はれて、十二の年より十七まで明暮れ顏を合せる毎に行々は彼の店の彼處へ座つて新聞見ながら商ひするのと思ふても居たれど、量らぬ人に縁の定まり

このようなドラマチックで抒情的な話はいいですね。

http://www.kyy.saitama-u.ac.jp/~yagi/study/ichiyodiary_1.html
樋口一葉日記 髪型資料

http://www.asahi-net.or.jp/~ea8t-mcd/98kiku.htm
下谷・竜泉 菊祭り

http://www.tctv.ne.jp/members/mkim/s-ryusenji.html
竜泉寺町
樋口一葉作品集  三 大つごもり、わかれ道 幸田弘子
樋口一葉作品集  四  十三夜、日記   幸田弘子

吉原炎上 明治44年4月9日には大火が発生した(吉原大火)しかし一葉の時代にも
※ 三月二十八日 此夜神田佐久間町より失火 風はげしければ焼けぬべき模様なり
※ 喧嘩だ、火事だ家事だ め組みの親分辰五郎のお出ましだ。新さんどういたいやしょう。
大門のみが残る炎上跡

『大つごもり』
一葉10歳の時、次兄虎之助は勉強嫌いのため、勘当された。石之助のモデルは次兄虎之助で、お峰が父の借金のために二円を盗んだが、石之助が盗んで助けてくれた。一葉の兄にも助けてもらいたいとの希望が、深層心理にあったのだろうか。

金は何として越す、三之助を貰ひにやろかとあれば、ほんに夫れで御座んす、常日さへあるに大晦日といふては私の身に隙はあるまじ、道の遠きに可憐さうなれど、三ちやんを頼みます、晝前のうちに必らず必らず支度はして置まするとて、首尾よく受合ひてお峰は歸りぬ。

御新造は驚きたるやうの惘れ顏して、夫れはまあ何の事やら、成ほどお前が伯父さんの病氣、つゞいて借金の話しも聞ましたが、今が今私しの宅から立換へようとは言はなかつた筈、それはお前が何ぞの聞違へ、私は毛頭も覺えの無き事と、これが此人の十八番とはてもさても情なし。

金なら二圓、しかも口づから承知して置きながら十日とたゝぬに耄ろくはなさるまじ、あれ彼の懸け硯の引出しにも、これは手つかずの分と一ト束、十か二十か悉皆とは言はず唯二枚にて伯父が喜び伯母が笑顏、三之助に雜煮のはしも取らさるゝと言はれしを思ふにも、どうでも欲しきは彼の金ぞ、恨めしきは御新造とお峰は口惜しさに物も言はれず、常々をとなしき身は理屈づめにやり込る術もなくて、すご/\と勝手に立てば正午の號砲の音たかく、かゝる折ふし殊更胸にひゞくものなり。

伯父や伯母は知らぬ事なればお免しなさりませ、勿躰なけれど此金ぬすまして下されと、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚、つかみし後は夢とも現とも知らず、三之助に渡して歸したる始終を、見し人なしと思へるは愚かや。


『わかれ道』
斎藤緑雨は「筆のややみだれんととす」と危惧を表わしている。上田敏は一番の傑作と言っている。最初の会話文から始まるのは大衆小説の手法だそうである。

お京は最後妾になる。これは久佐賀義孝という占い師が一葉に妾にと持ちかけたことが関係しているのであろうか。私は最後の傘屋の吉がお京が妾になると聞いた時、吉は涕の目に見つめて、お京さん後生だから此肩の手を放してお呉んなさい。と拒否の反応を示している。暗に一葉は妾になることを嫌っている。と感じますが。そのセリフが「吉は涕の目に見つめて、お京さん後生だから此肩《こゝ》の手を放してお呉んなさい」で表わされています。この最後にはグーット来ますね。

お京《きやう》さん居ますかと窓の戸の外に來て、こと/\と羽目を敲《たゝ》く音のするに、誰れだえ、もう寐て仕舞つたから明日來てお呉れと嘘を言へば、寐たつて宜いやね、起きて明けてお呉んなさい、傘屋の吉だよ、己《お》れだよと少し高く言へば、嫌な子だね此樣な遲くに何を言ひに來たか、又お餅《かちん》のおねだりか、と笑つて、今あけるよ少時《しばらく》辛棒おしと言ひながら、仕立かけの縫物に針どめして立つは年頃二十餘りの意氣な女、多い髮の毛を忙しい折からとて結び髮にして、少し長めな八丈の前だれ、お召の臺なしな半天を着て、急ぎ足に沓脱《くつぬぎ》へ下りて格子戸に添ひし雨戸を明くれば、お氣の毒さまと言ひながらずつと這入るは一寸法師《いつすんぼし》と仇名のある町内の暴れ者、傘屋の吉とて持て餘しの小僧なり、お京さんばかりは人の妾に出るやうな腸の腐つたのでは無いと威張つたに、五日とたゝずに兜《かぶと》をぬがなければ成らないのであらう、そんな嘘つ吐きの、ごまかしの、欲の深いお前さんを姉さん同樣に思つて居たが口惜しい、最うお京さんお前には逢はないよ、何うしてもお前には逢はないよ、長々御世話さま此處からお禮を申ます、人をつけ、最う誰れの事も當てにする物か、左樣なら、と言つて立あがり沓ぬきの草履下駄足に引かくるを、あれ吉ちやん夫れはお前勘違ひだ、何も私が此處を離れるとてお前を見捨てる事はしない、私は本當に兄弟とばかり思ふのだもの其樣な愛想づかしは酷からう、と後から羽がひじめに抱き止めて、氣の早い子だねとお京の諭《さと》せば、そんならお妾に行くを廢めにしなさるかと振かへられて、誰れも願ふて行く處では無いけれど、私は何うしても斯うと決心して居るのだから夫れは折角だけれど聞かれないよと言ふに、吉は涕の目に見つめて、お京さん後生だから此肩《こゝ》の手を放してお呉んなさい。

『うもれぎ』
芝西応寺町十六番地の兄虎之助の家に一家が厄介になる。一葉16歳の時。母と虎之助は相変わらず中が悪かった。このとき兄から聞いた陶芸の話をヒントに「うもれ木」ができている。

一時期兄虎之助の家にいた時に、陶芸の話を聞き、書き上げたのが「うもれ木」であった。虎之助は薩摩焼の絵付けの名手となり、一葉は陶工を主人公にした小説「うもれ木」執筆にあたり、虎之助に陶器の製造法など聞いています。虎之助は大正14年に東京で60歳で亡くなりました。台東区の一葉記念館に虎之助(奇山)作の一輪ざしがあります。

二日 晴天。田辺君よりはがき来る。「『うもれ木』、『都の花』にのせ度よし、金港堂より申来たりたる」よし。「原稿料は一葉廿五銭とのこと、違存ありや否や」と也。直に「承知」の返事を出す。母君、此はがきを持参して、三枝君のもとに此月の費用かりに行く。心よく諾されて六円かり来り。そは、「うもれ木」の原稿料十円計とれるを目的に也。此夜国子、共に下谷ステーシヨンより池のはた近傍を散歩す。

野尻理作 一葉の妹国子が好きだった。

父則義の同郷で母方の遠縁で作り酒屋の次男で、帝国大文科の学生で、則義は彼の保証人になっている。則義死亡の際、母“たき”は理作を呼んで、葬儀、新聞の死亡欄への連絡を手伝ってもらっている。妹くには理作に思いを寄せていたが叶わなかった。故郷に帰り、新聞社甲陽新報をおこす。

一葉も小説、『経つくえ』を6回分送っていた。理作は一葉が好きだったらしい。一葉は幼馴染ぐらいにしか思っていなかった。

廣瀬よりの便りに聞けば野尻ぬし妻むかへ給へりとなん 国子の心をおもいやるに我ももの悲しさ堪えがたし ささやかなる紙に小さく書きて見するをみれば
「国子の心をおもいやるに我ももの悲しさ堪えがたし」
「いにしへにためしも有るとあきらめて夢のうきよをうらみしもせじ」くにいと哀れなるままに


身にちかくためしも有をくれ竹の うきよとはしもうらむなよ君」一葉
又国子書く
我が心しかるべき君のなかりせば うきよを捨つるすみ染の袖
我うち笑ひて心から衣のうらの玉も有るを すみ染とまで何おもふらん
夜ふくるまで国子ねむりやららぬに いでや君などは寝ぬぞぬば玉の よは夢ぞかし
ながむればこひしき人の恋しきに くもらばくもれ秋のよの月

(よもぎふ日記明治二十六・三・十六)

浄土宗法真寺時代に一葉の『ゆく雲』、野沢桂次のモデルは野尻理作といって、小説どおりの経歴の学生だ。ぬいは一葉ではなく、妹邦子である可能性が高い。

上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて寺内広々と桜桃いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま濡れ仏にておはします御肩のあたり膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて前に供へし樒の枝につもれるもをかしく、下ゆく子守りが鉢巻きの上へ、しばしやどかせ春のゆく衛と舞ひくるもみゆ、かすむ夕べの朧月よに人顔ほのぼのと暗く成りて、

十九日 好天気なり。(略)『都之花』に載すべき筈にて金港堂へ廻し置たる小説もはや一ト月計にも成れるを、いまだ其価は我が手に入らず。さりとて催促すべき処もなければ、日々首をのばして便を待ばかり。母君よりは手元の苦るしさをしばしば訴へ給ふ。それも道理也。「此月中に是非入金の道なくば」と頭を悩ます。『甲陽新報』へも六回計の物差出し置し夫さへ何の便りもなく、日々に送り越す新聞さへ此両三日は如何にしけん発送もなし。彼れ是れと煩はしくて、夜に入れどねむり難く、書見に二時すぐるまで更したり。

廿日 好天気。よべ夜更しをなしたるに、少し朝寝をしたりし枕もとに、早くも『甲陽新報』つき居たり。邦子いちはやくくり広げて、「あゝ今朝より『経づくえ』出たり」とさけぶ。我れもあわたゞしく起出て見れば、実にぞしか也き。此月の六日計にさし出し置しの也けり。「此分にては、更に著作し送るとも没書にも成るまじ」と安心す。おもへば我ながら恥かしき心也。智識たらず学事とゝのはずとは万も二万も承知なしながら、文学中ことに六つかしゝと聞く小説をかきて一家三人の衣食をなさんなど、大たんといはんか身知らずと言はんか。人知らぬよ半の寝覚に背に汗のいと心ぐるし。さるものから、是れに依らずは母君を安心させ奉ることも家の名をたつることも成らずなど様々に。


『日用百科第十二編 通俗書簡文』一葉の死期を早めたといわれる
「書簡文書きつるは誠なれど文反古などいひて小説めかしきものには非ずといへば されとも君の書きたまえるには相違なきなるべし さらば面白き事、直ちに帰りて拝見すへし」 乙羽庵(大橋又太郎)のいへるに通俗書簡文と題はおきたれど終わりのかたは純然たる小説なりと語りたれど何の彼の男が批評眼とさのみ心にととめさりしなれとも君のものし給へるとならは必ず拝見すへきものなり いと面白かるへしとて笑ハるるにいな、見給ふハ嫌なり ゆるし給へと侘るををかしけに見やりてさもあらはあれ もはや印刷所に附して世に出し給へるなれは詮なし、書店にて売居る以上は致しかたなかるへしと又笑ふ、正太夫(斉藤緑雨)としは二十九 痩せ姿の面やうすご味を帯びて唯口もとにいひ難き愛嬌あり・・」

一葉の本で最も売れた本です。世の中は文学よりこのような実用書が売れるのです。悲しいかな文学で食っていける人は少数なのは現在でも変わらないようです。何か事をなす、自分の理想を追い求めることと生活の糧を得ることは別なんです。一葉は一家を支えるために明治の時代に文章を書いた。現在では、霞を食って幾位の覚悟が要ります。NHK新日曜美術館で髙島野十郎を知りました。東京帝国大学の水産学科を首席で卒業するが

一族の反対を押し切って絵の道を志した人です。一生孤独の中、独身で絵を描いていた人で田中一村(東京美術学校入学後わずか3ヶ月で退学、同級に東山魁夷橋本明治山田申吾がいた)を思い浮かべました。私は両者の画集を持っています。このような厳しい現実社会に生きていくには並大抵の気持ちでは出来ません。現在の日本社会にドロップアウトした人は、この様な人がいたことを知ってほしいですね。目的のためにすべてを犠牲にして生きてきた。家族も持たずして。幸せな家庭、のどかな仕事などでは何事をも達成できないような気がします。何かをなそうするのには、何かを犠牲にすることが必要ではないでしょうか。両立することはよほどのことがなければできないでしょう。特に芸術関係に於いては。閨秀小説に出てくる作家は多くは早死にしています。皆、命を削って作品を作り、生活をしていたのでしょう。
蝋燭 髙島野十郎

「久佐賀義孝へ接近」
すでに浮世に望みは絶えぬ、此身ありて何にかはせん、いとをしとをしむは親の為のみ。さらば一身をいけにゑにして運を一時のあやふきにかけ相場といふこと為して見ばや。されども貧者一銭の余裕なくして、我が力にて我がことを為すに難くおもひつきたるは先生のもと也」

一葉の口上に聞き入っていた久佐賀はじっと一葉をながめて、生年月日を聞いた。久佐賀は「さても上々の生れかな。君がすぐれたる処をあげたらば、才あり、智あり、物に巧みあり、悟道の方にはゑにしあり。をしむ処は、望みの大にすぎてやぶるゝかたち見ゆ。福禄十分なれども、金銭の福ならで、天稟うけ得たる一種の福なれば、これに寄りて事はなすべきに、万商(よろずあきな)ひと聞くだに君には不用なるを、ましてや売買相場のかちまけをあらそふが如きは、さえぎつて止め申べし」と鑑定している。

対して一葉は「我が一生は破れて、道端にふす乞食かたゐの末こそは終生の願ひ成けれ」「要する処は好死処(よきしにどころ)を得まほしきぞかし。先生、久佐賀様この好死処ををしへ給らずや」と破滅的な言葉を口にし、「世に処す道のさまもうるさし。おもしろく、花やかに、さわやかの事業あらばをしゑ給へ」と切り返す。ところが久佐賀の返事は「されども、円満を願ふはうきよのならひにして、円満をつかさどるは我がつとめなり。破れの事は俄かに語るべからず

一身をいけにえにして運を一時の危きにかけ相場といふ事を為して見ばや」一葉がここまで思い切る度胸があることに驚くが、二十歳すぎの女性が一家を養う手だてを考えた末、異常な精神状態になっていたとしか言えない。これを田辺花圃が、お茶屋の女将さん風と言ったのは、このような苦労が一葉を、お嬢さんからたくましく生きる下町の女に変えていった。舊い日本の最後の女、または最後の江戸の女であった。そのため、漱石のような西洋帰りのような知識と見識を持ち合わせていなかったが、日本の伝統的な底辺に生きる女として、生き、書いた最後の小説家であった。

世はいかさまに成らんとすらん。上が上なるきはに、 此人はと覚ゆるもなし。浅ましく憂き人のみ多かれば、いかで埋もれたるむぐらの中に共にかたるべき人もやとて、此のあやしきあたりまで求むるに、すべてはかなき 利己流のしれ物ならざるはなく。はじめは少しをかしとおもふべきも二度その説をきけば、厭ふべくきらふべくそのおもてにつばきせんとおもふ計(ばかり)なるぞ多き。かつて天啓顕真術会本部長と聞えし久佐賀のもとに物語しける頃、その善と悪とはしばらく問はず、此世に大なる目あてありて、身をすてつゝ一事に尽すそのたぐひかとも聞けるに、さてあまたゝびものいふほどに、さても浅はかな小さきのぞみを持ちて、唯めの前の分厘にのみまよふ成けり。かかるともがらと大事を談したらんは、おさな子にむかひて天を論ずるが如く、労して遂に益なかるべし」 (「水の上日記」明27、 6、 5)

塩田良平氏は「久佐賀義孝は悪人ではもとよりなく、(紳士年鑑に常時名を連ねる人しかし一葉に出した手紙を見ると、情けない、悪筆は、その人の人間性も劣っているように思われますので、損です。)寧ろ正直で物を割り切れる人物であったに違いない。一葉への要求も当時の俗習からいえば不思議ではなく、要するに桂庵を通さず直接に言うだけに手数料も省けたのかも知れないのだが、一葉からみればこの上の屈辱はなかった。一葉が「男」と直接に対決したのは恐らく久佐賀が最初であったろう。のこ「いとうべき」男心は桃水からは発見できなかった。桃水が一葉に金銭的援助をしたことは疑いも無いことと思われるが、その代償は求めなかった。久佐賀を知るに及んで、彼女が桃水と比較せざるを得なくなるのも当然であったろう。それにも拘わらず、公然と彼女の身体を要求する久佐賀の許へ、赴かざるを得ないほど、彼女の現実は急迫していたのである。名目は歌道を達成するためとか母や妹を養うためにとか、いくらでも口実はつけられようが、所詮は“たき”のための借銭であり、それも出世証文に等しい借金であった。感情を伴わない行動は、もとより売笑にすぎないが、一葉の場合には、久佐賀の欲望に抵抗しながらも、観念的には売色に近い気持ちを持ったに違いない。相手に公然と要求されながら、尚且つ相手に近づいている一葉は、普通の処女には見られない不敵さが潜んでいたとも考えられる。かくして“ひが者一葉”の抵抗は、對家庭、對社会、そうして對男性へと拡大されていった。

『蓮門教、行者、二十二宮人丸』
一葉はこの変化、このようなところにも訪れているが、化けの皮をはがしている。一葉はこのように人を見る目を養っていった。

「何回か会っているうちに、その正体が分かったのだった。二人とも、浅はかで、ちっぽけな望みにとらわれ、ただ「目の前の分厘にのみ」きゅうきゅうとする輩でしかない。「こんなくだらない男と大事を論ずるのは、幼子にむかって天を論ずると同じで、労ばかり多くて益はひとつもない」と、ぼろくそに日記に書いている。

金と交換に身をまかせてはどうかと迫る久佐賀にいたっては、「われを女と見て、いかがわしいことをもち出す」最低の男で、しつこい手紙にも、「おもしろからぬ者ども也」、「そのままにす」と切り捨てている。つかず離れずの手紙のやり取りは何を意味するのか。

『菊坂時代』 長兄泉太郎が死亡、則善は警視庁を退官して神田の荷車請負業組合に出資して、事務総代になっていた。この組合は失敗し、則善は痛手を負い、明治22年父の死後、渋谷三郎の婚約はうまくいかなく、次兄虎之助のもと(芝西応寺町から小石川安藤坂の萩の舎)に一家は身を寄せる。

しかし、母と兄の中が悪く、一葉は萩の舎に通うのが遠くて、萩の舎に内弟子として住み込む。歌子も忙しいなか一葉が来てくれて助かったが、女中が辞めて、一葉は女中の仕事も兼用させられた。それで、一家は本郷菊坂に転居した時に、一葉は萩の舎から出て本郷菊坂に親子三人で住むようになった。

「天啓顕真術会本部」へ一葉が訪れる。

ふるは少し過たるべし。耳なれたるとうふりの声の聞ゆるに、おもへば菊坂の家にてかひなれたるそれなり。あぶみ坂上の静かなる処ど真砂丁三十二番地と人をしゆるままに、とある下宿屋のよこをまがりて出れば、やがてもと住ける家の上なり。大路よりは少し引入りて、黒ぬり塀にかしの木の植込みえたる、入るべき小道にしるしの招たてて、雨露にさらされたれば、文字はうすけれど、天啓顕真術会本部とやまれたるにぞ、此処也とむねとどろく。

菊坂町七十番地の井戸をあがったところに天啓顕真術会 久佐賀義孝の家は鐙坂(あぶみざか)ににあった。菊坂の家から直ぐ近い。

菊坂町七十番地 「鐙坂学問所」の小門過ぎれば鐙坂 菊坂町の階段を上り、この左側久佐賀屋敷跡

菊坂町七十番地の、一葉が使った井戸のある上の道を上がると、久佐賀義孝のお屋敷があった。菊坂から引越し後訪れるが、当時の本郷菊坂町時代での久佐賀の暮らしで目にしいた、占い師の金満ぶりを一葉は、久佐賀から何らかのお金を引き出そうとする。萩の舎でも、一葉は人によって態度を変えて接していた節がある。文学界の同人たちには、そのような対応をする必要がなかった。一葉が生きていくために身に着けた生きる知恵だった。

「村上波六」(久佐賀義孝の次に一葉が狙った相手)。
流行作家で桃水の知り合い。一葉の「うもれ木」の載った「都の花」の中に波六も「斯豪傑」も書いている。一葉はこの男にも金を借りに行っている。久佐賀より文章も上手く、一葉を期待させるが、結局金を貸さずに終わっている。一葉は無いなら無い、貸さぬなら貸さぬとはっきりしろと言っている。少し、乱暴です。撥鬢(ばつびん)小説〉とよばれる通俗小説で、その男性的心意気と旧道徳観が人気をえた。以後作家として立つことに満足しないまま多くの作品を書き続け、大衆作家として長く人気を持した。後年、一葉のことを聞かれて、ただの女ですよと答えていたそうですが、名を残したのは波六ではなく、一葉でした。流行作家は消え去るのみ。

主な作品に1892「井筒女之助」「奴の小万」、1896「当世五人男」、1914「我五十年」などがある。一葉には何の興味も示さなかった。

誰れもたれも、いひがひなき人々かな。三十金五十金のはしたなるに夫(それ)すらをしみて出し難しとや。さらば明らかに、とゝのへがたし、といひたるぞよき。ゑせ男を作りて髭かきなぜなど、あはれ見にくしや。引うけたる事とゝのへぬは、たのみたる身のとがならず。我が心はいさゝ川の底すめるが如し。いさゝかのよどみなくいさゝかの私なく、まがれるは人々の心也。我れはいたづらに人を計りて栄躍の遊びを求むるにもあらず。一枚の衣、一わんの食、甘きをねがはず、美しきをこのまず。慈母にむくひ、愛妹をやしなはん為に、唯いさゝかの助けをこふのみ。そも又、成りがたき人に成りがたき事をいはんや。我れたのみ、かれうけ引けばこそ、打もたのむなれ。たのまれて後いたづらに過すはそもたれの罪とかおぼす。我れに罪なければ天地恐ろしからず」 「水の上日記J(明28、5、1)

このように怒り心頭に達している。一葉に金を貸さぬものは、ことごとく罵倒される運命にある。このことからも、一葉一家は宵越しの金は持たない主義的な、お金を貯蓄する事への執着心が淡白な一家であったようです。父が郷里山梨から出てきて、苦労して同心株を買うまで貯蓄に励んだ、子とは思えぬ、パッパッと使い、困っている人には貸し、義理ある人には礼儀を、お金がなくても欠かさない気性であるようです。このことからも、桃水、久佐賀にもお金をもらうことは当然と考えていた節がある。お金イコール肉体関係は現在の感覚ではないかとも思うが。苦しい弁明か。

借金の多くは返していないと思うが、返すあても無いのに借りまくる、借りたお金をそっくり人に貸してしまう。今ではカード地獄で、多重債務者になっているが、当時の人たちは、どのような気持ちで一葉に金を貸していたのだろう。お金の貸し借りは、今では人間関係にひびが入り、犯罪の基にもなる可能性を秘めている。現在と明治との金銭の感覚はどのようなものだったか?

 森鴎外の「雁」を思わせる、一葉と占い師 久佐賀義孝のお金を目当てに接近した一葉は妾になれば定期的な金子を渡そうと申し出る。むろん、一葉は断るが、多くの人たち、友人、縁故関係から金を借り、返せないでいるので、よくは思われていないとイ夏ちゃんはヒ夏ちゃんに意見する。持つべきものは友で、イ夏ちゃんからもヒ夏ちゃんはお金を借りている。本は借りるは金は借りる、死んだ時に駆けつけてくれた、イ夏ちゃんから香典も貰うという一葉は・・・もうすごいとしかいいようが無い金銭感覚。

」鴎外作:雁が東の空に飛んでいかあ~東京の空も今宵がかぎり・・・無縁坂住む高利貸末造の妾で若く美しいお玉さんが岡田との淡い恋。岡田はドイツに・・・
http://www2.yanesen.net/osanpo/WIN_Bungaku/kari/ganarasuji.htm

誰もが、結局一葉のために力を注ぐ、皆一葉が大好きになる不思議な魅力があるのは、彼女の真摯な生き方、勤勉で、才気溢れる、文学女性で、しかも若い女性という、けなげな姿勢に打たれるからでは無いでしょうか。それが現在までも人気の秘密の一つである。一見ただの女性が、内面に持つ力、才能はそこはかとなく魅力が伝わる。強い女性だったのだろう。

外見の美しさで引かれて、底の浅さにがっかりすることの多い昨今の女性には、一葉の持つ魅力は口では言い表せない魅力であったのであろう。

文学界の人たちと交わりを深めながら、借金の工面のため、久佐賀義挙や村上浪六と体を張って交渉していた。

多くの文学界の人たちの集まるサロン化していた水の上の記述に、一葉は、「わが身は無学無識にして、家に産なく縁類の世にきこゆるもなし。はかなき女子の一身をさゝげて思ふ事を世になさんとするとも、こゝろに限あり、知恵の極みしるべきのみ。かれは行水の流れに落花しばらくの春をとどむるの人なるべく、いかでとこしへの友ならんや」と記して西洋文学の知識を吸収していったが、一葉の文学は西洋化していないところがよいとこであろう。

「斉藤緑雨」も一葉は興味を持ち、緑雨は一葉の死後、一家の面倒や資料の保存をしている。
緑雨は癖のある男だったそうだが、一葉の本質を一番知っていたし、世間から言われるほど、悪い人間ではないと思う。一番の理解者は緑雨だったかもしれない。一葉は本当に自分の作品の欠点もいい点も知っているのは、奇人と言われた緑雨だけと感じる。その一葉の眼力どうり、一葉無きあとも母たき、妹くに等にも援助の手を差し伸べている。母たきも亡くなり、邦子一人になっても緑雨は借金取りから守るために邦子をかくまっている。母たきの葬儀も仕切ってくれた。緑雨は一生妻帯しなかった。一番一葉を理解し愛していたのかもしれない。明治30年1月に近代文学者最初の全集となる一冊本『一葉全集』を刊行した。 急いだ編集のため齋藤緑雨が校訂を担当し、同年6月に『校訂一葉全集』を出したが、装幀. は同じ紐綴じで、一葉肖像画と緑雨の簡潔な一葉紹介文が巻頭を飾っている。

「一葉の日記」は一葉が床で、死んだら破棄するように妹くにに頼む。妹くにが隠し持っていたので、一葉の高い文学性を持った日記が後世に残った。妹は母多喜よりも、世間体を気にしないし、一葉のために、たとえ間違った事実であっても、姉のためになるように話、行動している。今一葉があるのは妹くにのおかげである。それを、緑雨が預かっている。“くに”を残して死んだ母多喜の葬儀一般を取り仕切ったのは緑雨だった。緑雨は、文学界の同人達からも注意するように一葉は忠告を受けていたが、このような世間の噂は無責任なもので、間違いも多い。この2人ほど夫婦になるのに似つかわしいカップルはないと思われる。いいとこあるね緑雨。

かつや文学は糊口(ここう)の為になすべき物ならず。おもひの馳(は)するまま、こころの趣(おもむ)くままにこそ筆は取らめ。いでや是(こ)れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商(あきな)ひといふ事はじめばや「にっ記」二十六年七月

桃水は小説は一家を養うためにおこなうもので、決して名誉のために書いているのではないと一葉に述べている。しかし、一葉は食べんがために小説を書くのではないと述べている。たしかに最後まで、小説では一葉は食べていけなかった。現在でも小説でのみ生活できる人はどれだけいるのだろう。まして、明治の女性となれば大変だったろう。現世に富を得ることは、世間に迎合した作品や生き方をしないと、ある程度のお金は入らないのは大人なら誰しも知っている。世渡り上手が生き残り、ある程度の富をえる方法である。しかし、自分の信念を貫き、孤高の道を選んだら、金銭はあきらめなければならない。世間は子どもと言うだろうし、変人と呼ぶだろう。その中から多くの後世に残る作品が残っている。皆生活に苦しみながら残した作品が後世に評価されていて、現世では良い目には合っていない。最近の就職事情を新聞で読むと家庭的で、仕事で出世は望まない。楽する傾向は、医療でも危険で大変な診療科目は選ばず、便利な大都会から離れないでいくという傾向らしい。いくら増員しても産科に行くことは、かなり覚悟がいることでしょう。教育、医療、司法、行政すべてがこのような傾向になると、真面目が損をする時代になってきて、子供たちに何を指導できるのだろうか。自殺の多さも関係する一因ではないだろうか。

『下谷龍泉寺町三六八』大音寺前 ―蚊のいと多き処にて、藪蚊という大きなるが、夕暮よりうなり出る、おそろしきまで也。蚊なくならんほどは、綿入きる時ぞさる人のいひしが、冬までかくてあらんこと侘し。井戸はよき水なれども深し。何事もなれなば、かく心ぼそくもあるべきならず。知る人も出来、あきなひに得意もふゆべし。そは、憂しとても程なき事也。唯かく落はぶれ、行ての末にうかぶ瀬なくして朽も終らば、つひの世に斯の君に面を合はする時もなく、わすられて、忘られてはてて我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし。

一葉の転居当時の明治26年(1893)頃の下谷龍泉寺町大音寺通り(現茶屋町通り)

中央の白地の札が見えるあたりが一葉宅。この町並みの手前に三島神社、通りの奥には新吉原へ続くはね橋がありました。(考証、上島金太郎・塩田良平・和田芳恵)

龍泉寺の雑貨・駄菓子屋を始めるが、はじめ好調であったが、向かいに同様の店が出来てから、商売は武家の商法になって、失敗する。一葉は文学の夢立ちがたく、上野の図書館に通い出す。

ここで薄田泣菫は国立図書館で、樋口さんと呼ばれるのを聞きつけ、雑誌に載っている一葉を知っていた泣菫は冨山房百科文庫『泣菫随筆』の中の『猫の微笑』にエピソードが載っています。
薄田泣菫

此の家は下谷よりよし原がよひの只一筋道にて、タ方よりとどろく車の音、飛ちがふ灯火の光、たとへんに詞(ことば)なし……家は長屋だてなれば、壁一重には人力ひくおとこども住むめり

師友に転居先を告げ、あいさつ状も十通ほど投かんする。が、親しい者にも彼女は訪問を断る。初めての夜、一葉は師・桃水をしのんで日記にこう記す。

唯かく落はふれ、行ての末にうかぶ瀬なくして朽(くち)も終らば、つひのよに斯(こ)の君に面を合はする時もなく、忘られて、忘られはてて、我が恋は行雲のうはの空に消ゆべしまさに万骨をすてて市井のちりにまじはらむ

大正時代:角海老の花魁(一葉記念館)

角海老は一番大きい廓の店。


吉原病院は廓の女性の健康診断の場所です。

・・・・・朝夕の秋風身にしみわたりて、・・・角海老が時計の響きも、そぞろ哀れの音を伝へるようになれば」と出てくる。「たけくらべ」

龍泉寺の生活は吉原へ向かう人力車の鉄車輪の音が道に響き渡り、薮蚊も多く、ひどい9ヶ月の生活環境だった商いには一葉は向いていないのははじめから明らかであった。すっかり、エネルギーを費やし、金銭的のも追い込まれての心労が結核の病魔が入り込んだようです。

商いで扱った品は、紙、渋団扇、蝋燭、石鹸、燐寸などの荒物、子供相手の駄菓子であった。8月6日いよいよ店を開いた。6日晴れ、店を開く、向かいの家にて直ちに買いに来る。中々おかしき物冶。・・・夕刻より着類3つよつもって本郷なる伊勢屋がもとに行く、四円五十銭借り来る。菊池君のもとに紙類少し仕入れる。二月近くなりにけり。今宵はじめて荷をせをふ、中々重きものなり、家に帰りしは十時ちかく成りき・・・・

七日晴れ。早朝花川戸の問屋に絲はりをもとめけり、しゃぼんの割中中村屋よりは廉に覚えしかば一本もとめて来る、駒形の蝋燭屋にろうそくをかい看板の事など頼む、帰宅後多事・・・・・

九日晴れ。早朝、二人あきなひたり、物なれぬほどのをかしさは五厘の客に一銭のものをうり、一銭の客に八里のものを出すなど、後にてしらぶればあきれたる事のみなすぞかし、此ままにてをしゆかば中々に利を見ることの出来得べきにもあらねど其のうちの利口生ずべしなど語り合ふ、伊せ久のお千代どの買ものに来らる、二十銭ばかり商ひあり・・・。

駄菓子とか、玩具のやうなものは、一葉君自身で多町(神田)へ買出しに行った。

何でも姉さんと云つて呼ばれる。自分はその時まで妹からか親類の子供からで無くば、姉さんと呼びかけられたことは無かったので、全く知らない人からそう呼び掛けられると、自分のことでは無いような気がして、ともすれば辺りを見回し見回しした。羽織を着ていると、人が不思議そうにジロジロ見るので、その後は羽織を着ずに行った。一葉君は笑いながら、こう話したことがある。
1918年10月14日夜馬場孤蝶

仕入れ帰りの一葉 滝澤徳雄画

仕入れは朝5時に家を出て、浅草、駒形、上野車坂、金杉、本郷、神田と廻った。途中鉄道馬車(馬車鉄)を使かった。

運賃は四銭であった羽織を着て行って変な眼で見られたので、次からは羽織を着ないで行く。

姉さんと呼ばれて戸惑う。

仕入れ帳 樋口な津(明治二十六年九月より)

九月一日   弐拾三銭    くわし
         十三銭五り   まめ
         三銭五り     しゃぼん
   二日   三拾一銭     くわし
         十三銭   まめ
         五銭    せんべい
         二銭   同
   四日   廿七銭   くわし
        廿五銭五り    花ふだ
        廿三銭   あてがみ及ろう筆
        六銭   姉君車代

中村屋仕入には雑貨品、むさし屋仕入には紙類、花川戸仕入はきぬ、しゃぼん、駒形仕入はろうそく、荒物だけではさびしいので、菓子を許可してもらい、菓子手遊類買出しにいっている。子供たちが群がるように買いにきたらしい。千束神社の大祭に大鈴、小鈴を仕入ている。

唯(ただ)かく落はふれ、行(ゆき)ての末に浮かぶ瀬なくして朽(くち)も終らば、つひのよに斯(か)の君に面(おもて)を合わする時もなく、忘られて、忘られはてて、我が恋は行雲(ゆくくも)のうはの空に消ゆべし「塵之中」二十六年七月二十日

「或る日店に乞食が立った。店で遊んでいた子供が「出無いよ」というと、「イヤ僕は買い物に来たんだ」と云って、懐中から穴銭か何かを出して塵紙を買っていった。大音寺前を去ってから一年程たって、中島家の歌会の時、貴婦人の中に混じって歌を詠んでいながら、フト乞食に物を売って有り難うございますと云ったこともあったと思いだして、妙な気持ちがした」また、「何処の人だか知らぬ男が来て、紙入れと袴とを翌朝まで預かって呉と云い、「行く先は何うせ貴方がたの前では申し憎い例の土地ですが、これも世間で、仕方がありません、まア笑わずに置いてください」といったこともあった。

詩集『蒼馬を見たり』林芙美子
ロマンチストの言葉   「鯛を買ふ」から
――これでもか
――まだまだ……
――これでもへこたれないのか
まだまだ……
貧乏神がうなつて私の肩を叩いてゐる
そこで笑つて私は質屋の門へ
「弱き者よ汝の名は女なり」と大書した

一葉の生涯をだぶらせる林芙美子の詩です。

龍泉寺の荒物業から二か月、雑事にまぎれていたが、心がむなしくなってくる。図書館に通いだす一葉です。そうしている中、買い出しから帰ったら平田禿木が訪れて一葉は(文海の人に会い)大変喜んでいる。そうして足は萩の舎に向き、中島歌子に涙ながらの訴えをする。一葉は文学を捨てられなかった。頭痛に悩まされながら、終焉の地へと向かう。(頭痛、肩こりは手作業、筋緊張などで、眼が疲れる、重い、締め付け感のある場合は、交感神経過緊張で末梢血行が悪くなり、筋の緊張が増し、眠りが浅くなる、几帳面な性格だったようである。一葉は体が華奢で色が白く、冷え性気味のような感じがします。これは片頭痛のタイプです。ドクドク波打つような頭痛に吐き気も伴う場合があります。)

中島歌子は武州入間郡森戸在で、父は中島又右衛門の長女として弘化元年十二月四日生まれで「とせ」という幼名。父は青雲の志を持って江戸に出る。平田禿木が歌子について、何でも下町の町屋の娘で、水戸の浪士に嫁ぎ、主人の没後旧姓に戻して和歌の塾を開いた。千蔭流の書をよくし、その千蔭流の加藤家にも何らかの関係があったらしい。と述べている。水戸の林忠左衛門と二人は好い仲になり十六歳の{とせ}は身も心もささげた。林忠左衛門の叔父黒沢忠三郎は二人を添わせようとした。三月三日桜田門で井伊大老襲撃事件で叔父、弟、を林忠左衛門は失い、自身は禁固となり家禄召し上げられ、彼ら一族は困窮、悲惨を極めた。彼の家には誰も居なくなり、「とせ」を水戸に迎えて林忠左衛門の家を守らせる、しかし幽閉中の林忠左衛門には結婚は許されるものではなかった。池田屋を継がせるつもりだった母を口説き、一身を投げ打って婿なしの輿入れとなる。文久元年、とせ十八歳。町の娘が武家に嫁ぐには武家の養女となり、忠三郎がとせを養女にと約束した。しかし忠三郎は獄門にかけられ亡き人となってしまった。とせは逃げ帰り、母いくと相談する。林忠左衛門

『最後の土地丸山福山町』に戻ってまいりました。
一葉は絶望の中、ついに最後の住家となる丸山福山町に移る。木村ちよ、は引手茶屋の伊勢久のちよのことで、世話好きな女です。

三月十九日に木村ちよ殿来る。酒肴を出す。当人の頼みに寄りてなり。」ちようはこの場所より出て来ないかと云うのは、一葉はこの龍泉寺を出ていくために、おちよに相談をしたらしい。お千代の世話で「家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひて、ささやかなる池の上にたてたるがありけり。守喜といひうなぎやの「はなれ座敷成しとて、さのみふるくもあらず。家賃は月三円也。たかけれどもこことさだむ。

この土地で一番大きい銘酒屋・鈴木と一葉の借家は、共通の池だった。一葉の香典帳に鈴木と初音が出ている。

なれぬ商売に疲れ果て、再度文にて生活を立てようと、丸山福山町に移る頃、交感神経緊張状態に陥り、頭痛、肩こり、不眠に悩まされ、気分が神経症的になる。ここに弱った心に病魔が付け入る隙を与えてしまう。

夭折の石川啄木26歳 「働けど働けどなほ我が暮し楽にならざり、じっと手を見る」啄木にも一葉の影を見る気がする。宮沢賢治37歳、中原中也30歳、梶井基次郎31歳、金子みすず26歳、北村透谷25歳、立原道造24歳、正岡子規35歳、村山塊多22歳、滝廉太郎23歳、国木田独歩36歳、長塚節35歳、この太字は全て結核で亡くなっている。一葉24歳であった。唯一の女性。

一葉に結核の徴候が現れたのは、25歳の4月頃、「通俗書簡文」の書き下ろしなどの無理が病をこじらせたといわれている。しかしこの仕事は、現金が入る仕事であったし、よく売れたらしい。一葉における生前の唯一の単行本であったらしい。この本が、一葉最初で最後の単行本で、よく売れたが、一葉の死期を早めたといわれる本で、ムーン感慨深いものがあります。従兄幸作が施設患者として死亡。実の長兄は結核で死亡。明治二十七年は一葉が精神的バランスを欠いて、久佐賀、波六、などへの接近は尋常ではない。八方敗れ的な行動である。

一葉は小説家をこころざし、桃水に指導を受けながらも、最初平民組の田中とみ子と上野の東京図書館に初めて行った。24年6・10の日記。それから、荒物屋・駄菓子屋をひらいた龍泉寺時代ものこの図書館で勉強していた。一葉の「源氏物語講義」は評判だったそうで、一度受けて見たいものです。図書館は貸し出し禁止だったそうで、色々と友達から本を借りて読んでいる。

最近の多くの一葉作品は「一葉全集」筑波書房版が用いられている。それほどにこの本は完成度が高かったようである。
一葉が妹くに(邦子)に書き与えた習字手本

私には一葉の書いた、「たけくらべ」 の毛筆原稿などは読めない。ただ、流れるような一筆書きのようにすらすら書かれている字を追っていくと、その流麗さに感嘆します。二十歳過ぎの女性の筆になるものとは思えないし句読点がないのでどこで区切るのかがわかりません。短編などは、筆が流れてあっという間に終わっている、一筆書きの小説です。幸田文さんが一葉の小説は季節がある、季節を感じると言われていたような記憶があります。そういわれてみると、周囲の空気は確かに季節感が感じられます。

「むしろ大人のかなしさより、季節のもとに息づいていることのかなしさのほうが大きく残っている感じなのだった」一葉の季感より引用。一葉は和歌が好きだったし、和歌を極めようとしていた。その感覚が一葉の短編には詩を詠んでいるような流れる文体がある。

肩こり、頭痛、近眼、髪が薄い、色が黒い猪首という表現には悪意が感じられ、円地文子氏が岡本かな子氏を評したくだりに似ているような感じがする。また花圃が後年一葉を評した下りも嫌な感じがする。しかし、頭痛は肩こりとともに、筋緊張性で交感神経緊張状態を示しているし、一葉の様子から低血圧、冷え性があっただろうかと思う。片頭痛は腹部や体の冷えにも関係する。近眼で相手の顔もよく見えなかったらしいのも肩こり誘発原因の一つとなるかもしれない。

このような境遇に集まってくる文士たちの中には金子の援助を申し出る者もいた。

あやしき事また沸出ぬ。府下の豪商松木何がし、おのが名をかくして、「月毎の会計に不足なきほど我がもとに送らん」と也。取次ぐは西村の釧之助。同じく小三郎協力して、我が家に尽さんとぞいふなる。松木は十万の財産ある身なるよし。さりとも、名の無き金子たゞにして受けられんや。「月毎いかほどを参らせん」と問はれしに答へて、「我が手に書き物なしたる時は、我手にして食をはこぶべし。もし能はぬ月ならば、助けをもこはん。さらば、老親に一日の孝をもかゝざるべければ」とて、一月の末二十金をもらひぬ。

身をすてつるなれば、世の中の事何かはおそろしからん。松木がしむけも、正太夫が素ぶりも、半としがほどにはあきらかにしらるべし。「かしたし」とならば金子もかりん、「心づけたし」とならば忠告も入るゝべし。我心は石にあらず。一封の書状、百金のこがねにて転ばし得べきや。


妹くに 母きた 一葉17歳頃

左から妹くに、母たき、一葉(顔がよく分からない)
袖口から手を出さないのは士分の子女の習わしであった。


父則義
左から次兄虎之助、父義則、長兄泉太郎

虎之助だけが手を出している。後に陶芸家になる自身を、士族誇りは捨てたのであったのだろう。

一家で撮った写真で女性3人、母多喜が中央に堂々たる感じで立って、左に邦、右に一葉。顔立ちは母には妹邦が似ている。目元もはっきりしている。一葉は妹邦より小柄に移り、顔も小さく、父親則義に似て目元が鋭く、口元もきりっとして利発そうである。決して色黒ではないように写っているし、3人の女性達の髪の毛は同じようで短くて同じ髪型である。男3人の兄泉太郎は髪もふさふさしていて、一葉に似ている。虎之助は帽子に襟巻き姿で顔が分からない。虎之助の壷や絵皿のはかなり技巧的に優れているようである。みんなの話では、色黒で背も妹くにより低く、普通の女で決して綺麗ではなかった。妹くにのほうが、目鼻立ちもはっきりして綺麗だったそうである。

女学生姿の右桶口一葉(右)、木下杢太郎の三姉太田竹子(左)
(木下杢太郎記念館所蔵)

三姉のたけ(竹子)は、樋口一葉の友人であり、二人で撮った写真が現存する一葉の写真として貴重なものとされている。

なお、たけは医学者に嫁ぐ。

伊東市立木下杢太郎記念館蔵の一葉18歳頃の写真です。
木下杢太郎の姉太田竹子の服装を借りて一緒に撮影したものです。

髪は当時でいう「洋髪」であり「洗い髪」ではありません。しかし、普段日本髪に結っている写真が多く紹介されている中で日本髪をといた姿のこの一葉の写真は貴重なものである。
岩波新書 森まゆみ著「一葉の四季」

「その時歴史は動いた」恋・人生・そして小説~樋口一葉 女性作家誕生の時~
平成17年3月30日(水)放映

木下杢太郎は本名太田正雄で、東北大学教授で太田母斑の発表また水虫が白癬菌でおこる皮膚病であることを日本で最初に証明した。記念館は、杢太郎の生家で、市内に現存する最古の民家でもあり、当時の伊豆の生活を伝える貴重な民具類も並んでいる。また、文学者、医学者として知られる木下杢太郎の貴重な資料が展示されている。
木下杢太郎記念館

安政4年4月に故郷を脱出した両親は江戸に向かい、翌月14日に子供が生まれ、世話になっている真下専之丞から正妻と同じ「ふじ(お婦し)」の名前が、お七夜に贈られた。6月21日には母・たきが湯島の旗本・稲葉大膳方に乳母奉公することが決まり、数日後に長女・ふじは市ヶ谷の和介方に里子に出されることになる。士族株入手のために夫婦共働きの犠牲となる姉・ふじ。母・たきが乳母として乳を与えた姫が、一葉の日記に稲葉鑛(おこうさま)として記される。ふじが両親の手許に戻ったのは7年後と考えられ、幼少期の親子関係は失われた。ふじの遺品としては、11歳頃に祖父・八左衛門に宛てた手紙が図録に掲載されている。明治7年10月、ふじは医師の息子と結婚したが一年足らずで離婚し樋口家に戻った。「桜木のやど」時代、近くに住んでいた久保木長十郎を知り、明治12年10月に再婚。二年後に長男・秀太郎が生まれ、この子も日記に登場している。この子も早くに死亡している。ふじ亡きあとは久保木家との関係は断絶している。

母が旗本・稲葉大膳方に乳母奉公し稲葉鑛(おこうさま)は「十五日 ( 略 ) 此夜おこう様参らる。「稲葉君の奉職されたるにつきて、入用なる衣類などの間に合ひがたきを、西村君にかりたし」とて、その取なし母君にたのまんとて也。この日、国子と共に根津より天王寺辺歩く」。

「蓬生日記」

江戸へ出た直後、母は一葉の姉“ふじ”を産んだ。その産まれたばかりのふじを里子に出し、彼女は、旗本に乳母奉公して父の出世を助けようとした。“ふじ”の場合も可哀想な人生だった。

「旗本稲葉家の没落、稲葉鑛さまの転落人生に一葉は何を見たのだろうか」、その奉公先が旗本稲葉家で、鉱は、その母が仕えた稲葉家の姫君(養女)であった。稲葉家は2500石の大身だったが、明治15年、主の稲葉大膳正方が亡くなった後、鉱が戸主として家督を相続した。そして、明治17年、聟養子として寛を迎えた。

寛は、幾つかの事業を試みたがことごとく失敗し、結局、人力車夫や日雇い人足をして食いつなぐという極貧生活に陥ってしまった。その惨めな生活の有様は、一葉の日記にも記されている。一葉も、比較的裕福であった子供時代から、父の事業失敗と病没によって貧困生活に追いやられてしまった。旗本の姫君から人力車夫の妻に落魄せざるを得なかった乳姉妹稲葉鉱の悲しい宿世に、一葉は他人事ではいられなかったに違いない。

この日記にある「奉職」が何であるかは不明。長続きはしなかったらしい。やがて、寛は同じ年の11月に市ヶ谷監獄署の看守となったが、翌年の7月に病死した。鑛(おこうさま)に小説の代金が入った時、一葉は訪れ、金子を持って行っている。母が育てたので、一葉も他人とは思えなかったのだろう。再婚したがその後どのようになったのかは消息が不明です。

一葉の描いた「にごりえ」の「源七」、「別れ霜」の「芳之助」は、もしかしたら稲葉寛の姿が原形であったのかもしれない。稲葉鉱と寛は、一葉に、人の世の盛衰の厳しさ悲しさを教えた、重要な人物であったと思われる。

是は姉ふじと一葉ではないか(三人姉妹のうち一葉が一番華奢で顔も小さい。生まれつき体が弱かったような感じを受ける。)

手は袖にしっかり隠している。目元に少しそばかすがという記述は色が白いとよく分かるが、黒いとそばかすが見えない。皆、この頃の一葉を知らないのでいろいろと表現に自分の心のフィルターを通してみている。ふじは里子に出されて、7歳で樋口家に戻っている。最初の結婚、離婚、再婚、死亡と樋口家のために背負った不幸せな人生だった。姉ふじは母と実家の甲州大藤中萩原に金策に出かけている。一葉は一度も行っていない。

久保田万太郎氏は一葉をこよなく愛し、聖女一葉を信じて疑わなかった。

塩田良平、久保田万太郎 対 瀬戸内寂静、和田芳恵、中立前田愛の対立構図が出来上がっています。

井上ひさし氏は無関心派です。瀬戸内寂静さんの「炎凍る 樋口一葉の恋」は「私の樋口一葉」とともに女性ならでは、更に寂静さんの恋にかける女性樋口一葉のけなげな恋語りを優しく解き明かしてくれる。

どちらの本にも前田愛さんとの討論が出ている。井上ひさし氏の「樋口一葉に聞く」もユニークな構成になった一葉論ですが、これもまた最後前田愛さんとの討論が出ています。

前田愛氏の「樋口一葉の世界」は立教の塩田先生の後輩にあたる教授で、一葉の研究は伝統的なものとして、受け継がれたようです。内容はなかなか学問的で幅広い知識で文学の勉強にもなります。

下谷龍泉時町に移る前、菊坂町時代の貧困の中、何とかしようともがく一葉で、この近くに天啓顕真術会 久佐賀義孝の家があった。

二日 晴天。望月のつま、利子持参。菊池の奥方参らる。母君と共に摩利支天もうでに趣く。家主西本来る。かきを結ひ直さんことのおくれたるを言ひになり。此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につゝみて、母君と我と持ゆかんとす。
   「長持に春かくれ行くころもがへ」
とかや、誰やらが句を聞し事あり。其風流には似ざるもをかし。
   蔵のうちにはるかくれ行くころもがへ


時は今まさに初夏也。衣がへもなさではかなはず。ゆかたなど大方いせやが蔵にあり 28・5・17日記

菊坂町時代の貧困の中、伊勢屋への質屋通いを一葉はしていた。


旧伊勢屋質店
兄のもとから、
本郷菊坂で母妹との三人暮らしが始まる

滝澤徳雄画(昭和五十六年)

 本郷菊坂七十番地

一葉の使ったという井戸

菊坂町時代 も 最後の地丸山福山町にも伊勢屋質店は近くにあった。

二十四年十一月十日「午後大根をかふ 十四、十五本にて 三銭五厘なりといふ 此廉にも驚きたり


丸山福山町4番地の家は、この碑の後ろにあったという。
一葉、樋口夏子碑:毫は平塚らいてうによる。
碑面の文は、一葉日記の明治27年(1894)、5月1日、
竜泉寺の家から、ここに転居した時のものが撰文された。

文京一葉会法真寺
http://www.hoshinji.jp/higuchi.html



第29回文京一葉忌、
法真寺(同区本郷)一葉を偲ぶ

龍泉寺、一葉公園内、一葉女史たけくらべ記念碑

本郷六丁目五番地明治九年から6年間住んだ、一葉が9歳まで住んだ家。
東大赤門と向かい合わせの路地を入った、法真寺あたりに最初住んでいた。ここから、長兄が死に、父が死に、転落の人生が始まる。一葉が一番幸せな時代の家で、これ以上山の手には住めなくなる。

山梨、塩山の慈雲寺、
一葉女史碑の碑陰大藤村「一葉碑」除幕式

後列左から二人目樋口悦(くにの長男)その左樋口くに 其の前馬場孤蝶/内田魯庵/土岐哀果/生田春月/与謝野寛・晶子/水上滝太郎/相馬御風/河井酔茗/長谷川時雨/戸川残花/平塚明子(雷鳥)/前田曙山(タ暮)/半井冽(桃水)/佐佐木信綱/坪内逍遥/生田長江/森鴎外/森田草平/徳田秋声/平田禿木/小島政二郎/島崎藤村/星野天知/戸川秋骨/馬場孤蝶/田山花袋/三井甲之/佐藤春夫/真山青果/生方敏郎/小山内薫/蒲原有明/中村星湖/徳富健次郎(蘆花)/久保田万太郎

「みたりける夢の中におもう事 心のままにいひもしつ おもえることさながら人のしりつるなど嬉しかりしを さめぬたば又もやうつせみのわれにかえりて いふまいき事 かたりがたき次第など さまざまぞ有る。 しばし、 文机に頬づえをつきておもへば 誠にわれは女なり 何事のおもひありとて そはなすべきことかは 誠にわれは女なりけり」

「まことに入立ちぬる恋の奥に何物かあるべき。もしありといはば、みぐるしく、にくくうく、つらく、浅ましく、かなしく、さびしく、恨めしく、取つめていはんには、厭はしきものよりほかあらんとも覚えず。あはれ其厭ふ恋こそ恋の奥成けれ」一葉死ぬ前の恋愛観。

一葉の未完の作品
裏紫」とこの作品が姦通小説となる一葉の二作品です。一葉の最後の叫びとでも申しましょうか。今では、何でもないテーマで、昼メロ全盛期には、毎日のように流れていた話です。嫁姑問題と、夫の浮気、妻の浮気は永遠の課題です。一葉が最後にとりかかった作品に選んだのがこのテーマだった。もう一年でも長く生きてくれていたら、一葉の新境地を見られたのに残念である。又数作の傑作が残ったかも知れないと思うと残念である。

明治の時代を早足で駆けていった、お金に苦しんで、したたかに生きた一葉の最後のことばは「誠にわれは女なりけり」であった。

『頭痛、肩コリ、樋口一葉』
妹邦子によると、姉は十六歳頃安藤坂(小石川)の中島先生のお宅に居ります時分から肩が凝固がございましたので、其の頃中島様は佐々木東洋様にお掛りになって居らつしやる処から、おついでに見てお貰ひ申しますと、佐々木様は「これは若し外へ発するとよろしいが、内へ入ると生命に拘はることになるかも知れない」と申されましたが、然し其後は時々肩が凝ってくることが御座いました位で別に大した事がありませんでしたが、明治二十九年の春になりますと肩の凝肉がいつの間にか背部の方へ行ってしまひましたのです、お医者様は「熱が出なければよいが」と云う事でしたが、その七月頃から屢しば発熱しますので、夏の暑いのに発泡をしたりして熱を除つたり致しました。発熱するときには床に就いて居ましても、性質が好きなものですから、気分の好い時には宅へお出の方々にお講義を致して随分根を疲らす事もございました。「婦人新聞」四十一年十一月

二十四日の通夜には、緑雨、秋骨、川上眉山が列席した。そこで緑雨は「霙降る田町に太鼓聞く夜かな」という句を詠んでいる。当時福山町にあった病院が夜警に太鼓を打っていた。これが通夜の席に寂しく響いてきた。二十五日一葉は荼毘に付された。

当時は火葬だったのだろうか、立派な葬儀や会葬御礼をする余裕がなかった。弔問をみな断った。
読売新聞」明治二十九年八月十九日樋口一葉女子病む


「読売新聞」明治二十九年八月十九日
樋口一葉女子病む
着想の奇警にして文章の巧妙なる、近時の文壇優に一頭角を現はし、をさをさ先進の男作家を凌駕んとすとの世評高き閨秀小説家樋口一葉女子は、近頃病褥にありて殆ど操觚の業を拠てりと。あはれ薫蘭茂らんと欲すれば秋風之を破るとかや、女史乞ふ我文壇の為に慈愛せよ。

「毎日新聞」明治二十九年九月三日
樋口一葉女子稍々持直す
女子の病は肺欣衛にて一時は医者も頗る痛心し、一日に三四回も見舞ひ、氷塊を以て胸部を冷やし唯だ吐血せざる様注意し、女史は熱のために昏睡に入り、家族は手に汗握る程なりしが、階前に一葉の秋信音づる頃より少しく快気に赴き、今日此の頃は薄粥を食する程に至りしとど。女子は都の花の昔より筆を執り初め、漸く去年に至りて文壇の名声を轟かせしに、今この大患に罹りしは口惜しとも云はん方なし。一日も疾く病の床を清め、筆の紅葉を初冬には文の林に染められんことを望む。

「読売新聞」明治二十九年十一月二十六日
樋口一葉―夭逝す
女流小説家の巨壁として名を当代に擅ままにし、髯眉の丈夫と並び立ちて遜色なかりし一葉女史樋口夏子は、今年秋の初めつ方より肺を患へて文筆を廃し、静かに医療を加へ居りしが、去二十三日終に隔世の人となれり春秋僅かに二十有六、先には若松賤子を亡ひ、次いで稲舟女史死し、今又此多望の人を奪り去らる、何ぞ今年天の才媛に幸ひせざるの甚しきや。

一葉の葬儀は、ひっそりとおこなわれた。森鴎外が軍服を着て馬で葬儀に参列したいと申し出を断ったのは、鴎外の地位、物事の考えいわばブルジョア的に考え育った価値感と一葉の家族の平民で極貧の辛酸を舐めた価値観とでは、立派な軍服の騎乗の鴎外は下層階級の心を理解できなかった。下町育ちの鏑木清方でないと理解できなかった。場にそぐわないことが鴎外には理解できていない。

東京都杉並区永福1-8-1 築地本願寺 和田堀廊所の墓。関東大震災の後、杉並区和泉の本願寺墓所に移された。
智相院釋妙葉信女
右から、父・母・一葉智相院釋妙葉信女・長兄の順で戒名が刻まれている。左には、邦子の三男から始まり、邦子・夫の政次の没年順で刻まれている。

墓は樋口家の菩提寺である築地本願寺別院で、のち杉並区和泉の西本願寺和田掘廟所へ移された。

樋口奈津(夏子) (1872-1896・明治5年-明治29年)
明治29年11月23日歿 24歳(智相院釋妙葉信女)築地本願寺和田堀廟所

明治二十九年八月十九日付
「読売新聞」

「一葉女史病に臥す」の記事
明治二十九年十一月二十六日付
「東京朝日新聞」

「一葉女史逝く」の記事

文界の明星墜つ(一葉女史の訃音)
ねて肺炎に懸かりて筆硯をなげうち小石川の自宅にて専ら療養中ありし。一葉女史は樋口なつ子。その後の経過よろしからず追々衰弱に赴く模様なるより文壇の知友いたく憂いいりしところ終に薬石効果なく一昨二十三日午後十時落葉をさそふ時雨と供にこうえんとして亡きちずに入りぬ、嗚呼筆帯零落して香空して残る文園是より落莫たらんか惜しみても猶除ある事と云ふべし。
「毎日新聞」明治二十九年十一月二十五日 一葉の死を報じた。

悼樋口夏子君 智徳会雑誌
ゆかりなき人も、君の身まかりぬと聞きては、いといとをしう、あたらしき心地するに、まして縁浅からぬ吾等は、ただ打驚かれて、聞えん方なく、夢ならばさめよかしとかこつ許り、げに朝露の墓をも待たで、風に誘はるる命なりとは、誰が思ひきや。

思へばこの夏のとをりき。おのれ乙羽ぬしのひきあわせを得て、初めて君と相見、親しく物語りしたるが、その後は折々訪ひて、夏期附録に何かな小説をものし玉はれと請ひければ、今は少し気ののすぐれず、筆執るさえ?ければと、歌をもよせ玉ひけるが、固く後のそせ文をやくしおきたれば、それをのみ頼みて、その日をまちがてにのみのりしに、あわれ今は空しき望みとはなりて、ただ君が水茎に悲しき名残を止むるのみ、君の玉の緒今いづこにやどれる、あなかなしきかな。

更なれど、君は唯に文の美はしきのみならで、心も美はしく、大かたおくふかくしめやかに、重々なる性質にて、はかなことをも、ゆめたやすくは洩らさず、殊に世を憂きものに思ひなして、ひたすら心を清め、行を謹み、少しもはじけたる様なく、さりとて又故からに、かまへて粧ふにもあらず、客をあしらふにもいと懇ろに、何事につけても心いきなくもてなすに、一度び君と交わりし人は、誰もそを誉めたたへぬ人のなきなるが、そが優しき涙は 殊更に苦しき境に沈める、賎しき者にのみ濯がれたるを見ても、君が心の程はおしはからるれ。

げにも哀しきかな、なかなかにえらばぬ宿はあし垣のあしき隣もよしやよの中、と歌ひ玉ひけん文にむかへば、君が面影なほ身ゆる心地すれど、語るよすがもあらずして、咽ぶはただ涙なり、我誌は月々すりいづれど、君か名、君か文は再び見るとは得 叶はじ。?流れ逝きし水はいかにいふとも止まることなく、いかに悲むともかへるとなけれど、惜しみて余りある君に、如何なればかくも幸なきにや。
筆とりてむかしを思えへば、かなしといふも言葉たらず、折から庭の面わたる秋風に、桐の一葉は吹き散りて、たれが上をや語るらむ。

一葉は皇居の周囲にしか住んだことが無かった、麻布、麹町、兄の高輪後は、江戸城の鬼門に当たる、神田、本郷、下谷、竜泉寺の浅草であった。

しかし、萩の舎で上野ステーションから、埼玉の大宮公園行っている。これが一葉の知る限りの遠出であった。

一葉論
神・仏、自然信仰、自己と他者、自我と自己確立とかいうようなことについて考えることはなかった。漱石の場合との決定的な違いです。明治の女性が西洋の近代的な問題に触れることは少なかった。明治、江戸の最後の女性作家であり、作家を職業とした日本の最初の女性で、子どもを扱った最初の小説「たけくらべ」は現在でも、大人の童話として十分にその存在は輝いている。

* 樋口一葉伝 一葉の日記 和田芳恵 新潮社
* 樋口一葉の世界 前田愛書作集第三巻 筑波書房
* 樋口一葉研究 増補改訂版 塩田良平 中央公論社
* 樋口一葉 塩田良平 写真人物叢書 明治書院
* 樋口一葉研究 和田芳恵 新世社 
* 桶口一葉 塩田良平 日本歴史学会編集 人物叢書 吉川弘文館
* 瀬戸内寂静さんの「炎凍る 樋口一葉の恋」は「私の樋口一葉」 小学館文庫
* 「樋口一葉に聞く」 井上ひさし こまつ座(編著) 文春文庫
* こんにちは一葉さん 森まゆみ NHK出版
* 一葉の四季      森まゆみ 岩波新書
* 樋口一葉と十三人の男たち 木谷喜美枝 青春出版
* 「樋口一葉『いやだ!』と云ふ」田中優子著集英社新書
これが一生か、一生がこれか、ああ、いやだ、いやだ『にごりえ』
* 群像 日本の作家3 樋口一葉 小学館
*樋口一葉考証と試論 関良一 有精堂
*塵の中の一葉 荒木慶胤 講談社PSC
*樋口一葉 和田芳恵編 近代文学鑑賞講座3 角川書店
*薄倖才媛 樋口一葉 岡保生 新典社刊
*樋口一葉文学成立の背景 木村真佐幸 桜楓社
*田沢稲舟―作品の軌跡 松坂俊夫 東北出版企画
*樋口一葉 群像日本の作家3 小学館
*その他多くの一葉についての、あらゆる角度からの研究書が出ています。
*近藤 富枝「たけくらべ殺人事件」難解な怪事件を解決する名探偵一葉登場。
*いまさら、何が一葉に残っているのか、これだけ早期に研究し尽くされている一葉を取り上げる意味があるのだろうか?だらだら、書き記していく一葉のエピソードから一葉の一旦を垣間見るだけしか役割を果たせないだろう。バブルが去り、低迷景気で、実感なき景気回復の政府の姿勢に、閉塞感と疑問を抱きながら、明治の格差社会の底辺とトップを垣間見た一葉は、現在の矛盾した社会に再度、私たちに、幕府から維新後の没落、2次大戦敗北後の価値感の変化を経て、右上がり景気、バブルと浮かれた、後の散財のツケを税金でまかない、お金を稼ぐのは悪いことですかというファンドのことばに、社会の2重構造を知り、崩壊していく日本の社会構造中において、一葉の世界は名誉とか金満家にあこがれるとかと言った欲望を捨てた、世に迎合しない姿勢を貫き、その2重構造に泣く弱者を書き連ねた、美しい文に一時でも浸っては見ませんか。このような時代のあったことを、女性が書き綴ったことを、知ってください。一葉を知ると必ずあなたは一葉の虜になり、離れられなくなります。心にいつも一葉が住み着きますよ。これはその道明かりになれば幸いです。
*これからは「私だけの桶口一葉」ともっとマニアックになっていくのかしら。
*気丈夫に、きりりと、したたかに、あるときは激情し、あるときはものの哀れを感じ、気弱になるときもあったが、最後まで一葉は立派に明治を男と張りあい精一杯に生きた。
一葉記念館

(私の幻想交響曲いや幻覚性認知症の始まりか)
『夢を見ました』
*この2ヶ月一葉の資料を読みふけっていると、車である交差点で信号待ちをしていると、横断歩道を銀杏返しに結った一葉が歩いているのを見かけました。アッ~一葉だ!!と思ったとたんに渡り終え消えてしまった。確かに一葉だったと思う。

*ある夜、一葉が龍泉寺町の雑貨店から、子どもたちの声がして、一葉が子どもたち相手にお菓子や、玩具を売っている風景を見ていました。忙しく立ち動く一葉は、たけくらべの 皆子ども達が集まる文房具屋の風情を感じながら、丸髷に結った一葉の着物姿に見入っていました。これ昔見た夢です。

拝啓 樋口一葉さま
忌まわしい十一月に手紙をしたためています。樋口一葉さまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
先日、思わぬところでお見かけしました。いつもの髪型に渋い着物姿で、足早に通りに姿を消されてしまい、一度お会いして、挨拶でもと夢にまで見るので日々思っていましたところ、偶然にも信号待ちしている下町の交差点でお見かけしたので、龍泉寺のお店に並べる雑貨の仕入れからの帰りだったのでしょうか、一葉さまと妹邦子さまが、子どもに玩具や菓子を売り与えている姿が今にも目に浮かびます。あの御着物は年齢よりお年が召されているような感じがしますが、でも私はあの着物が好きです。髪形もあの銀杏返しが素敵でした。御目が近いと聞いていましたので、もしや気が付かないのではと思い、手を振りかけたのですが、なにぶん、最近の交通事情はそれを許すほどの時間を与えてはくれません。後ろの車が信号の変ったとたん、クラクションを鳴らしていて、我に戻り、発車してしまいました。このチャンスを逃がしたら、二度とこのようなチャンスはないと思いながら、唇を噛み締めながら、職場へと向かいました。あまりにも残念なので、色々考えた末、大音寺通りの龍泉寺のお店にお伺いしようと決心しました。

一度だけでも、竜泉寺のお店で、何か記念品の品を買い求めて、ご挨拶でもできれば、この上ない幸せでございます。そのときまで、お体を御自愛くださいますように、心から願っています。一葉さまのごとく綺麗な文字と文章はかけませんが、私の心ばかりの一葉さまへの情熱と気持ちで一筆したためました。ご乱筆乱文ご容赦くださいますようお願いいたします。

尚、未完の“裏紫”は必ず完成してくださいますよう期待していますが、お体をおさわりなきよう完成させて下さりますようお願いいたします。今後、さらに新境地を開かれ、作品に反映させて下さることを心から願っておる次第です。馬場孤蝶様、平田禿木様、斎藤緑雨様はじめ文学界の方々の一葉さまの御傾倒もあり塩田良平、和田芳恵、前田愛氏などはもとより多くの研究者とは私は、比べようも無く未熟で一葉さまの極一端しか知らないことに歯がゆい思いをしています。これからも少しずつ文献を参考に思いを深くしてまいろうと思っています。明治の文豪に引けを取らない文体に惹かれて陰ながらひっそり応援しています。
樋口一葉様の、隠れ応援者より。
                                                      敬具

追伸
少し古いですがイソニコチン酸ヒドラジド(INH),リファンピシン(RFP),ストレプトマイシン(SM),エタンブトール(EB),ピラジナミド(PZA)結核の病の治療にはこれが主流ですので、出来ましたら、ご病気になられるとすぐに、人参養栄湯少々附子を加えると良いかもしれません、滋陰降火湯と共に服用、注射してください。1年分お送りします。丸山福山町四番地、樋口一葉さま宛てに送りますので、福山町に引越しされたら、すぐに治療始めてくださいますようお願いいたします。入用なら抗鬱剤と安定剤を併用すると効果的と個人的には考えます(頭痛、肩こりにもききます、生きる意欲が湧いてきます)。これも入用ならお送りします。今ではジェイゾロフトとセレナールがよろしいかと思います。肩こりにはテルネリンと葛根湯もしくは疎経活血湯がよろしいかと、咽喉の痛みは結核性咽喉頭炎で、頸部リンパ節にも菌が入っているかも知れません、その時は点滴セットがいりますので、取り扱い説明書と共に三浦省軒先生、樫村清徳先生、緑雨が頼み込んで森鴎外の紹介で青山胤通東京帝国大学教授の診察も受けられたとか、にもよく書き送っておきます。副作用情報のことも忘れずに。ペニシリンも無い時代には、何処の宅配便に頼めばよいのか、“魔女の宅急便”なら出来るかもしれない。スタジオジブリの「キキ」に頼んでみます。くれぐれもお体ご自愛ください。                                                                                三浦省軒(主治医:宮内省侍医で、一葉の所へは養子の蓮太郎が代診している)
樫村清徳(駿河臺の山龍堂病院)

伊藤夏子女史の話:「森先生の紹介で青山先生が、来診下さいまさいたあくる日、行きましたら、妹さんが忍び足で、入口にかけ出してきて「姉は結核ですって。どうしてもだめなんですって」と青山先生がされるように手を振って、みせました」

(A)法:RFP+INH+PZA に SM(or EB)の4剤併用で2カ月間治療後,RFP+INH(+EB)で
  4カ月間治療する。
(B) 法:RFP+INH+SM(or EB)で6カ月間治療後,RFP+INH(+EB)で3カ月間治療する。

  原則として(A)法を用いる。
  PZA投与不可の場合に限り,(B)法を用いる。
  日本結核病学会治療委員会


明治27年12月に「大つごもり」を『文學界』に発表してから、連載されていた「たけくらべ」が完結する明治29年1月までの14ヶ月間という短い期間に、一葉の最高傑作といわれる代表作が全部執筆されています。
明治27年 12月 「大つごもり」を『文學界』に発表
明治28年  1月 「たけくらべ」を『文學界』に連載開始
        4月 「軒もる月」を『毎日新聞』に発表
        5月 「ゆく雪」を雑誌『太陽』に発表
        8月 「うつせみ」を『読売新聞』に発表
        9月 随筆「雨の夜」「月の夜」を『読売新聞』に発表
           「にごりえ」を『文藝倶樂部』に発表
       10月 随筆「雁がね」「虫の音」を『読売新聞』に発表
       12月 「十三夜」を『文藝倶樂部』(「閨秀小説」)に発表
明治29年  1月 「この子」を雑誌『日本乃家庭』に発表
           「わかれ道」を雑誌『国民の友』に発表
           『文學界』に連載した「たけくらべ」完結

佐佐木信綱博士の歌が刻まれた歌碑

紫の古りし光にたぐへつべし君ここに住みてそめし筆のあや一葉女史たけくらべ記念碑そのかみの美登利信如らもこの園に来あそぶらむか月しろき夜を

明治文學の片影 佐佐木信綱  昭和9年10月25日発行  中央公論社

信綱は一葉と同じ明治5年の生まれで、明治大正昭和の長きに渡り歌壇にあった。その著者が接した百人の思い出を記したもので、当然に一葉の項もある。信綱は更に『ある老歌人の思ひ出』を昭和28年10月、『明治大正昭和の人々』を昭和36年1月に出しているが、それぞれにも一葉のことを記している。信綱が初めて一葉を見たのは父・弘綱の門人松永政(正)愛の住まいであった。当時少女の奈津は松永の妻に裁縫の稽古を受けていたが、弘綱の歌の稽古も横で聞いていたらしい。一葉が萩の舎に入塾してからは、信綱は勉強のために各歌塾を訪れていたので、一葉の姿を記している。

ギネスブックによると世界最高齢は114歳の皆川ヨ子さん(残念にも平成19年8月13日死去)明治26年1月4日生まれ。

明治26年は金さん銀さんの生まれた年で、清水の次郎長が没している。一葉日記には次郎長が死んだ記事を書いている。一葉が生きた時代の人です。万延1(1860)、文久3(1863)、元治1864年、慶應1(1865)年ですから、昔、文久と書いてある生年月日を見たことがあります。

それから、一世紀半のうちに、書かれた一葉の文字を私は読めない。印刷された文字であっても、パソコンに打ち込むのに、時間が倍以上かかる。「てにおは」から送り仮名、語尾が異なっていて、ことばの流れが共有できない。しかし、一葉は、源氏物語、枕草子、徒然草、平家物語、方丈記、伊勢物語、八代集、などなど一葉は軽々と読んでしまう。古今和歌集、新古今和歌集、など多くの古典を読みこなしてしまう、この半世紀にこれらは非常に難解な日本語になってしまった。

源氏物語から千年を迎える時代、最後の半世紀は非常に大きくことばが変化していったように感じる。西鶴や近松門左衛門さえ読めなくなってしまった。急速な文化発展は従来の「ことば」ではまかない切れなくなったようである。現在のことばさえもう半世紀もたてば、判読しにくいことばになっているかも知れない。一世紀も経てば、古典となっているかも知れない。*樋口一葉はすべて研究し尽くされていると言ってよいほど研究し尽くされています。これ以上何を調べるのか、資料がない限り不可能ではないでしょうか。一葉の日記がすべて残っていたら、また新たな情報があったかもしれないですが島崎藤村の資料などは藤村が削除を願い出たと思われます。すべての資料があれば一葉のことばから当時一葉がどのように文学界の人たちを思っていたかわかるのですが、残念です。しかし、妹邦子、緑雨、孤蝶の功績は大きい。彼らを突き動かしたのは何だったのだろう、女性の小説家?その作品、一葉を訪れてその人柄に惚れただろうからか、どれにしても作品に魅力がなければ作品は後世の人は読まなかっただろう、「たけくらべ」の世界は子どもたちの世界を懐かしむ大人の童話です。大人の童話として、新たな絵本として読んでもらえば、もっと広く広まるでしょう。(絵を入れて、読みやすくすれば、きっと売れること売れることでしょう。)

一葉の、この年齢で仕事をして一家を支えて、小説や和歌を数千残した一葉は、私にはどこか、惹かれるそれは、健気にも若くして苦労して生涯をかけた小説を残し、一葉の筆の文字の綺麗さに引き込まれます。現在では大学を出て、OL2年目で一葉は亡くなっています。この早死にで後世に残る作品を残した一葉の生涯に引き付けられる私はその作品と同時にその生涯に引き付けられます。

明治の人はよく歩いたなと思う、竜泉寺から菊坂2往復などへっちゃら、だったようで、一葉の家探しは、徒歩で延々と歩いていたようだ。さらに、明治は宵越しの金を持たないのか、せっかく借りたお金を、母たきが、そのままそっくり貸してしまうような記述に驚く。金は天下の回り物という感覚は、この当時のことを日記で知ると、そう思う。現在が富める時代、明治より裕福なという感覚が、当時の人(一般庶民)のお金の感覚は無い金でも無理して見舞いや義理を欠かないように振舞う。お金の貸し借りが今ほどぎすぎすしていないように感じる。明治の人は見かけなくなった。大正生まれの人も少なくなった。明治は確実に遠い時代になりつつある。

一葉は明治維新後、日本の古い時代の最後の小説家だった。明治の時代の女性作家として、苦闘し、生活におわれ、格差社会を目の当たりにして、自身の体験をもとに小説を書き続け、燃え尽きてしまった一葉は、これからも日本文学史上で読み継がれていくことでしょう。だれしもがたどる子ども時代は、「たけくらべ」を読むとだれしも、どの時代でも共感できるのではないでしょうか。この一作でも一葉は後世に名を残すのではないでしょうか。もう二年長く生きていてくれたらという、コメントは、確かに作品が少し変わりつつある中で、死んでしまったがあと少しで、もう少し変化を遂げた作品を残してくれただろうと思う。まことに残念至極です。

「たけくらべ」の冒頭の文章、「にごりえ」の最初の客引きの文章などは、二十歳そこいらで書けない文章です。一葉の人生の苦労は作品に残って永遠に受け継がれて行くことでしょう。



    


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