杉並区の交通<鉄道・道路>の歴史







◆鉄道:現在のJR中央線について◆

明治22年新宿−立川間を甲武電鉄(株)の汽車が運転を開始、 立川−八王子間に蒸気機関車も開通しました。 新橋−横浜間に蒸気機関車が走ってから17年後のことです。

最初は新宿から甲州街道沿いに施設する計画でしたが、 沿道の住民の「鉄道で宿場客が減る、蒸気の煙害で桑の葉がやられる、 火の粉が藁屋根に燃え移る」などという理由で反対にあいました。
そこでやむおえず、住民の少ない武蔵野の原野を一直線に走る 現在のJR中央線のコースが選ばれました。
結果的には建設コストが一番安くて済みましたが利用客はあまりありませんでした。
ただ、最初の甲州街道のコースを中央線が走っていたら、 現在の青梅街道沿いの発展はまったく違ったものになったと思います。

新宿-中野−境-国分寺-立川が開通、その後、立川-日野-八王子が開通しました。
杉並から鉄道を利用するには中野駅まで行かなければなりませんでした。
明治24年(1891)、甲武鉄道と青梅街道が交差するところに8番目の駅として <荻窪駅>が誕生しました。杉並区に最初にできた鉄道の駅でした。
明治28年(1895)新宿−信濃町−四谷−牛込-飯田町間が完成し、
明治37年(1904)電車が汽車と並走し、38年御茶ノ水まで延長されました。
明治39年(1906)甲武鉄道は国に買収されて中央線の一部となりました。
大正3年(1914)東京駅が完成し、8年東京-荻窪間が電化されました。
大正11年(1922)高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪が開設され電化区間も国分寺まですすみました
中野駅と荻窪駅の間には一駅作る予定だったのですが 地元の強い要望から高円寺駅と阿佐ヶ谷駅のふた駅ができました。 そのため間隔が他の駅と比べると短くなってしまっています。

中央線のおかげで荻窪を中心に人口が増え、 杉並最初の<お風呂屋さん>『寿湯』がこの年に荻窪に誕生しました。 残念ながら現在は廃業となってしまい高層ビルになっています。




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◆道路:青梅街道と甲州街道について◆


---青梅街道---


◇江戸のころ◇
昭和の初めまで青梅街道は北側を多摩川から引いた水田用水が流れる狭い砂利道でした。
慶長10年(1606)に、江戸城修復に必要な石灰を青梅近在の <成木><小木曽>村から搬出する目的で、大久保長安が中心になって開かれた街道です。
開通当初は石灰の産出の多い<成木村>の名前から<<成木街道>>と呼ばれていました。 江戸城修復後も江戸の町の発展とともに防火のため漆喰壁に石灰を使うようになり、 往来が途絶える事は無く、街道は次第に整備されました。

また、江戸の町は木造家屋が密集していて水利が悪かったので、 火事が多く出火すると大火事になることから、 そのたびに江戸に比較的近い青梅の杉が切り出されて運ばれました。 そのためいつのまにか<<青梅街道>>と呼ばれるようになりました。

青梅街道は<新宿の追分>から、田無で秩父にに抜ける<<所沢街道>>に分岐して<村山>へ、 一方青梅から多摩川づたいに大菩薩峠を越えて甲州の<塩山>に通じています。 そのため、江戸と甲州をつなぐ<<甲州街道>>を表街道、 <<青梅街道>>を裏街道として利用されました。

当時から農村であった杉並・荻窪は青梅街道ができてから 農作物を新宿方面の屋敷町に売りに行くのに大変便利になりました。


◇明治のころ--馬車道--◇

明治に入ってから郵便配達が目的の一頭立ての箱馬車(郵便逓送車)が 貨物や人も運搬するようになりました。 日本橋を起点に新宿・中野・荻窪・田無、田無から 所沢街道に入り埼玉(入間)まで走っていました。
杉並には正規の停留所がなく<八丁>の居酒屋『中屋』で乗降していました。

一方、甲州街道の乗り合い馬車は青梅街道より区間が短く、 新宿と調布を往復していました。 こちらは街道筋に宿があり、利用客も多かったそうです。
青梅街道に甲武鉄道が開通すると利用客は激減し明治25年に廃業となりました。


◇大正のころ--路面電車--◇

青梅街道をはしる路面電車は、大正10年(1921)淀橋(成子坂)と荻窪間の6キロで 西武軌道会社の西武線として開通しました。 その後、新宿まで開通し<新宿線>と呼ばれるようになりました。
電車が走っても青梅街道はまだまだ荷馬車などが行き交う街道で、 終点の荻窪停車場と杉並区役所のあたりには馬の水のみ場があって、 その当時狭かった青梅街道は馬が水を飲み始めると電車は止まって待っていました。
昭和17年(1942)路面電車<新宿線>は、<東京市(当時はまだ市)>に買い取られて <市電杉並線>として、戦後まで大活躍しました。


◇昭和◇

戦後、トロリーバスとして一時走っていましたが、 自動車の復旧と昭和37年に地下鉄丸の内線が荻窪まで延長されたことで <都電杉並線>は昭和38年に都電廃止線第一号として52年間の歴史を閉じました。
現在は自動車とさまざまな系統のバス路線が縦横に走り、 甲州街道、環状7号線・8号線、五日市街道、井の頭通りなどとともに 杉並の重要な交通網となっています。

出典:『荻窪物語』




---甲州街道---


甲州街道の宿駅
内藤新宿、下高井戸、上高井戸、国領、下布田、上布田、下石原、上石原、 府中、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、吉野、関野、上野原、 鶴川、野田尻、犬目、下鳥沢、上鳥沢、猿橋、駒橋、大月、下花咲、上花咲、 下初狩、中初狩、白野、阿弥陀海道、黒野田、駒飼、鶴瀬、勝沼、栗原、石和、 甲府、韮崎、台ヶ原、教来石、蔦木、金沢、上諏訪、下諏訪

甲州道中<<甲州街道>>は、徳川家康が慶長・元和年間に整備を行った 五街道(ほかに東海道・中仙道・奥州道中・日光道中)のひとつで、 江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。
この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、 日本橋を出発して四里八丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
そこで浅草阿部川町 (現元浅草四丁目)に住む名主喜平衛 (のちの高松喜六)は、 元禄10年(1697)に同志4名ととも、太宗寺の南東に宿場を開設するよう、幕府に願いを出しました。 この願いは翌元禄11年(1698) 6月に許可となり、 譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部や 旗本朝倉氏の屋敷地などを返上させてこれにあてました。



◆関連サイトLINK◆


★京王線電鉄の紹介・沿線ガイド
★西武鉄道情報・沿線ガイド
★対決 中央特快VS京王特急




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---風のあとがき---

ひゃー、本当にこういうのは大の苦手で・・・
読んでくださってありがとうございます!
かわいいボーダーと汽車でごまかしておこう・・・
こういうコーナーはあまりしないようにしよう・・・
ふぁぁ・・・疲労こんぱい
甲州街道、ちょっと手抜き・・・(笑)

杉並にはこの他にも、地下鉄丸の内線・東西線・私鉄西武新宿線・京王井の頭線、
主な道路は環状七号線・環状八号線・五日市街道・井の頭通り・新青梅街道・
早稲田通り・大久保通り・人見街道・方南通りなどがあります
あ・・・中央高速も通っていました!永福と高井戸のインターがあります
あはは・・・手の抜きすぎ・・・(爆笑)

---1999.1.16---





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