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最近思うこと...(2005.7)

釈迦十大弟子と日本の文化に流れる魂の仏像達

私達は今、不信、不安の中で、模索しながら生活している。列車事故、毎日のように報道される、地震情報、思わぬことから人の列に、飛び込んでくる自動車事故、熾烈な競争原理に遅れまいとする、社会、企業、国家の政略の犠牲が人名を失う事で気付かされる。

ふと生活において、社会において不幸が降りかかり、躓くとき、信仰に無関係な人も、教会の十字架の前に、寺院の仏像の前に、時代を経た神社のお社の悠久の神々の歴史の中に身をおいて、偶像崇拝ではなく、その媒体を通して、神とか、何か人智の及ばない力に縋ろうとする事がある。頭を垂れ、祈りの中に、救いを求める時が、人生には数度は必ず訪れる。この行為は、科学を超えた人類共通の遺伝子に組み込まれている理屈ぬきの本能である。

現世は苦であると説いた釈迦は多くの弟子に恵まれた。スポーツ選手の激しい訓練の末たどり着いた、力が抜けた効率のよい動きは、始めから、力を抜いた動きを練習しても達成できなく、苦労の結果出来上がるものである。釈迦の中道も、激しく厳しく辛い修行の末、たどりついた境地である。苦行なくして中道はなかった。

今日、苦労は退けられ、安楽で、安易な、苦痛なく物事を終わらせる傾向にある、長く又は辛い治療は時代に合わなくなって来ている。その治療を、しかも早く難なく達成するようなったおかげで、根本的な問題、根底の部分は放置して、目先のことを安直に始末しておく、対症療法的な治療が花盛りである。日本の構造改革が達成できにくいのは、痛みを伴う事を嫌う事からも来ているので、急変に不安を持つ人の対症療法が日本の復帰を遅らす遠因ではないだろうか。核心に働きかける行為を避ける気風があるからである。

一旦成ると・病気と長く辛い経過を取らざるを得ないことに我慢が出来ない。其処に至るまでに予兆はあったが、先延ばしして、辛い事は避けるようにする。先延ばししなくても、人一倍労力を惜しまない人もなかなか結果が出ないこともある。こんな時、投げ出したくなる。しかし、聖書も仏典にも、この様な人たちの救いの道が述べられている。こんな事信じられるものかと、済ますか、愚直にも、信じてみる、利巧でないかもしれないし、目先に走らない、所謂要領のよくないかもしれないが、この時代に逆行したような後列の敗者の生き方が、極端であるが、この様な考え方を馬鹿にしない、真摯な態度で見つめる事が、現在では必要であるのかも知れない。先を読み、人より抜きん出る事ばかりのテクニックを植え付けられて育ってきた場合には、これは敗者の理論かも知れない。デクノボーと呼ばれる人になりたいと言った賢治は、現在社会だけでなく、過去から、人間が存在する限り未来、永遠と生きていく人間には全て同じ根底が必要であることを知っていたように思われる。ここにおいて、この問題は宗教としてではなく、仏教的精神土壌風土は日本人の心に営々と流れて来た規範としての、物事の考え方としての仏教的道徳的思考を思い起こす事は、一考の価値があるのではないかと思います。

阿修羅 中宮寺の木像半跏思惟像
摩耶夫人及び天人像
釈迦如来 摩耶夫人 釈迦誕生立像

●紀元前6世紀頃、ルンビニーの花園(現在のネパール)釈迦族の王浄飯王の夫人摩耶夫人は東隣国ラーマ国姫で、出産のため里帰りの途中、産気づき、サーラ沙羅の樹に手を差し伸べた時、右脇から誕生された釈迦に、天は母子を賛嘆して温冷二筋の清水を注いで産湯とし、小さな王子は梵天の金網に受けられ四天王の手に抱かれ、黄麻の布にくるまれた。そして、北に向かい七歩歩み、右手を高く掲げ、「天上天下唯我独尊」と唱えられた。四月八日、花御堂に花を飾り、誕生仏に甘茶をかけてお祝いする花祭りが日本にはある。東京国立博物館蔵の金銅造、7世紀頃作摩耶夫人像は釈迦が右脇から誕生する時の像で、既に仏の形になっている。東大寺金銅造、奈良時代後期、誕生釈迦仏立像は右手を上げ、左手を下げた小さな像である。小乗仏教国の僧は悟りを開く前の釈迦には何の徳もないのに、日本の僧たちは崇めるのかと、妻帯するのかと問う。激しい修行の末、悟りに至るには中道が良いと悟った釈迦の心を、一緒に修行していた五人は中途半端と取り去っていった。大乗仏教は釈迦入滅後500年後の考えであるが、釈迦の本当の核心は此処にあるのではないかと思われる。

西洋のイエス・キリストはユダ以外に全ての弟子に裏切られて、ユダヤの王としてユダヤ人の企みにより、ローマの指令のもと政治犯として十字架にかけられた。救世主であり・神の子が最も愛した、ペテロ死の場所のサンピエトロ大聖堂の広場に集まった信者の前に、聖ヨハネ・パウロⅡ世の遺体が置かれた地下に眠るペテロさえもイエスを三度まで主を知らないといった。哲学の祖ソクラテスも魂は不滅と言い残し毒を飲み死んで逝った。其処には、愛アガペーと理性的な正義と、怒り、恨みをはらす最後の審判に対するエルサレムから欧州の思想が、極東の愛を退け、慈悲と情緒的悲しみ、諦め、微笑みという思想とが相容れない対極にあります。釈迦は生まれて沙羅双樹の間に床をしつらえ右脇を下にして横になられ、入滅するまで人間として死んで行った。孔子も殺されなかった。

偶像を排する宗教が多い中、エジプトからギリシャを経て、ガンダーラに仏像が誕生し、チベットから中国、日本へと伝わり、日本独自の仏像が名も無き仏師たちによって作られた。それはミケランジェロ作の彫刻のように筋肉が盛り上がった仁王像であったり、菩薩像であったりした。この彫刻美を多くの日本人彫刻家が再発見し新たな日本彫刻を作り出した。本郷新(彫刻の美の著者わだつみの像:立命館)もその1人である。

多くはキリスト十二使徒のように知られていない、釈迦十大弟子が多くの経典を書き上げ現在に残した釈迦のことばに原始仏教の功績をしのび、簡単に人柄を取り上げて見ます。正義の思想の危うさが、慈悲の思想が忘れ去られたかなたから、現れ世界を救う日が来ることを信じ。

あの世を信じる宗教が無ければ文明というものが無かったというドフトエフスキーのことばの重みを信じて。

➀舎利弗(しゃりほつ):智慧第一
興福寺

マガダ国ラージギル(王舎城)近くの、霊鷲山(りょうじゅせん)のふもとナーカラ村で、バラモンの子として生まれる。両親ともに弁舌に優れた人であった。サーリ(母の名)の子という意味のシャールプッタという。
知能指数の高い、秀才タイプの子であった。

近くのクーリカ村のコーリタとは若いときから仲がよく行動をともにして、終生変わらぬ共となる、目犍連(もくけんれん)である。2人はお釈迦さんの2大長老となる。2人は世の無常を感じ、出家し、懐疑論者サンジャヤに支持する。当時王舎城の一帯は、旧バラモンも教えに安住できない新興思想家が、バラモン根本聖典「ヴェーダ」に従わず、自説を主張していた。「六師外道」と呼ばれる6人が有名で、サンジャヤも含まれていた。
この教えは、全ては疑わしいものであると懐疑論、不可知論を唱え250人の弟子をひきいて、2人は高弟であった。カースト制に制約されていない考えであった。

舎利弗は托鉢中の1人の修行者に目がとまった。その姿立ち振る舞いに引かれ、礼儀にしたがい、托鉢が終わるまで後を付いて回った。「紗門よ、あなたの心静かな態度に惹かれてついてきました、師は何を教えていらっしゃるのでしょうか。」「私は、アッサジと言う。・・彼は釈尊が悟りを開かれる前、一緒に苦行した5人の仲間の1人である・・私の師は釈尊である。物事は原因があって生じる。その原因と、その滅却を、釈尊は説かれる。」この釈迦の「縁起の思想」を述べた。舎利弗はこれだけで、教えがすばらしいものかを理解できた。真理というものは平凡で単純なものである。この出会いの偶然を感謝した。250人の弟子とともに2人は釈迦の下で、比丘として守るべき具足戒を受けた。釈迦は2人の資質の優れていることを見抜き、目犍連は7日で阿羅漢(悟りを開いた人)の域に達し、舎利弗は半月で達した。舎利弗はアッサジの恩を忘れず、アッサジのいる方向に足を向けて寝る事はなかった。

 マガタ国スッダタ長者が釈迦に祇園精舎の寄進を思いたった。舎利弗が建築指揮を命じられた。バラモンの一大勢力化の土地柄であったので、舎利弗は問答によって建立に決着をつける。バラモン側には赤眼修行者が対座した。舎利弗を見た赤眼はその人品骨柄を見抜き、対戦は破れ、舎利弗に弟子入りをした。立派な祇園精舎が、竹林精舎が完成した。釈迦の真前に座り、最も多くの対告衆(説法の相手)を務めた。「般若心経」の舎利子と呼び掛け「色即是空 空即是色」と空の真意を説かれている。

「阿弥陀経」では、36回も舎利弗に呼び掛け、極楽浄土の姿を語られる。釈迦は舎利弗を「善友」(よき同伴者)と呼び、実子の羅睺羅(らごら)の出家に際して、紗弥戒の戒師となり、末永く指導して欲しいと依頼された。

80歳近い年齢で、舎利弗は死期を悟り、友の目犍連は既に世を去り、故郷のナーラカ村で死を迎えたいと思った。釈迦は竹林精舎で病を癒すようにと勧められたが、故郷には母がまだ存命であり、できれば母の元で死にたいと従わなかった。舎利弗の遺体は、付き添っていたマハーチュンダが遺骨と衣鉢を釈迦に届けた。釈迦と羅睺羅の悲しみはいかばかりのものであったろうか、別れは人生の根源的なものであり、誰もこの苦しみからは逃れられない。

唐代道林和尚は松ノ木に下で坐禅していた。白楽天が「仏教の根本精神はなにか」「悪いことをせず、善いことをする」「そんなことは三歳の童子でも知っている」「実行することは、八十の翁にでも難しいぞ」真理は簡単である。

➁目犍連(もくけんれん):神通第一
興福寺

目連とも呼ばれる。モッガーナ(インド名)、マガタ国のクーリカ村(ナーカラ村の隣)父は学問、見識に優れたバラモンであった。舎利弗といった「山頂祭」で、人生の無常を感じ、出家して、懐疑論者サンジャヤに師事。しかし、心の平和は得られず、釈迦を知り、その門に入り、7日間で悟り、阿羅漢に達した。その後50年2人は一双の上首として釈迦の補佐役を務めた。毘舎佉(びしゃきゃ)(鹿子母、ろくしも)を訪れた長者夫人が寄進した東園精舎に腐心した。鹿子母精舎とも呼ばれる。祇園精舎の東北に位置し、2階建てで、一階に500の部屋があった。竹林、祇園、鹿子母精舎と3つの拠点体制が整った。多くの弟子達が、各地に布教していった。

提婆達多(だいぼだった)の反逆行為により、分裂の危機に際して比丘たちの下に乗り込み、意を尽くして説得し、連れ戻したのがこの2人であった。

「釈迦が舎利弗は、智慧と戒をよく知ることと、心の平静さにおいて最高のものである」と褒めていたと舎利弗に言うくらい、神通力に優れていた。2人の性格は舎利弗は思索型で悟りに達するに楽速通行で天才型タイプであった。目連は苦しみ抜いて悟りに至る努力型タイプであった。

神通力は仏教では6神通を数える、一種の超能力である。

一、 神足通:欲する場所に自由に出現できる能力
二、 天眼通:人々の未来の運命を予知する能力
三、 天耳通:鋭敏な聴力
四、 他心通:他人の心を知る能力
五、 宿命通:自分や他人の過去世のあり方を知る能力
六、 漏尽通:世界と人生についての真理を悟りうる智慧

この一から五までは心身の能力であるが、六はブッタガヤーの菩提樹の下で悟った智慧であり、仏教の存在理由である。釈尊はこの漏尽通を除く神通力を禁じた。仏教は智慧の宗教であり、奇蹟を必要としない。

盂蘭盆会
目連は六神通で亡くなった母に釈迦の教えを伝え、自分を産み育てた恩に報いたいと思った。天眼通で母を捜し求める。母は餓鬼道に落ちていた。飲み物、食べ物を口に出来ず、やせ衰えていた。目連はご馳走を差し出すと、炎になり、水は沸騰して口にはいらなかった。釈尊は「そなたの母は犯した罪が深く、貪りの心も強かった。孝心がいくらあっても、1人の力ではどうしようもない」「多くの僧が夏安居を終え、懺悔のために集う七月十五日に、ご飯とご馳走、香油、燈明、敷物を用意して、母の変わりに皆に渡しなさい」

この日は90日間座禅したあとの心身清浄な僧の中に、六神道を自由に発揮できる徳の高い僧、あるいは僧に姿を変えた菩薩が混じっている。これらの人が力をあわせれば、父母ばかりか、六親眷属と言った人まで、三途の苦しみから救われるであろう。父母健在なら、百年にわたり徳福の楽しみを受けることができるし、もし父母が亡くなっていたなら、天に生まれることが出来るであろう。こうしてその母は餓鬼の苦しみから逃れられた。盆踊りは餓鬼道の責め苦から逃れられた目連親子が、抱き合い歓喜して踊った姿から生まれた。

当時、裸形外道と呼ばれる過激派グループがあり、目連の暗殺計画を練った。一度、二度は失敗したが、三回目には非業の死を遂げた。釈尊は「人の命は、無常であることを、誰より知っていたのが目連であった。病で死のうと、殺されて死のうと同じである。二度まで法難を避けながら、三度目に神通力を捨て、従容として死を受け入れたのは、三度までも襲われるわが身の因縁を内観して知ったからであり、目連ほどの人は、いかに残虐非道な殺され方であっても、心安らかに涅槃の時を迎えられるのである」。

1828年新潟三条市にマグニチュード7.4の大震災があった。越後島崎村の良寛は与板町で酒造業を営む山田杜皐に宛てた見舞い状は、

地震は信に大変に候
しかし災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候 死ぬ時節jには 死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候
かしこ   良寛

③優波離(うばり) :持律第一
京都洛南高校付属中学校で哲学者梅原猛が行った仏教の授業で「インドではカースト制があり、仏教は生きとし生けるものは皆平等という思想であるため、インドで生まれた仏教はインドで栄えなかった」と述べておられる。その仏教が中国、韓国と経て日本に伝わった。この大乗仏教と南伝した小乗仏教がある。

釈迦入滅後500年間釈迦の教えを守り続けていた。龍樹が新しい仏教を始めた。「大乗」といって大きな乗り物、其れまでの仏教を「小乗」小さい乗り物と呼びました。タイ、ベトナム、スリランカは小乗、チベット、日本は大乗です。小乗は戒律が厳しく、嫁さんもめとらない。龍樹はイエス・キリストと同時代の人です。大乗は自利利他という菩薩行です。山にこもり自分達の悟りを開く自利より、悩んでいる民衆に入って人を救う利他を大切にする。菩薩の代表は観音菩薩であり。観音様は、なろうと思えば仏になれるのですが、人間を救うために仏にならずに菩薩に留まっている。色々身を変えて人間を救う。龍樹が作った「般若経」の経典は長いものです。これを簡素に要約して「般若心経」にした。三論宗、真言宗、天台宗、禅宗で良く読まれる。浄土宗は違います。観音様は生きとし生けるものの苦悩をあまねく観ていてくださる。その苦しみを除き、救われる、色々姿を変えて衆生を救う。観音様の深い知恵は、世の中は全て空である。実体がないから、それにこだわらない。こだわらない知恵が本当の人間の知恵である。一切のこだわりを捨てること。これが「般若心経」の真髄です。

「如来」は仏様で悟りをひらいた人。「菩薩」はこれから悟りを開く人、「「明王」は如来や菩薩を守る仏、「天部」はバラモンの神様が仏教に入ったものです。如来は釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来があります。形は髪の毛がカールしていて、体に装身具を一切つけていない。悟りをひらいた人間は装身具をつける必要がない。装身具にて身を飾る人は、まだ悟りをひらいていない人です。手のひらを外にして右手を上げ、左手も手のひらを外に向け前に突き出している。与願施無畏という印です。右手は「お前は苦しんでいるけど大丈夫だ」という施無畏印、左手は「あなたにこれをあげましょう」という与願印が釈迦の印です。両手を前に組み手に薬壷を乗せているのが薬師如来、両手の親指と人差し指で丸を作る。これには三種類あって、丸を作った両指を前で組み合わせたのを定印、これは阿弥陀さまの瞑想姿です。両手を上に上げるのは説法している姿を示す。右手を上に上げ、左手を下げた姿は来迎印で、往生する人間を極楽浄土にお迎えに来た姿を示す。法然、親鸞の浄土宗、浄土真宗に多い。菩薩は観音菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩などは普通の人間の姿をして、装身具を身に付けている。明王は不動、大威徳、軍茶利明王などが如来、菩薩を守っている。こわい顔をしている。天部は四天王、多聞天、持国天、広目天、増長天、帝釈天、梵天、弁天、大黒天などがいる。

東寺大日如来

*大日如来:他の装飾を着けない如来と違い、王者の姿として菩薩に似る形をしている。法界定印は悟りの境地、智拳印は考えを決定するとき、これから行動に移るときである。この大日は日本以外では稀である。諸仏、諸菩薩を統一する理論的に出てきた仏である。真言系には曼荼羅や像があるが、一般大衆には取り上げられなかった。一般信仰として取り上げられた例は鎌倉末期の十三仏で、死者の菩提を祈る際の本尊として選ばれた。諸七日:不動明王、二十七日:釈迦如来、三十七日:文殊菩薩、四十七日:普賢菩薩、五十七日:地蔵菩薩、六十七日:弥勒菩薩、七七日:薬師如来、百ヶ日:観音菩薩、一周忌:勢至菩薩、三回忌:阿弥陀如来、七回忌:阿閦如来、十三回忌:大日如来、三十三回忌:虚空蔵菩薩。近畿、北陸、四国に見られる。京都市内では天道大日如来の堤燈を作り、お祭りをする行事が七月二十八日行われている。大日の不人気の1:真言密教の本尊である。鎌倉時代は浄土、浄土真宗、禅宗、日蓮が盛んで、真言、天台は平安仏教で、貴族仏教として、加持祈祷の迷信的な仏教とした。2:大日は知の仏であるため。日本は情の仏が人気ある。欧州の主知的性格、極東は主情的で、仏教も理論的哲学的に理解する前に、芸術的、美的に、美術、文学を通じて理解した。

・優波離(ウパーリ)は釈迦の故郷カピラ国王宮に仕える理髪師でカースト制では最下層のシュードラ(奴隷)であった。釈迦がカピラからの帰途に7人の後を追いかけるものがいた。6人は釈迦のいとこの阿難陀をはじめシャーキャー族の良家の青年であった。優波離だけが身分違いであった入門後は他の6人の上位に座した。跋提が「家にいたとき、私達は驕慢の行いがあったが、優波離はその様な私達によく仕えてくれた。出家の順序はまず、優波離から、そうすれば私達は彼の先輩の比丘として敬い、合掌し、そのことを持って是までの驕りの心を捨てる証とするであろう」。

優波離は終始実直に身を処し、四姓平等の精神の軌範となった。
優波離は山に篭り修行をと釈迦に願い出たが、釈迦はこの精舎での修行を勧めた。是は優波離の性格を見抜き、その人に合った修行をさせる釈迦の知恵である。

④富楼那(ふるな):説法第一
プルーナ、ボンベイ近くスナーパランタ国スッパーラカ出身。父は裕福な貿易商だが、彼は召使に生ませた子で、愛情に恵まれず、父の死後、身一つで商売を始めた。貿易商に成功して、6度目の航海中、コーサラ国舎衛城からの商人達が朝、夕に何か歌っていた。富楼那がたずねると「歌でなく、ブッダの教えを唱えているのです」とこたえた。彼はこの教えの優れていることを理解し、即刻、全財産を整理して兄に譲り、自分は身一つで釈迦の下に走った。知っていた祇園精舎寄進者スッダタを訪れ、その紹介で受戒して一員となる。

彼は何処へでも飛び込んでいく大らかさと、苦労し尽くした人らしい心のひだにしみ入るような説法で、多くの信者から信頼をかちえた。対機説法の名手の釈迦に似た自由自在の語り口、教えのつぼを外さずわかりやすく説いた。彼は「雑阿含経」や浄瑠璃「伽羅先代萩」にも出てくる。
彼は最後、故郷に帰り布教に努めた。

帰る時、釈迦は問う、「富楼那よ、あの地方の人々は気が荒く凶悪だと聞いている。もし、あなたを公衆の面前で非難したらどうするか」「そのときは石や杖で私の手足を打たないだけ良い人と思います」「じゃあ、石木で打ったらどうする」「刀で私を傷つけないだけ、立派と思います」「では、刀で切られたら・・」「刀剣で切られても、殺されないだけ良い人と考えます」「では殺されたらは・・・」「仏弟子の中には、人生さまざま苦悩のあることを厭い、刀や毒で自らの命を断とうとしたものもいます。ですから、スナーパランタの人々は良い人だ、彼らは私の命を断って、自ら命を断つ労を省いてくれたのだと考えることにします」釈迦はうなずき、「富楼那よ、私にはもう何も言う事はない。それだけの覚悟があれば、きっと大丈夫だろう、法を広めてきなさい」是は懺悔(さんげ)の精神です。

⑤阿那律(あなりつ):天眼第一
アヌルッダ、カピラ王族の息子で、釈迦のいとこである。
釈迦がカピラ国に幾度か帰られたとき、シャーキャー族の若者が次々出家した。阿那律の家からは誰も出家していなかった。兄が残り、弟の彼が出家する相談を兄弟でした。しかし両親は反対した。そこで母は一族の跋提も出家したなら許すといった。其れは母が溺愛していた息子であったからである。しかし、阿那律は跋提の説得に成功した。金毘羅、難提耶、婆咎、阿難陀、堤婆達多と剃髪師優波離であった。堤婆達多は後で反逆する。
祇園精舎講堂で集まった多くの比丘や信者の中で、釈迦が説法しているとき、阿那律は居眠りをしてしまった。みなに「なんということだ」とそしられた。「子持ちよく眠っている間は煩悩がない。それもまたよいではないか」と釈迦はかばわれた。しかし、後で「阿那律よ、お前は何を求めて出家したにか」「世尊よ、私は生、老、病、死の苦しみから逃れるために出家しました」「そのお前が説法中に居眠りをするとは、最初の決意はどうしたのか」「世尊よ、申しわけございません。今日より以降、いかなることがあろうとも世尊の前で眠ることは致しません」阿那律は真剣に深く恥じた。彼は睡魔と闘った。程なく眼がただれ始めた。医師の耆婆を呼んで治療するが治らず、釈迦は眼には眠り、耳には声、鼻には香り、舌には味が食事である。阿那律よ、眠りなさい。といわれた。しかし、それ以上説法をされず、阿那律は完全に失明した。釈迦は極端な苦行を否定して中道によって悟りをひらくことをよしとされた。しかし、阿那律は理屈を越えた、自ら信じる道を徹底して進み、視力を失うことで、永遠の真理を見る心の眼を得た。

法衣は、墓場やごみ溜めに捨てられている、道端に落ちている布を拾い、良く洗い、綴り合せて着るのが決まりで、一人三枚が決まりだった。ある日、阿那律は針に糸を通すのに難渋していた。「幸福を願われる方よ、私のために針に糸を通し、功徳を積んでいただけないか」と近づく足音に声をかけたとき、それは釈迦だった。「では、私が功徳を積ませてもらおう」阿那律の耳に、釈迦の声は優しく響いた。「世尊よ、申しわけ御座いません。私は誰か他の僧が居られると思って、言ったことです」「どうして、私ではいけないのか」「世尊は、すでに悟りの彼岸に到達された方です。これ以上功徳を積んで、幸福を求められる必要がありません」「そうではない、阿那律。私は誰よりも、生きとし生けるものの幸福を求めているものです」そうして釈迦の手から阿那律に糸の付いた針が渡された。釈尊は弟子から世尊と呼ばれた。薄伽梵。優れた聖者と供に、幸福を求める人の意味も含んでいる。

* 医王耆婆伽(ぎばか)―名医
984年丹波康頼編纂の「医心方」のも耆婆の処方が多く記されている。
王舎城の美女の遊女サーラヴァティがビンビサーラ王と通じ生まれ、捨てられたのを、アバヤ王子が発見し、家来に命じてこの子を乳母に養育させた。王子はまだ生きているという意味の「ジーバカ耆婆伽」と名づけた。成長し自分は王家のものでない。自分に才能がなければここにすむことは出来ない。生きる道として、医術を学ぼうと考え、タッカシーラ国名医で7年間医術、薬学を学んだ。師の許しを得て、王舎城に帰る途中、頭痛の治療を始め多くの病を治し、開頭手術、開腹術(腸閉塞)、ビンビサーラ王の痔も治し、王は自身と後宮と釈迦の僧伽に侍医に任命した。ブッダの腸の不調を蓮の華を一定時間毎に嗅いでいただくことで便通を調えた。多くの宗教家は「医宗同源」で釈迦も阿難陀に、痔の種類と治療法、痛むときの陀羅尼の唱えを教えている。「療痔病経」として「医心方」に引用されている。

釈迦が涅槃に入られるとき、集まった弟子達の泣き叫ぶ中、阿那律は、その場に居合わせた最高長老として、枕元に侍して釈迦の涅槃を見届け、陀羅尼を励まし、供養の支度を整えた。釈迦の平素の教えを皆に改めて説き示して一夜を過ごした。

翌朝、陀羅尼に命じ、マッラ族に釈迦入滅の知らせを届けさせ、天眼で 諸天の意向を伺い、天冠寺のマッラ族の廟に遺骸を運び安置した。香と華と楽で供養し、遺骨を荼毘に付すとき、陀羅尼がいかにしても、金棺の回りに積んだ香木に火がつかない事態が起きた。陀羅尼は静かに釈迦の心を探り、「世尊は大迦葉の到着を持っておられる。それまで薪に火がつかない」と一同に告げた。

釈迦入滅後三ヶ月が過ぎ、大迦葉の召集で七葉窟で、第一結集が開かれた。優波離と陀羅尼が唱えたお釈迦さんの言葉を全員が「異議なし」と認めると、阿那律が釈迦もそれをよしとされているか、天眼で視た。これで経と戒律が決まった。

⑥迦旃延(かせんねん):議論第一
興福寺

カッチャーナ、アヴァンティ国首都ウッジェーニー出身。父は王の補佐役。ノーブルな顔立ち、黄金色の肌をしていたと伝えられる。彼は王から釈迦の教えを耳にして、是非自国に招きたい、叶わぬなら教えの概略でも知りたいと派遣した使者の一人であった。彼は釈迦の魅力に、出家してしまう。彼の心には釈迦の教えの正確に把握し、理の奥義を彼につかませる使命感が彼を議論第一にした。遣唐使の最澄、空海もその様な使命をおびていた。

釈迦は「比丘は、外に心が散乱せず、離散せず、内に安住せず、恐れる事が無いようにと観察すべきである。以後これにより、未来に苦が集まり生じることはない」と説かれる。比丘たちには理解できなかった。

彼は釈迦の四禅(欲界の迷いを超え、清浄な天界に至るための四段階の精神統一法)につき、説明した。比丘たちは是を釈迦に告げると、釈迦は「迦旃延はよく真理を知るものである。私も彼と同じように解説するであろう」と語られた。

迦旃延は阿羅漢となり故郷に帰った。王達に釈迦の教えを説き、家臣たちも多く帰依した。王はあるとき、樹下に寝泊まりする彼に、ある日は粗食、ある日は美食を施した。いずれも彼はありがたくそれを受け取り心から満足し、いささかの態度も変わらなかった。今度は、王はバラモン僧に同じようにした。僧は粗食の日には腹を立て、美食の日には喜んだ。それで、王は迦旃延の人格を尊敬した。

また、この様な辺境の地においては言葉も習慣も違ってくる。弟子達の懸命の努力に報いるような中道の精神で融通無碍に戒律を適応させていった。

➆須菩提(しゅぼだい):解空第一
興福寺

スブーティ、コーサラ国の舎衛城で生まれる。父はスマナ、祇園精舎を寄進したスダッタの弟で、裕福な一族の子どもであった。

彼は「空」を説く「大乗経典」にしばしば登場する。「空」がわかる人は感覚的な人でならず、自由な気風のカースト階級に属したことに関係があるかも知れない。

ボンボンで純粋、わがままで荒れた暮らしもしていたが、出家後、心から修行に励み、見事に自分を変えた。「空」に対極の「色」、つまり物質に不自由した経験が無く、執着心が無かった。彼は釈迦が祇園精舎に入られたとき、叔父の傍らで教えを聞いた。深く心を動かされ、即、出家した。この時の釈迦の話は、たとえ金銭も何も持たずとも心を幸せにする「床座施」、優しい眼差しで見る「慈眼施」、自分の体で人のために何かをする「捨身施」、何かの心配りする「心慮施」、行き暮れに困っている人に宿を貸す「房舎施」の勧めであった。

こだわりを捨てる、過ぎ去った事やどうにも成らないことの執着を捨てる「空」の智慧者である。

次は無諍第一:人と言い争わない、この根底には「空」がある。この世をかりのものと思い定めれば、その中で人と争う、競うことが無意味になる。被供養第一は多くの縁のおかげで現在あると感謝し、信者からの供養を誰よりも篤く受けたことで、須菩提とマガダ王舎城ビンビサーラは感動し、須菩提に草庵を寄進することを申し出た。畳1,2枚ぐらいの空間の小屋に住むことが許された。マガダ王国は強国で、王の忙しさに小屋の屋根を葺くのを忘れて寄進した。須菩提は供養されたものを心から感謝した。いかに南国といえども夜露、風も吹きぬくし、雨も降る。須菩提は何事も苦にせず暮らした。死後のことは、死んだときに考えればよいという教えのごとく、雨が降れば降ったときに考えようという信念で暮らした。しかし、彼が住んでから、一滴も雨が降らなかった。マガダ国の農民は稲が枯れ困った。王に陳情に行った。調べると、須菩提の寄進された小屋の屋根の無いことが判明した。急いで屋根を作り、そうすると慈雨が降り、農作物も生き返った。「般若経」のなかで「空」を説くときに須菩提が良く出てくる。

➇羅睺羅(らごら):蜜行第一
興福寺

興福寺
ラフーラ、父はお釈迦様、母はヤショーダラー妃。ラフーラは障害、束縛を意味する。また月蝕の日に生まれたからともいわれる。羅睺羅が父釈迦に会ったのは9~12歳の頃である。父の遺産を貰い受けにニグローダ園にいった。釈迦は欲望の元になる財宝でなく、絶対的真実を持たせようと思った。舎利弗を受戒の師として、剃髪させた。一人前の比丘でないため目犍連に指導を依頼された。浄飯王は紗弥(正式な具足戒を受ける前の少年僧)の黄衣姿であったのに驚き、悲しんだ。異母弟の難陀、最後の跡取りの羅睺羅の出家してしまったことに、親の子を思う気持ちと怒りを釈迦にぶつけた。これ以降、父母に許しを得ていないものの出家を禁止した。

羅睺羅は時々、たわいもない嘘をつき、人をだまして喜んでいた。釈迦は羅睺羅に足を洗った水を飲めるかと問われた。羅睺羅は飲めませんとこたえた。そうだ始め飲めた水も、足を洗ったために飲めなくなった。羅睺羅よ、お前も同じだ。せっかく出家して清い道を歩みながら、嘘をついて人を困らせ、それを喜ぶという汚れた心になる。次いで釈迦は、たらいで食事ができるかと尋ねられた。「否」と羅睺羅はこたえる。そうだ、お前の心も同じだ。お前の心は、人をだまし、愚弄するという汚れた水を入れたために、比丘にふさわしい教えを入れられなくなった。そうして、釈迦はそのたらいを思い切り蹴った。たらいが転がると、壊れるかと、心配したかと尋ねられた。羅睺羅が安いので、壊れても困りません。とこたえると厳しい顔と声で、羅睺羅や、ものの値打ちは、値の高い、安いで決まるものでない。あれだけ多くの水を、お前の手に汲み、運べるか。ものはその使い方を知って、値打ちが決まる。お前のように嘘をもてあそぶ者は、蹴られて転がるたらいのごとく、人に疎まれ、風雨にさらされ、やがては朽ち果ててしまう。ここに至り、羅睺羅は自分のしたことを深く恥じ、釈迦に心から、三拝をして懺悔した。また、師の舎利弗の下に出向き、三拝して許しを願った。

羅睺羅がまだ正式の具足戒を受けていないとき、夜の説法が終わると先輩格の比丘はそれぞれの部屋に戻り眠り、若い比丘たちは在家の信者と一緒に1つの部屋で寝ていた。あるとき、釈迦が具足戒を受けた僧が、戒律を受けていない者と同じ部屋で寝てはいけないという規則を作られた。戒律とは人間集団生活を快適に営むものである本質を比丘たちは忘れ、次の夜、羅睺羅は、好意的に色々世話を焼いて、寝場所を提供している比丘たちが、戒律・規則を破ることを恐れて知らん振りしていた。羅睺羅は寝場所に困り、釈迦の便所に寝た。釈迦は、我が実子、羅睺羅がこのようであるなら、新たに入門してくる修行者はどうするのであろうかと言われた。そこで釈迦は舎利弗に、戒律を受ける前の者は寝る場所がないではないか。戒律を変更して、具足戒を受けていない者でも、1,2日は比丘と同室を許し、3日までに自分の部屋を見つけるように指導、世話するようにすることにする。

羅睺羅は事あるごとに、悟りを開くために質問している。羅睺羅は、どのようにすれば、人間につきまとう心の驕りや、わが身への執着や、悪に傾く心をなくすることができるかと質問した。釈迦は、眼、耳、鼻、舌、身、意は無常である。無常なるものは苦である。このように移り変わり定まらぬものを、“これは我にあらず、わがものにあらず、わが体にあらず”と正しく観て、それに動かされず、貪りを離れて解脱すべきであると説き聞かせた。時には、托鉢の伴として連れて行かれ、道々で細かに諭され、樹下にて坐禅法、雑念を生じさせない、息の出し入れ、数を数えて心を静める方法を教えられた。しかし、羅睺羅はなかなか悟りを得られなかった。しかし、釈迦はその成長の度合いを見つめられて、このまま正しく行ずれば、ほどなくで、あろうと比丘たちに話された。人のために、五蘊、六根、縁起をよく説くように勧められた。つまり、自身をよくコントロールするようにという教えであった。彼は師の目犍連と同じ、険しい山野で修行し、独り瞑想することを好んだ。

釈迦入滅近くのとき、彼は旅の途中であった。しかし、釈迦の居るクシーナガルノサーラの林に駆けつけた。彼がねだった「財宝」は「永遠の真理」という形で自分に与えられた。

⑨阿難陀(あなんだ):多門第一
後年、多くの名を残したのはこの阿難陀と舎利弗である。名はアーナンダ、シャーキャー族出身。釈迦のいとこである。「仏教のユダ」と呼ばれる提婆達多と兄弟という説もある。

釈迦が55歳になり、多くの長老の中で、「私も最近、年のためか体も弱ったので、侍者を選んでほしい」と願われた。悟りを開いた多くの者が名乗りでた。どの人も年長だとか、様々な理由で断られた。目犍連は神通力で心中を探り、阿難陀だと知った。しかし、彼は固辞した。釈迦の一語一句記憶にとどめおくことは若輩の私には荷が重く無理と言い張った。しかし、とうとう説得に屈し、3つの条件をかなえられるならお受けします。と言った。一は古い新しいを問わず、釈迦の着用された衣をいただかない。多くの比丘たちから嫉妬をさけるためである。

二は釈迦が食の供養を受けられるとき、鉢の残りをいただかない。供養される食は御馳走が多く、それを求めて侍者になったと思われたくない。

三は自分の都合で釈迦にお会いしないことである。外道の者や他の比丘たちが、好きに釈迦に会いたいと訪れても断りきれないからである。以来25年全身全霊でもって使えた。或るとき背中に大きな腫れ物が出来、高熱と痛みがあり、耆婆が切開治療中も説法の聴聞を聞いていた。

彼は心優しく、美男子であった。尼僧院の成立に尽力をつくした。最初は女性の修行者はいなかった。
ヴァイシャーリーの町に、裸足の足から血を流し、飢えと疲労で立つことも叶わぬ姿の女性達がたどり着いた。500キロの道を髪を切り、比丘たちに似た格好したカピラ城の女性達であった。義母マハーパジャーパティー、かつては妃だったヤショーダラーも、彼の母の姿もあった。釈迦のことばに逆らったのはこの一回だけであった。必死に釈迦に食い下がり、女性にも悟りを得る能力が備わっていると理詰めで認めてもらった。マハーパジャーパティーをリーダーとする女性比丘尼集団成立、釈迦成道後20年ぐらい後のことである。女性出家者のため「八敬法」制定。第一に比丘尼はどんなに入信して間もない比丘も、先輩として敬わなければならないとした。

釈迦入滅は80歳とされている。マガダ国霊鷲山を出て、ナーランダ、パータリ村、ガンジス河を渡りヴァッジ国に入り、釈迦が愛したヴァイシャーリー市を通り、マッラ国パーヴァー市に入る。鍛冶工のチェンダのきのこの供養を受けて、激しい下痢に見舞われ、最後の地はウシーナーガルのサーラの樹林で涅槃に行かれようとするとき、マッラ国商人フックサがあまりに泰然自若とした瞑想の姿に打たれ、アーラーラ・カーラーマ仙人に帰依の心を捨て、釈迦に帰依した。敬仰の心に柔らかな金色の絹2枚を提供した。そのとき釈迦は、1枚は私が、もう1枚は是非阿難陀にと言われた。この供養は最初の誓いを最後に阿難陀は破った。

阿難陀よ、悲しんではいけない。私が涅槃に入れば、そなたは、師のことばは終わったと思うであろうが、そうではない。阿難陀よ、私の説いた法、律が弟子達の師である。このことを常に記憶して、正しく伝えよ。これから皆が希望するなら、細かな戒ははずしてもかまわない。このことは後で、どれとどれを廃しても良いのかを聞かなかったのかを、長老から阿難陀は叱責されている。次期釈迦に継ぐものは、法と律である。そのことを決める結集第一回結集時、阿難陀はまだ悟りを得ていなかった。阿羅漢のみで参加できる結集に、多くを見聞きしている阿難陀を外すわけにいかない。霊鷲山にこもり、深く瞑想した。そうして何とか500人の阿羅漢の最後の列に参加できた。阿難陀は脳に刻み込んだ教えを「如是我聞」とし、全員が是としたことばを原始仏教の経典とした。大迦葉が年老いて亡くなった後、全指導者は阿難陀がなった。120歳まで教えを説き続けた。

⑩大迦葉(だいかしょう):頭陀第一
マハー・カッサパ、迦葉3兄弟のはじめとして大がつく。火の秘儀を行う事火外道の指導者。マガダ国王舎城近く、マカシャラダ村裕福な家に生まれた。バラモン出身で、8歳で入門、勉強好き、求道心が強く、16,17歳頃は近くの舎利弗、目犍連と肩を並べるほどであった。彼は控えめな性格で、その学識を誇ることなく、出家して修行に専念したいと思っていた。跡取りの出家は家の断絶を意味するので、両親は反対した。彼は黄金の女性像を作らせ、再三の婚姻の催促に、同じ娘がいたなら結婚すると言った。しかし、本当に同じ娘がいた。カピラカ村のバラモンの娘で、16歳のバッダー・カピラーニであった。彼女の同じ出家の希望を持っていたので心のうちを話し合い、偶然を喜んだ。結婚後も夫婦としての交わりを持たなかった。彼が32歳のとき、両親はすでになく、人は生きるために殺生の罪を犯して生きているという事実に、2人は出家を決意した。彼は、竹林精舎で釈迦に出会い帰依、説法を聞くこと8日で悟り、阿羅漢になった。尼僧院を始められたとき、大迦葉はバッダーを呼び寄せ、比丘尼になった。

大迦葉は厳しい十二頭陀行を楽しいといって最後まで守った。釈迦は「非楽非苦」の中道を説かれた。大迦葉のも再三、年齢がいくと苦しい修行はもう十分と言ったが、「我々が長者の衣食の接待を受けると、それがひいては、後の比丘たちが衣食を貪り、苦しい修行を厭うようになるそれが仏法の衰退につながる。そのため、私の頭陀行が、後人にいささかの益することに役立つであろう」釈迦は「大迦葉の頭陀行があれば我が法も長く世にあるであろう。比丘たちも大いに彼を見習うべし」と説かれた。

禅宗寓話に「拈華微笑」がある。釈迦が霊鷲山で弟子たちに説法されていたとき、一輪の金色の蓮華を献じた人がいた。釈迦はしばらくもてあそんでおられたが、そのうち軽く花の首をひねり、ちょっと微笑まれ皆の前に示された。誰もこの意味することを理解できなかった。一瞬後、大迦葉が釈迦の真意を理解して、にっこり笑った。釈迦はそれに喜ばれて、彼だけに仏教の奥義の真理を全て授けられた。この話は、真理とは「以心伝心」で伝えるべきものであるという、禅宗の立宗の基になっている。

大迦葉は表面に立たなかったが、舎利弗、目犍連のよき相談相手であった。釈迦に相談しにくい難問も、目犍連が神通力で旅の彼を祇園精舎に呼び戻し自分の解決策を語った。上手くことを収めた2人が感謝の意を伝えようとするときにはすでに、布教の旅に出ていた後である。

釈迦入滅後荼毘に付す仕来りが当時あったが、火がつかない。天眼の阿那律は大迦葉の到来を釈迦は待っておられる。大迦葉は釈迦入滅のクシーナガルに近づくと、悲嘆にくれ、泣き叫ぶ弟子達の中で、「我々は今や大沙門から脱して、自由になることを得た。これからは小うるさく小言を言われなくすむ。好きに暮らせる」行いの悪い弟子達、六群比丘の一人抜難打であった。釈迦は彼に「正法が滅びるとき、その原因は五濁と、偽りの教えを皆がもてはやし、正しい師と法と学を人々が敬わないことである」といわれた。彼の耳は誰よりも鋭く、不心得のものの声を見見逃さなかった。大迦葉は抜難打を叱りつけながら、これからもこのような不心得者が出ることを案じた。そうして彼の到着で火がつき、釈迦の教えを次世代に伝える責任感があふれ、大迦葉は明日を担う人となった。

彼は皆の合意のもとに教団をまとめあげた。彼が涅槃に入ったとき、時の王アジャセは深く悲しみ嘆き「第二の仏が逝かれた」といって彼の功績を讃えた。

釈迦十大弟子の像は以下の寺で有名な像があります。
京都嵯峨清涼寺十代弟子像、京都大報恩寺、奈良興福寺が有名です。それぞれに趣があり味わい深い顔をしていて、この生い立ちを頭に浮かべながら彫った作者の意図と重ねあわして見るとさらに興味が涌いてきます。
像の足元もサンダル履きと中国風の靴があります。両肩を覆う着方を「通肩」で行を行っている姿。十大弟子には偏に右肩を脱ぐ、ダライラマの写真によくこの着方をしています。着物を着ているものもあります。


★どのような宗教も、大衆に受け入れられるためには、本来の信仰の真髄よりも、方便としての現世利益を表に現していかなくては成らない。

身に降りかかる災難、財、福、死に対する安心を得るなど、病から守ってくれる大衆受けする信仰が人気がある。鯉の滝登りが良いと言われると、その絵が人気沸騰するご時世ですから。

一神教と違い、苦しい時、千手観音が、病に苦しい時薬師如来が、死に床にあるとき阿弥陀如来が来てくれる。子を亡くし悲しい時地蔵菩薩が助けてくれる。神も仏も受け入れる多神教の、八百万の神々の国日本は細かい事は言わない。おおらかに全てを受け入れる、キリストさえ日本の仏像的キリストとして隠れキリスタンが信仰として拝んでいた。この優しい心は、中国の突然の反日暴動にも、大戦で召集された戦没者のいる家庭の御年よりが、毎年靖国に行っているのに、首相の参拝はいかがなものかと、紙面に投稿していた。他を思いやる心、侵略のお詫びの心は国家主席のチベット人虐殺、文革の殺戮の多くの犠牲にも関らず、教科書には、自国の都合にて掲載しないのが、日本に対しては(正当化はしていないが)被害者意識を煽り、共産党内の権力闘争で扇動した、暴徒を愛国的行動には制裁はないと言うことであった。他国の批判と時期オリンピック・万博に影響を心配したこともあり、制止したら止まった。党では抑止出来ないといっていたのに。周囲の国々に侵略的、挑発行為をしてきた経緯は今も変わらない。世界の4,5番目の水爆保有国で、世界の人口の多くを占め、資源原油を使用し始めたら、地球が枯渇してしまうほどに多くの国民がいる国である。副首相の帰国も全て、その行為に配慮した論調が、紙面に投稿されている国日本。

反政府分子の即死刑と違い、私達の刑に対する感覚は、温情が感じられる。正義と審判の国と異なり、慈悲の心を伝統的に持つ国は新聞紙面でも優しい。


【日本人の心をうつす主な仏像たち】
●仏教におけるその、信仰の対象は一番多く読まれた経典である、観音教の観世音菩薩である。如来は薬師如来がまず挙げられます。
薬師寺観世音菩薩

日本最古といえば、奈良法輪寺の7世紀飛鳥時代とされる薬師如来座像(結跏趺坐)与願・施無畏の印である。その像が立ち始めるのが奈良時代の新薬師寺香薬師如来像、唐招提寺金堂像である。座った観念的仏でなく、歩き始めて人々に語りかけようとする人間的でより身近に感じる仏像が出てくる。
薬師如来  左・月光菩薩立像 右・日光菩薩立像法華堂

奈良時代の薬師如来には両脇に日光、月光菩薩が配されている。本来は、薬王、薬上菩薩が適当と考えられるが。日本ではこの両菩薩の信仰は流布しなかった。敦煌壁画にはこの菩薩を認められる。また薬師の周りには十二神将像が新薬師寺金堂にはある。天平二十年頃の制作で、武器を持ち、激しい憤怒の形相をしている。非常に写実的な像である。

延暦寺伝教大師最澄は根本中堂の本尊に薬師如来を安置した。平安時代は多くの変化を持つ薬師が出来、薬壷を持つ像も出来た。お顔は平安時代初期は森厳な表情で量感があり、鋭く切り込んだ刀法で、製作に規定が無く、作者の芸術観に、注文主の思想に委ねられていた。

白鳳時代の童顔、次第に成長し阿修羅に様に、青少年顔になり、大人の威厳を示す顔になっていった経緯からも、仏教の理解とともに進んでいった。日本的理解の仏教は密教や山岳修験道や神道と関係を持ちながら発展していった。薬師信仰は天台密教の信仰とともに全国に広がっていった。国宝、重文に指定されているのは阿弥陀如来に次いで多い。真言密教は高野山伽藍の講堂は阿しゅく如来である。

・毎月八日は薬師如来の縁日として、朝観音夕薬師といって、薬師如来の祭りは宵に行われ、寺の門前には市が立ち賑わった。労働を終え、健康を祈り、悪病退散、無事を祈り一日を終わる風習である。この当時の釈迦像と薬師像には差がない。釈迦の教えは難しいが薬師の役割は現世利益、病気を治すということに当時の人々は感激したのであろう。薬師浄土は東方にあり、その東方には他の仏様が座っておられ薬師には入る余地がない。日本の人気が飛びぬけている。日本は人格、実存、絶対矛盾の自己同一の思想が優先され、功利、実用、プラグマチズムは浅はかな人格、恥を示すと考えられていた。しかし、日本人の魂の根底には合理的実利主義があり、それが薬師崇拝に結びついた。

・比叡山延暦寺は高野山と並び、日本の仏教の中心地であった、天台「ちぎ」の開いた天台宗を最澄は採用した。天台山の本尊は文殊であるが、最澄は薬師を本尊に置いた。中国の天台と異なり、日本は天台、密教、禅法、円戒の四つの融合した法門であった。神道の明るさ、清さ、真直ぐな心が日本天台の中に入り込んでいった。この清き心の崇拝を、日本人の心に流れる特性として大切である。そして奈良時代以降、信仰を集めた薬師は日本文化そのものとして尊敬され続けた。

●平安中期、阿弥陀信仰が盛んになる。現世の絶望、死に対する不安が人の心を襲う。
阿弥陀如来

来世の幸福を願う心を満たそうとすると同時に現世利益を願う心も変わらない。浄瑠璃寺では西に九体の阿弥陀があり、東に薬師が安置されている。この阿弥陀信仰が五十年で現世利益が勝ってくる。法然、親鸞は阿弥陀一仏信仰で、浄土教の親鸞は絶対他力の信仰で得た人は、この世が既に歓喜の土地で弥勒と同じ境地にいると説いた。他力の力で、この世で生き抜く喜びをえる。南無阿弥陀仏は来世への切符である。それは現世も補償し、この信仰は盛んになっていく。親鸞後、日蓮は我々の生命は、善行を積めば、良い生命に生まれ変わり、悪行を積めば、悪い生命に生まれるという往復切符を発行した。つまり、法華経の南無妙法蓮華経を唱えれば、現世も来世も幸福を得られる。

阿弥陀如来は西の方、十万億土を越えた極楽浄土を開いている。一如来は必ず一浄土を開いている。しかし、極楽浄土といえば阿弥陀となる。浄土教。観無量寿経は極楽浄土の絵、像などに知識が詰まっている。奈良法隆寺橘夫人念持仏という阿弥陀如来は白鳳時代の傑作です。極楽浄土を、法隆寺金堂の焼失した名画にも色彩鮮やかに描かれていた。やがて平安時代、「末世相応の教」は末世思想:釈迦入滅後500年は釈迦の教えも聞いた人もいる事で正確に教えが伝わり、修行も悟りも達成できる、正法時代である。次の千年間は像法時代といい、教えと修行は正しく残るが証、即ち悟りが得られない。さらに千五百年過ぎると末法時代に入り、万年続く。教えだけがあって、修行も、悟りもない最悪の時代になる。この時代は自力で解脱が不可能で、平安時代がその頃であった。最澄は「末法燈明記」を表す。藤原氏が台頭してくると、末法時代に入った事はゆがめず、阿弥陀仏信仰が盛んになる。来迎図、極楽浄土図などが盛んに描かれ、像も作られた。阿弥陀如来は他の如来と変わらないが九つの印に特徴があるので、これを知っておれば阿弥陀とわかる。宇治平等院の円満優雅な堂々とした阿弥陀は藤原時代最盛期の傑作です。浄瑠璃寺、宝菩提院、三千院などにすばらしい仏像がある。功徳を積もうとするとき、仏像の大きさを、等身大から丈六像と法量を大きくすると功徳があると思い、大きくなり、百体、千体と数も増した。九体仏堂、百体仏堂、千体仏堂が作られた。
阿弥陀如来坐像 鳳凰堂

天台宗の常行三昧を修する常行堂が阿弥陀堂になった場合と、極楽浄土の宝楼閣を現実に実現しようとした建築とがある。法界寺阿弥陀堂、大分富貴寺、福島白水堂などが前者、平等院鳳凰堂、が後者である。観音、勢至菩薩をたずさえている場合がある。来迎図には多くの菩薩を連れて来る図が描かれている。滋賀西教寺「迅雲来迎図」は有名である。

京都金戒光明寺、禅林寺。山の彼方から阿弥陀如来、観音、勢至菩薩を連れ、山の間から三尊が半身を現し上品中生印を結ぶ手から五色の糸が出ていて、今でもこの糸を念仏行者が引きながら、法悦に浸り息を引き取る。この彼岸への憧れは大衆化して、日本の隅々まで広がった。そして、浄土曼荼羅が多く描かれた。浄土三曼荼羅は当麻曼荼羅、智光曼荼羅、清海曼荼羅で、当麻曼荼羅が最も一般的です。奈良当麻寺にある。

・「二河白道図」は河に細い道が一本描かれ、念仏行者がこの道を歩いている。白い道の一方から大きな波が来て、道を洗い、足をさらわれそうになる。一方の河からは火が盛んに燃えやけどしそうで前に進めない。波は貪欲を表し、信心の白い道を歩けない。火は怒り、嫉妬で歩けない。上には娑婆があり、白い道の信者を呼び戻そうとする。悪魔、悪獣が進行を妨げるも、釈迦如来は迷わず前に進めという。極楽浄土からは、阿弥陀如来が来たれと迎える。釈迦と阿弥陀との「遣仰の二尊」は京都嵯峨二尊院の絵がある。イワンとアリョーシカと父親ヒョードルの会話(カラマゾフの兄弟)神はあるか、不死はあるか、神も不死もないと答えたイワンを本当らしいと考えた父は、人間がどれだけ信仰を懐いたか、どれだけ精力を空想に費やしたか、そうして、何千年、この問いが繰り返されたか、だれが人間を愚弄するのか。きっと悪魔でしょう。「もし神を考え出さなかったら、文明はないでしょう」神、彼岸は人間はそれによって人生に耐え、希望を持ち、文明を創造した人間の偉大な創造物だった。それが、今の世において、空しく、無に見えようとも、理想としてのその存在は偉大な希望と偉大な夢を人類に持たせ、それによって、人生の空虚さと、無意味さに耐えるのである。欧米のキリスト教の神の国と違い、阿弥陀浄土は日本人の心の底に流れる、現世の苦しみを絢爛たる浄土の世界に至る希望のための忍従、忍耐を形勢し人生を全うし来迎を待つ世界観を作り上げた。

慈悲の仏である釈迦を素直に受け入れる。現世利益の薬師にも抵抗無く素直に受け入れる。全仏、宇宙の支配をつかさどる仏の大日も、そう呈こなく日本人は受け入れた。しかし、西方の遠くに死んでから逝くべき浄土の国には懐疑的になりやすい、それが阿弥陀である。我々は無神論者イワンの方が、宗教家アリョーシカより同感しる。我々は極道者のヒョードル同様、神の存在をいぶかしむ。しかし、イワンの神が無かったら文明が無かったによって、我々は再び阿弥陀の存在に気付かされる。平安は阿弥陀仏なくしては、ほとんどの作品が無くなる。この極楽浄土を知るには「観無量寿経」を紐解かなければならない。これはすばらしいドラマである。

●阿闍世・マガタ国皇太子、父頻婆娑羅王を幽閉し、母韋提希が幽閉の王に救いの手を差し伸べる。知った阿闍世は母を殺そうとする。大臣月光、医師耆婆は、命をかけ王妃を救う。韋提希は釈迦に「これ以上、この濁った世界に住みたくない。どうか、憂いのない国に生かしてください」と懺悔する。釈迦は十万の光輝く国土を示す、しかし、彼女の願いは「極楽世界、阿弥陀仏のところであった」、仏の力で彼女は救われ、阿弥陀を信じた。後世の衆生は釈迦に極楽浄土に行く方法の教えを請う。定善:心をじっと凝らして阿弥陀仏と、その世界を観想して浄土に往生する。散善:心の乱れているままに、悪を廃し、善を修めて阿弥陀浄土に往生する、である。

西に向かい、夕日を見続ける。いつも夕日が目に浮かび、心はいつも西に向かっている。現世に対する絶望は来世の希望に変わる。人間にとり、不死の願いの根深さを示している。キリストは裁きのために地上に降りてくる。阿弥陀は摂取不捨の慈悲の心で、誰一人洩れなく愛と救いを授ける姿である。魂の無限の甘えの感情、悲しみ、憧れ、浄土教の三大感情がある。平安鎌倉と変遷しながら、最後は、南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる、日本人の魂の原型を作り出した。キリスト教的懺悔、内省的な感化で親鸞を見ていると、近代日本の私小説の如くである。平安浄土の雄大で華麗な想像力で、美しい芸術を見ると、日本における今日の自殺者の増加は、功利主義に漬かった価値観は、現実の絶望を癒すものが無く、死を忘れようとする、考へないとするのが精一杯の知恵で、救済への美的想像力は貧弱となり、いたずらに日々の生活をこなしていく毎日となり、生への豊かな幅を失ってきている。この現世の絶望、死への不安を癒し、美や善へのあく無き憧憬を惹き起こさせる、深い魂の問い掛けに答えてくれるものは何であろうかと問い掛ける時、浄土不信の心を導く、阿弥陀仏の存在は大きい。

●観音菩薩の信仰は公家の関西を中心として、それに匹敵する信仰を集めたのは不動明王の武家の関東であった。平安時代には近畿一円の観音霊場三十三ヶ所を巡る風習が始まっていた。無量寿教の中に、阿弥陀如来の脇侍として観音が取り上げられた。観音の神力自在の能力で現世の人間を救済し、安穏に導くため、最適当であった。四百年代観無量寿教に王冠、阿弥陀仏の化仏を裁く姿を説くが記される。日本、中国、インドでも特にチベットでは多くの観音像があり、王冠を頂く。法華経の中の観音経は観音菩薩が三十三身に姿を変え、観音信仰を救済することを説いている。現世利益信仰はヒンズー教のシヴァ神、ビシュヌ神の影響がある。陀羅尼雑集十二巻に多く取り上げられ、西方阿弥陀如来の脇侍と異なる発展を見る。これが様々な観音を生み出す結果となる。

仏教において女神的な性格を持った仏は、ヒンズーから移入されたものである。吉祥天、弁財天がそうである。本来、如来、菩薩は男性・女性を超越した姿に作られる。観音が女性的なのはヒンズーの影響を受けたと思われる。あらゆる災難に際して人間を守護する誓願を持っている。具体的な災難の種類にも応じて、様々に発展していく。中国では三十三観音、チベットでは百八観音がある。天武天皇時代に変化観音の十一面観音が現れる。 法隆寺金堂十二号壁画、奈良時代後期の聖林寺、観音寺、美江寺の像がある。次いで千手観音が有名である。天平の唐から帰った、玄昉により広まる。鑑真がこの像をたずさえてきている。天平時代の千手は十八、四十手を大きく作り、残りの九百数十は光背のように細い手で扇を広げたように本当の千の手を作った。平安になると四十手が多く千手は無くなる。この像は観音の王と呼ばれる。蓮華王。京都蓮華王院三十三間堂の一千一体の千手観音と二十八部衆が是を最もよく示している。是に風神雷神を加えるものもある。

三十三間堂千手観音坐像

馬頭観音は馬の安全、旅の安全を祈るため、中部山岳地帯の田舎道の分かれ道の傍によく立っている。
本堂に三面三目八臂の馬頭観音坐像。本尊が秘仏のため、そっくりのお前立ちというが、眼をむき、まゆを逆立て、怒髪天をつく憤怒(ふんぬ)の形相を前にすると、身がひきしまる思いがする。西国三十三所観音霊場の中でも唯一の馬頭観音だ。
   
美の対象として観音を賛美した、和辻哲郎「古寺巡礼」以来、フェノロサや多くの人々がお堂の片隅の埃をかぶったお寺の像に美を見出した。

仏以前の修行中の観音、身を飾るものも必要とした俗人の姿をしているのに、どうして仏より尊敬を受けるのか。大乗仏教の観音は、本当は仏なのだが、衆生救済のため、わざと仏の資格を捨て、一段下がって菩薩の位で現世に下ってくる意味がある。フェノロサは菩薩を、神でありながら人間への愛、慈悲のため、汗と埃にまみれ、人間の形をとって現れたイエス・キリストになぞらえている。

胎蔵界曼荼羅の観音たちを蓮華部院という。蓮華は泥の中にありながら清浄であり、仏の慈悲心で清浄な心の華を開く事ができる衆生の救済の象徴である。
和辻氏が絶賛した一面二臂の聖観音でなく千手観音が多いのは(西国三十三ヶ所で多い)このグロテスクな観音に、救済の心を持ち信仰したと思われる。仏像信仰は美的な基準で信仰するのではなく、深い精神的なわけで信仰し持て囃されるのである。

十二面観音は大きな面がその像の本質であり、小さな面はその像の、時間の相における表れではないか。どれもが本当である。多重人格はどれもが本当の人格で、時間的に現れては消える。ギリシャ的一面の人間像ではなく、インド的多面的疑惑でもなく、同じ人間に多数の面があるのである。十一面の正面の三相は慈悲相、左三面が憤怒相、右三面白牙を出す相、背後一面が暴悪相、上に如来面である。

千手観音は千手千眼であり、一つの手に一つの眼がある。救済の叫びを聞き、苦難の本質を見、対策を見ることを視る意味である。千手は千の眼で、人間の危急の相を見て、直ちに手を打つのである。日本で一番多く読まれる経は観音教であろう。苦しむ人々に三十三の化身を持って時それぞれに怪人二十面相の如く姿を変えて救済する。融通無碍の救済法である。

仏像は礼拝の対象としての像がある。前にぬかずき、像の表す仏の力により救いを求める。絶対帰依の感情の対象としての仏像。

像の背後に隠れた仏の心、己の心とする。像を凝視すると、像が己に乗り移り、己がその仏の心そのものとなる。密教の仏像がそうである。禅画の達磨も達磨の心に己がなりきることを目指す。観音を信じる事は、万が一の時に安心、希望、畏敬、感謝の気持ちを最後まで持ち続ける事ができる。そうして、生きと生けるものが観音の化身かも知れないという、期待を持つ。そのため全ての生きるものに、深い畏敬の念を持つことになる。

ギロチンで干拓地の生き物を殺してしまう、人間の勝手なご都合では、観音力信仰が失われた、戦後の教育にも、と考えてしまう。
観音教を唱え、自ら、自然に観音菩薩の行を行おうとする。慈悲、無限の優しさ、怒り、欲望、憎しみは去っていく。塵にまみれ、埃にまみれ愛の光に包まれ愛故に他人のために献身的な努力をし、犠牲、献身で喜びとする庶民の美しい行為のもとになっている。
今日、私立の教育は宗教が主になっている学校があるが、公立学校には宗教教育はいけないことになっている。梅原猛氏の仏教、道徳の講義出版には、過去の民衆が持っていた根底にこの様な思想があり、寺子屋、藩校でも儒教、朱子学であろうとも、根底に観音力の思想が根付き、一般化していて、社会の軌範となっていたのではないかと思う。近代科学文明に埋没して、過去の異物化した中に、環境、動物愛護、人をいつくしむ心、疑いの心、騙しの心、拝金のみの世界に他人の心に、刺々しい刃を向ける不信の時代を救うかも知れない。

●仏教修行には誘惑、困難など乗り越える力を得るために、憤怒を現す姿の、仏が不動明王である。
  高野山奥の院

仏、菩薩のように仏教が求め出した仏と違い、明王部の中の1尊である。明王は明:陀羅尼を唱え祈った場合、最もその効果が大きいほとけを意味する。陀羅尼の王である。不動明王はその中心として信仰された。ヒンズーの最高神シヴァ神の別名とされている。梵名、アチャラ。右手に剣、左手に索を持ち半跏趺坐する。密教においては大日如来の使いとされている。インドだは見られないこの不動は、日本で色々と発展してきた。

京都東寺の不動明王は平安前期の木像で空海要請によるため、あらゆる弘法大師ゆかりの不動のもとの形である。特に口元の上歯で下歯を噛む形、右剣、左索、頭髪くしけずり、両眼大きく開く像は迫力満点である。
他は、インド奴婢の髪型、姿に似せている。

東寺講堂像の五大明王の代表として不動明王信仰が始まる。高野山諸寺院の護摩堂には五大明王が多い。単独で取り上げたのは智証大師円珍が画いた三井寺の黄不動尊である。想像力を駆使して画いた偉大さを誇張した絵である。

天台系の不動像は立っている。顔は童顔でなく、壮年、青年である。真言系でも盛んになり、物の怪におびえる貴族に急激に広まった。この頃、不動の姿は頭に花飾りを結び、頭髪はカール、両眼は不揃いで、口は食いしばり、下顎が強調、牙は一本が上、一本は下に向いている。大日教疏に載っている姿である。不動明王の絵を画いた、絵仏師良秀は地獄変でおなじみである。もう一人、飛鳥寺玄朝である。その他数々の不動が画かれた。密教では菩薩と明王は同格に認められていた。後、明王に、金剛と名称が付けられたことは、帝釈天の持つ金剛杵の威力を神格化した名である。孔雀明王は美しい孔雀に乗り、四臂の菩薩の姿は毒蜘蛛、毒虫などの外敵を防ぐ本尊で、早くから信仰されていた。役小角も信仰していた。平安時代、祈雨法、除災除難の本尊とされた。
仁和寺孔雀明王

愛染明王は比較的名が知られている。鈷を戴く獅子冠、三目六臂の憤怒相を現す。弓、矢、五鈷鈴、五鈷杵、第三手の左に玉、右手に蓮華を持つ。この姿が太陽・日輪の円形の中に現される。全て煩悩の激しさを象徴する真紅の色に現される。空海によって作られたものである。人間の愛欲、煩悩が菩提心、即仏の心に通じるように教えるものである。キュウピットのように弓と矢を持つ。知性も本能も円満に発達した人間の正しい生き方に徹するのが即身仏への道である。愛染明王はこの意味を象徴している。平安以降密教で盛んであったが、現在、それほど盛んではない。
妙高寺愛染明王

不動明王から受ける感じは、圧倒的な力の感じ、怒り狂う生の力の表現です。カッと見開いた眼、唇を噛み締めた口、むき出した歯、どう見ても恐ろしい像である。右手の剣で切り、左手の索で人を縛る。剣には蛇がまきつき、恐怖と敵意を感じる。周りの火は、激しい怒りの象徴の様である。宇治拾遺集の良秀の炎の如くである。

不動の敵は己の煩悩に向けられたもので、剣は己の欲望を切る、索は己の心であり、炎は煩悩を焼き尽くす火である。即ち、己に勝つための像である。今までの穏やかで慈悲に富んだ仏達と趣きを異にする、激しい像である。

・密教の実践的精神は祈祷にある。不動の祈祷には、息災、増益、降伏などの祈祷がある。息災は病気平癒、一切の災難、不幸を免れる祈祷で、増益は福徳、繁栄を祈る祈祷、降伏は「本来は自己の煩悩の戒心を調伏するのであるが、世間的には、怨敵、悪人、魔魅などを伏する法である」。この祈祷には護摩を焚く。外護摩は物質的増益、息災、調伏などを目的に世間的な幸福を祈願する。内護摩は精神世界の一切の不浄煩悩を焼く尽くす護摩である。インドの被支配階級の姿をした大日の使いをしていた童子が脚光を浴びたのは、円珍、円仁が、天台宗を密教化して、不動尊崇拝を作り出した。円珍が渡唐時に難破した時、黄不動が表れ救われた。日本においてのみ、不動が単独崇拝になった。役小角に始まる修経道はこの不動を崇拝した。勧進帳の弁慶は不動明王の姿を形取る。神仏一体、スサノオノ命以来、荒ぶる神信仰が盛んである。これは不動信仰に繋がるのであろうか。柴燈護摩といわれる修験道行事は、サイの神のゴマで、境の地で火を焚いて悪魔が入ってくるのを拒むサイト焚き行事が、火のイメージの感動を日本にもたらしたのであろう。

・武士道と国学、水戸学、儒教、禅との結びつきは述べられている。理想的自己に達する仏教の不動は理想像として、己に勝つ武士にぴったりであった。不動信仰の根拠地は成田山新勝寺で、将門の乱、高尾の神護寺弘法作と言われる不動明王を下総に下して、調伏語魔法をして現在も借り受けている。年一円をはらっている。最近、百円になったとか聞いたがどうでしょうか。関東武士、源頼朝以来ではないか。不動、愛染明王は煩悩の火に焦がされる、愛欲の火に焦がされる人間の二面性の調和をとり、均衡の上に自己を理性へと導く、現在に通じる心を与えてくれる。

● 地蔵菩薩は一番民衆に親しまれた仏である。全国至る所にあり、生活に溶け込み天平時代から、今日に至るまで信仰を得ている。


京都太秦広隆寺の平安初期の木彫は頭上に宝冠を載せ、髪を丸め比丘形である。袈裟と衣をつけ、僧侶と同じすがたである。左手に宝珠、右手に与願印を示す。この像を立たせたのもあり、埋木地蔵尊像と呼ぶ。この像は日夜木が光るので、掘り起こすとこの地蔵尊が出てきたといういわれがある。右手を下に、左手を与願印をしていて、多くの地蔵尊はこのどちらかの姿をしている。地は万物を生じさせる、種子を蒔けば成長して、葉、花、実を作り出す。このように、全ての衆生を救済する偉大な効力を発揮する。六道の苦から脱却できる多くの力、現世利益、過去死した人の罪を救済、解脱へと導く、今は亡き愛児の未来を救う、地獄に落ちた人を救う、三途の河で迷う幼児を導くために多くの人々から信仰を集めた。

左手に宝珠、右手に与願印、錫杖を持つ像が藤原氏以降出てくる。六波羅蜜時の像は運慶作であるが堂々と落ち着いた像である。

首に我が愛児が日常使用した「よだれかけ」をかけて、亡き児の冥福を祈る母親がいかに多いか現世と、亡き人を結びつける仏として、他の菩薩より強いものがある。よく墓の入り口や交通事故や山の事故で死んだ場所に立っている。六地蔵尊は一、地獄、二、餓鬼、三、畜生、四、修羅、五、人道、六、天道。道行く人や墓参者が手をむけて行く。亡者が六道輪廻の苦界に苦しんでいるのを、現存者が救済すようと企てる。

奈良十輪院の寺には中央に地像菩薩、右に弥勒菩薩、左に釈迦如来を安置している。釈迦如来は過去の救済、地蔵菩薩は現世の救い、弥勒菩薩は未来に出現して大衆を救う。釈迦入滅後、弥勒菩薩が竜華樹の下で成仏するまで、五十六億七千万年かかる。その間、無仏である。地蔵菩薩はその間に出現して、六道の衆生を救う。寂光院は建礼門院ゆかりの寺で本尊は地蔵菩薩である。千体地蔵が安置されている。高貴な人とはいえ女性であることにより罪深いと仏教で説かれて、薄幸な運命に見舞われ、地蔵菩薩にすがり、来世は良き世界に生まれようと求めた。鬘掛地蔵尊は六波羅蜜寺にあり、左手に頭髪を持っている。頭の髪を切ってこの菩薩に供えると、如何なる願望でも成就させて貰える信仰からこの像に髪を供える今昔物語、謡曲「熊野」。現在も髪を供えてある。東山泉涌寺の来迎院に「将軍地蔵像」がある。空寂の甲、隋求陀羅尼の鎧、金剛智の大刀、発心の幟をかざし、悪業煩悩の軍を切る剣を持つことから、大石良雄の念持仏であり、吉良屋敷に打ち入り成功を祈った。母方の親族が来迎院の住職であった。

京都矢田寺に矢田地蔵縁起絵巻がある。この中の物語に賽の河原に死んだ子が独り淋しく石を積んでいるのを救う場面がある。親達に涙を誘う物語である。

アーリア民族が持っていた神話の最古の女神で、ギリシャ神話の大地の母神とも関係があり、疾病を治し、怨敵を降伏する女神であった。いつの間にか男性になり、大乗仏教の中に取り入れられた。地蔵信仰が貴族より民衆、中央より地方に多く信仰された。平泉藤原三代の中尊寺金色堂には三代に遺体と、阿弥陀三尊と六地蔵、二天王像が安置されている。★東北に多く信仰された。七月十八日から七日間、恐山のいたこは、死者の霊が帰ってくる、その霊の代わりに、哀切きわまる声で会いに来た人達に語りかける。亡き人の声を聞き、心を開き、思い、苦しみ、悲しみ、全てを吐き出す。そうしてさめざめと泣く涙が満ち溢れ、心は癒される。夜になると酒が入り、見知らぬ同士、歌声、歓喜の如く馬鹿騒ぎが始まる。年に一度、死者と会い死者の前で、己の罪悪、絶望、不安全てを吐き出し泣くと、日常生活で生者の生活を不安から救う効果がある。夜は、この様な悲しみに煩わされないで、陽気にはしゃぐ、地蔵は、人間の関心を死から生に向け、悲しみから喜びに向ける役目をする。死者はお地蔵様にお任せし、俺たちは困窮欠乏した生活から、人生を楽しもうとする庶民の知恵であった。

*その他多くの像があるが、これ以上は誰も読まないでしょう。ここまでも誰も読まないと思いますが。長くなり申し訳ございませんでした。

●イエスは弟子に裏切られた。釈迦は十大弟子に見守られて、惜しまれて死んだ。内村鑑三は多くの弟子は、彼から離れていった。すなわち裏切りに近かった。離れていった弟子達は多くは賢く、成功したものも多くいた。小説で成功した人も多く、小説の神様も中にいた。斉藤宗次郎は愚直にも、最後まで使え、死の床まで世話をした人であった。安易に言うことは出来ないが、宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩のモデルと言われている。デクノボウという、詩の内容通りの人であった。最近刊行された「二荊自叙伝」には賢治との付き合いが書かれた部分である(全40冊の一部)。しかし、花巻時代には、多くの迫害を受けた。信念を持つことは、現在でも多くの敵、異端、反感、変人扱いを受ける。誰もが同じ、共有する手法、考え方が無難で、生きやすい生き方であるのはどの時代でも言えることです。生きることは、苦である、と釈迦は説いた。これは人間が存在する限り言える事である。ありとあらゆる生きていくうえの災難、苦しみは愚直に受けいれて、ただ只管に生きる、耐えて時をじっくり待つ忍耐、忍従の日々を穏やかに過ごす人生に味わいを見出す知恵を授けてくれた仏教精神は現世利益と異なる、即効性のない修行僧のごとく本道を歩む精神性は、もはや過去の異物化してしまった。苦しい、悲しい、痛い、辛い、切れてしまう堪え性のない日本になってしまった。

優しく、腫れ物に触るがごとく扱わないと、壊れやすいガラス細工のような心、傷つきやすく、悲嘆にくれ涙もろい心又は反対に、恨みを持ちやすい心に、今までには考えられなかった行動に出る人がいる。人間を信じたいが、人間嫌いになってしまう心、孤独は苦しいが、集団には何か居心地が悪いこの世にあって、何を信じたら良いのか、名誉栄達、栄耀栄華を極めた人達を、繁栄国達を横目で見ながら、揺れ動く自らを支えるものは何なのか、この答えの1つを指し示すテーマであったはずです。デクノボー、オヒトヨシはマイナスイメージである、敗者の如く扱われるが、ただ信じる、愚直に生きることが、利口に生きることよりもしかして価値があり、良いのかもしれないと気づかしてくれる。

・なに気ないことばが人を思わなく傷つける事がある。また言ったことの真意が上手く伝わらない事もある。釈迦がうたた寝した阿那律を戒めたところ、彼は眠りを断つ。釈迦が説得しても遺志を曲げず、釈迦の心ならずに失明してしまう。しかし、法の眼である「天眼」「心眼」を彼は得た。阿那律が針に糸を通して貰う時、釈迦が「私も、阿那律よ、幸福を求めているのだよ」と述べたこの二人に仏教の根本精神を見た思いがする。私は失敗の連続ですが。

・親が偉大だと子は苦労する。ラゴラもそうであったろうと思う。彼は頭があまり良くなかったと伝えられている。ラーフラは邪魔者という意味である。世襲制でない釈迦の教団で、非難されても、褒められる事は無かったと思われる。彼に甘えの構造があれば、十大弟子に名をつられなかったであろう。

・アーナンダは釈迦とともに過ごし「対機説法」を知った。人それぞれに対して、人に合った教えを説かれた釈迦は、時には全く反対のことを言われる。これを、誤解なく、真意を、人によって述べられる内容を理解した。

よく、ことば尻を捉えて、避難する人がいるが、発した時期、状況、その真意は何なのかを知ると、少しも矛盾していない事がある。物事をJRの時刻表の如く考えている人は、南米か中東に行くとい、1、2日の誤差は普通、欧米でも、列車は何時発車するかと思えばいつの間にか出ている。揚げ足取りの国会、行った、言わない、の答弁に国民は解放されるときは来るのであろうか。

・ 宗教、道徳などは時の政治に利用され、仏教は徳川時代には葬儀仏教になり、儒教といっても徳川儒教が国の宗教的な役割を担ってきました。その延長線に今があります。家の役割が、国家に引き継がれて行く様にしたのが、社会主義であり、日本の国家政策である。そのつけが学校教育や老人介護にしわ寄せが来ています。本来は家族・家単位で行っていたのですから。お役人は時の政策によって左右される庶民の悲哀を、事務的に追行していきます。お目こぼしは無です。ほとんどが急に変わった方針に戸惑い、今までの約束事が違法になります。ほとんどが泣き寝入りで済まされてしまいます。あたかも時の勢力者の都合で年貢を納める量が決まり、殿様に嘆願書で願い出ると、打ち首獄門の刑を受けた時代と何ら変わらないようなことも現在でも形を変えて起きている。何時の時代も庶民は時勢に翻弄され、耐え忍ぶ運命にある。方や政治、行政は庶民の汗と涙の上に天下国家を運営している。無駄ずかいと、国益の上がるように願うもみである。

・ 教会の日曜学校と同じ、仏教も日曜学校を開き、近くの寺院に話を聞く機会があればと思うのは、瀬戸内寂聴の法話に多くの人々が集まる原因は何か、仏教に、瀬戸内氏に求めるものの答えがあるのではないかと思う。もう一度、国としての根底の精神を形作る作業が必要とする時代が来たのではないか。これだけ糸色個々人の意見は、言論、思想、信条の自由というが、勝手気ままな各自の好き嫌いの次元(生い立ちと環境)での話に終始しているのが現状ではないかと、思う事がある。これは言いすぎでしょうか?私が育った環境は規律と寡黙がよしとされ、忍従が美徳とされた時代で、これは過去の遺物の化石でしょうか。此処にも中道的思考が、時と場合により必要ではないでしょうか。何もかもが権利、自我に執着した考えがよいというと、纏まりが付かない。我慢、自分を抑える発想でなく、慈悲と自利利他の心、欲望を排し、畏敬の念を持ち感謝と生きとし生けるものに哀れみの心を持つ四弘誓願が地球を救う。しいては自己に帰ってくる。

私のような凡人で、煩悩だらけの人間には到底出来そうにないです、生きている間には。情けない。

参考書
梅原猛の授業 仏教 朝日新聞社
釈迦と十人の弟子たち 中村晋也 河出書房新社
釈迦と十大弟子 西村公朝 新潮社
釈迦と十大弟子 ひろちさや 学陽書房
定本 仏像 心とかたち     日本放送出版協会
釈迦とイエス  ひろちさや 祥伝社
仏教と儒教―どう違うか50のQ&A- ひろちさや 新潮選書
心理療法としての仏教 安藤治  法藏館
原始仏典をよむ NHKこころの時代 奈良康明 NHK出版


《付録》
ガサガサ耳、ネバネバ耳を脱しても次なる手練が!待っている!!
ガサガサ、ネバネバの耳垢というか分泌物が減ってくると、かなり外耳は綺麗な感じに見えます。しかし、慢性中耳炎の手術で外耳道の後ろを削った後、耳鏡から削った外耳の後ろが見える(蜂巣の様な所)処理をする場合があります。この場合、時々耳垢のようなかさぶたが付きます。はがすと、時にジュクジュクしていたり、膿があったりする箇所がある場合、その箇所の皮膚の湿疹状態が疑われます。
ガサガサやネバネバの箇所も少し湿疹があったのが落ち着いたということです。しかし、此処で安心すると、また元のガサガサ、ネバネバ状態に舞い戻ります。むしろ、我慢のしどころはこのときかもしれません。この時期を、じっくり自然な耳垢が付くまで刺激をしない事が大切ですが、時に悪魔が無性に痒みを誘発させます。つい掻くと気持ちが良い。是に味をしめてまた掻くと身震いするほど気持ちが良い。是は悪魔の囁きです。すぐに、痛痒くなってしまい、今までの苦労と時間が一瞬にして無駄に帰すときです。この繰り返しを経験すると、次回は慎重になります。禁煙に似ています。
数年間良い状態が続き、完治したと思っても、一度落ち込んだ外耳は、最初よりかなり早く悪化します。長く禁煙していた人が、疲れて吸った一服が命取りで、肺胞の末端まで吸い込み、フーットするとたまらなくなる。禁酒していた人が、飲むと五臓六腑に染渡る、こんな良いものを止めるなんてと思い出すと、もう誓いは何処かに飛んでいってしまう。こんな経験は誰しもあると思います。かくして、完治の道はまだまだ続くのであった。

医師:黒石敏弘