First update:2000.7



風の暮す街…杉並百点 Vol.1


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+++ 35万画素 OLYMPUS CAMEDIA デジタルカメラ ノーマルモード 撮影:kaze+++

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20.日大二校銀杏並木
天沼1-45-33


グラウンドを横に見ながら校舎から南門に真直ぐに続く銀杏並木がステキです。閑静な住宅街にありながら広いグラウンドや充実した施設はすばらしいです。2000年に新校舎が完成し質実共にさらに充実した学校になりました。荻窪駅までの通学路は徒歩で約15分くらいですが、多くの中高校生が新しいデザインの制服で楽しそうにお喋りしながら歩いているのに出会います。杉並出身の作家<ねじめ正一>さんはこちらの卒業生でいらっしゃいます。






19.慈雲山荻寺光明院
上荻2-1-3


荻窪、とうい地名は昔このあたり一帯、湿性植物の<荻(おぎ)>が自生していたためといわれています。荻窪のあたりは善福寺池(杉並区)、井の頭池(武蔵野市)、三宝寺(池練馬区)というような湧水地やそこから流れ出る川によって、低湿地帯には多くの<葦(あし)・荻>などが繁殖していました。 また伝説によると、観音様を背負った旅の僧がこの地で休む時に、あたりの荻を刈り取って荻の<お堂>をつくり観音像を安置しました。そのお堂を「荻堂」と呼び、そこから「荻窪」の地名になったとも言われています。
ご本尊の千手観音、五輪塔とも南北朝時代のもので、開創当時は<七堂>を持つ大寺院でしたが中央線、環八の開通によって敷地も分断され現在のたたずまいになっています。<四面道>という交叉点名がその名残とも言われます。所蔵の千手観音と室町期の「夜念仏供養結衆交名板碑」は区指定文化財です。






18.旧青梅街道と天沼陸橋
荻窪4-33


現在、青梅街道は荻窪駅の北側、天沼陸橋でJR線をまたいで上を通っています。この陸橋が完成し青梅街道が現在の場所に施設されたのは、最初の工事から戦争をはさんで昭和30年のことです。それまで旧青梅街道は天沼陸橋の阿佐ヶ谷寄りの二股交叉点を左に入って、現在あるアメックスの前を通り、地下道のあるところ(当時は『大踏み切り』と呼ばれ、大渋滞になっていたところ)で線路を横切り、荻窪駅北口の交番の横を抜けてタウンセブンの前から四面道に行っていました。天沼陸橋によって「開かずの踏み切り」と言われていた踏み切りは地下道になり、人と自転車が荻窪駅東側で線路を越える手段として利用しています。この時に青梅街道は拡張整備され幹線道路としての役割を果たせるようになりました。






17.けやき屋敷(屋敷林)
阿佐ヶ谷北1-6-5


阿佐ヶ谷駅北口の商店街の裏側で、杉並第一小の南側の細い路地に欅の大木と白壁に囲まれた旧相沢睦郎氏の邸宅があります。この欅は東京都の保存林(昭和39年)に指定されています。昔、欅は武蔵野の空っ風を防ぐ為にあちこちに見られたのですが現在は都市化されてほとんど見られなくなりました。大きなものは樹齢四百年余り、高さ36m、太さ4.2mもあります。現在は南側の約20本になってしまいましたが、以前は東側にもにもあり、全部で50本ほど植えられていました。相沢家は旧阿佐ヶ谷村の名主で長屋門・萱葺屋根の母屋・書院・馬房があったそうですが、第二次世界大戦の空襲で家屋・古文書などが全焼してしまい、屋敷林は大正八年に東京府が旧跡指定としました。






16.天桂寺
成田東4-17-14


天桂寺は、江戸時代に田端・成宗村といったこのあたりを所領としていた旗本岡部氏の菩提寺です。墓地の中央に累代の五輪塔(区指定文化財)が並んでいます。また、岡部氏の祖先が源義経の猛将、岡部六弥太忠澄であることから、浮世絵師嶺斎泉里が描いた見事な『六弥太忠澄の武者絵』が寺宝として保存されています。 また、岡部氏は寛永2年(1625)に成宗村を所領として徳川秀忠に与えられた朱印状(区指定文化財)が、区の教育委員会に所蔵されています。岡部氏は所領地の目印として青梅街道に杉を植えたと伝えられており、江戸末期の「江戸近郊絵図類」に『杉並』という記述が見られ、現在の区名、杉並区となったと言われています。






15.杉並区立永福小学校
永福2-16-33


小学校パズル>を作るために、以前写真を撮りに伺った時に校庭の南側に隣接した空き地との境が長い万年塀になっていて、学校の塀はだいたいが金網のところが多いのでちょっとびっくりしたのを覚えています。おそらくここに住んでいた方への配慮と児童の保護安全のためかな、と思っていました。永福小は校庭に大きな樹木が多く塀のあたりは薄暗いように思えました。その殺風景な45mのコンクリート塀に2000年夏休みに子供・父母有志、学校が協力して壁画【空から舞い降りてきた恐竜たち】(指導:SCHOKO佐伯さん、企画:「よのなかNET」藤原和博さん)を完成させました。2000.8.31。朝日、産経新聞掲載。「よのなかNET」さんで掲載中。
画像1 / 2 / 3 / 4 / 5 8/29撮影:「永福町Happy Map」ヒロさん






14.増岡さんの畑
上井草1-18-4


50年地元で農業をされている<増岡さん>が、本業とは別に都会では味わえなくなった「季節」をみごとに見せてくださっています!写真は先日TVでもご紹介された長〜〜いキュウリ(食べられないそうです)ですが、毎年春には「黄小町」「紅輝」など6種類のチューリップ6500本のみごとな絨毯を見せていただけます!きゅうり以外にも大きなひょうたんやトトロの傘にようなお芋の葉、葉鶏頭などがあって、住宅街の一角とは思えません。区立柿の木図書館北側  問い合わせ:п@03-3312-6855






13.高円寺阿波踊り
8月26(前夜祭)27〜28日


1957年、高円寺南商店街の青年部誕生記念として『高円寺ばか踊り』と言われて始められたもので、当初はお囃子はチンドン屋さんに頼んだりテープで流したり程度で、阿佐ヶ谷の七夕祭りに比べてこじんまりとしたものでした。氷川神社の大礼祭の奉納を兼ねた商店街の行事のひとつででしたが1962年TV出演をきっかけに有名になり翌年正式に『高円寺阿波踊り』と改名されました。その後、本場徳島の阿波踊りとの交流もあり年々盛大なお祭りになってきています。出演者も83連8000人(H11)を越え、観客も3日間延べ140万人と言われています。今年2000年は第44回を迎え海外活動にも積極的に取り組んでいるようです。※阿波踊りトピックスはスギナミンDXさん。阿波踊りリアルタイム情報は高円寺ルック商店街さん。画像1 / 2 / 3 / 4  8/28撮影:Kaze






12.ときのオアシスともえぎ公園
天沼3-31


知る区ロードの4つのオアシス<はだしのオアシス・ときのオアシス・はなのオアシス・みみのオアシス>の一つです。知る区ロードというのは、1989年に杉並区内の知って欲しい場所を巡る1周約18kmの2つのルートを設定したもので「にしの輪(わ)」と「ひがしの輪(わ)」があります。<ときのオアシス>は西の輪にある公園でタイムカプセル(2001.8.21開封)が埋められています。またこの公園と繋げて、地域のまちづくり協議会が井戸や防災用品が装備した防災基地と自然生体園を兼ねた<もえぎ公園>を作りました。ブランコなどの遊具は一切なく、を作り多くの種類の植物を植えて、小さいですが自然の生態系を作る試みがなされています。普段は生体園には入れませんが手入れなどの時には入ることが出来ます。天沼三丁目あかるい町会と有志の方が管理しているとっても小さな公園です。






11.馬橋稲荷神社
阿佐ヶ谷南2-4-4


旧馬橋村の鎮守社で、ご祭神は宇迦之魂神(うがのみたまのかみ)と大麻等能豆神(おおあまとのづのかみ)です。このあたりは室町時代から人々が暮しており、神社の創建は鎌倉時代末期と伝えています。天保2年(1831)に氏子53名が京都白川神社の各地の神社を司る役所にご神体と神号の宣下を願い出て、翌年「正一位足穂稲荷大明神」の神号を寄付金7両で拝受した、と記録されています。また、明治に入ってから馬橋の鎮守として御嶽神社、白山神社、北野天神社、弁天社、水神社の五社も一緒に奉るようになりました。昔から多くの人々が参詣していた神社であることがわかります。大きな朱色の鳥居をくぐったところにある石造りの鳥居も大きく、高さ8mもあり昇竜・降竜の彫刻が施されていて東京三鳥居の一つと言われています。さらに参道を進むと都内最大で直径75cmの魔除け開運大鈴が正面の朱の隋神門の天井に吊るされています。※東京三大鳥居ってどこかな by kaze






10.教会通り
天沼3-4


タウンセブン正面の青梅街道を横断してセブンスディ・アドベンチスト天沼教会までの約500mの商店街が教会通りです。H2〜H5.12に改装され、親水性のタイルとステンドグラス様の街灯になりました。また『鐘の鳴る街、教会通り』として、街路灯のスピーカーからウエストミンスター寺院の鐘をイメージした鐘の音が時報を知らせ、BGMが流れています。この通りは、戦中、延焼を防ぐため建物強制疎開命令で一旦広げられたのですが、戦後、元の狭い農道の道幅に戻ってしまいました。杉並区の建築基準で4m必要なところなので残念です。道なりに行くと東京衛生病院、若杉小学校、右方向に行くと「天沼」の地名発祥の地とも言われる弁天池で、現在は水が枯れて弁天様の祠だけが残っています。それまでは<弁天通り>と言われていた通りもこれをきっかけにS.30<教会通り>と改名されました。※教会通り商店街のことはSuginami Indexさん






9.荻窪白山神社
上荻1-21-7


荻窪駅の西口白山通り(旧称、観音通り)をちょっと下ったところです。旧下荻窪村の鎮守さまで御祭神はイザナミノミコトです。上杉顕定の家臣、中田加賀守が奉ったと言われています。ある日、歯痛の加賀守の弟が「社のまえの荻で作った箸で食事をすれば治る」というお告げに従ったところ痛みがなくなりました。これが江戸白山神社の由緒と同じであったことから明治になって「白山神社」と改名されました。昭和43年改築の折に古い社殿の長押(なげし)から、歯痛が治ったお礼に納められた荻の箸がたくさん出てきたそうです。現在は赤ちゃんのお宮参りに<お食い初め>用のお箸をいただけます。ご神体は白山の霊石、大太鼓は都内第二の大きさと言われています。S16.12荻窪駅開設50周年の記念碑と記念樹の欅(けやき)の切り株が境内にあります。※江戸白山神社ってどの白山神社かな





8.阿佐ヶ谷七夕まつり
8月第一土日を中心に5日間

毎年、高円寺の阿波踊りと並んで杉並区では大きな夏のお祭りです。JR阿佐ヶ谷駅南口から青梅街道まで伸びる約700メートルの商店街、パールセンター(正式名称:阿佐谷南商店街新興会)が開催するお祭りで<星祭>と呼ばれます。毎年春に実行委員会が組織され、話題になったものを題材に七夕飾りを作成し、改築されたばかりのパールセンターのアーケードで各商店が出来ばえを競っています。 「パールセンター」という名称はこの商店街で募集された呼び名ですが、現在ではこの呼び方がすっかり馴染み深いものになりました。※七夕リポートはスギナミン-DXさんがお勧め。





7.明治天皇小休所と長屋門
荻窪4-30-16

荻窪駅よりのJR腺から見える高層ビルアメリカン・エクスプレスの敷地南側にいきなり時代風な長屋門と明治天皇小休所跡があります。明治16年埼玉県で行われた近衛師団視察と小金井公園のお花見の際の2回休憩されたと言われています。
並んで江戸時代に建てられた武家屋敷風の長屋門は第11代将軍家斉が寛政年間に鷹狩の際、農家に特別に武家長屋門を作らせたと言われています。
どちらも旧下荻窪村の中田家のものでビル建築と同時に移動復元されました。 写真でもわかるように一般の人が通り抜けることができ近道になっています。





6.妙法寺参道口金燈篭
和田3-54

妙法寺の旧参道の青梅街道に面した入り口に参道標識として明治36年に大灯篭が立てられました。S43年に青銅に改鋳され、関東大震災倒壊後再び改鋳されました。高さ約5.6mは区内最大の金灯篭として区文化財に指定されています。
また、この灯篭の裏に農林省蚕糸試験場(明治44〜昭和54)があり、蚕、桑、絹糸の実験研究所として数多くの業績を残しました。現在試験場は筑波学園都市に移転し、その跡地約4万平mの2/3が蚕糸の森公園、残りを区立杉並第十小学校及び、災害備蓄倉庫として区民の為に使用されています。





5.荻 荻窪駅中央線線路脇

荻窪という地名の由来は、このあたりが武蔵野丘陵として善福寺池、井の頭池(武蔵野市)、三宝寺池(練馬区)などと多くの湧水や川や湿地があり、葦や荻がたくさん自生していたためといわれています。現在、荻はこの荻窪駅の構内荻窪税務署の敷地内と、昔、荻を刈って作ったお堂だったといわれている光明院など区内数カ所で栽培されているだけになっています。





4.井草八幡 七五三参り
善福寺1-33-1

青梅街道に面した東参道に大鳥居、北参道に大燈篭があり、約一万坪の境内は区内では大宮八幡宮と並ぶ古大社です。旧上・下井草村の鎮守さまで、建久年間(1190〜98)源頼朝が奥州藤原氏を征伐して凱旋のの時に創建したと伝えられれ、また文明9年(1477)大田道灌が石神井城の豊島氏攻略の戦勝を祈願したとも伝えられます。3年ごとの神輿渡御、5年ごとの流鏑馬神事が有名です。また、神社に奉納される井草囃子は五人囃子で、幕末に阿佐ヶ谷から伝わったもので現在、区登録無形民族文化財とされています。




3.太田黒公園 樹齢80年銀杏
荻窪3-33-12

区内で唯一、日本庭園の趣向を凝らした公園です。音楽評論家<大田黒元雄>氏(1893〜1979)の屋敷後を『庭園の30%の土地は公園にして欲しい』と言う氏の遺志によって寄付されたものを、杉並区が日本庭園として整備し、昭和56年10月1日に開園したものです。できるかぎり原形を保存し、従来からあった池を再現してあります。ヒノキの歌舞伎門をくぐると銀杏並木・ケヤキ・アカマツ・シイノキ・などの巨木が生い茂っています。また、数奇屋作りの茶室、休憩所、氏が仕事部屋として使っていたレンガ色のアトリエが保存されています。紅葉の銀杏 / もみじ
【太田黒元雄】NHKラジオの人気番組『話の泉』(昭和21〜39年)の解答者として活躍。著作:『歌劇大観』『歌劇大辞典』『バッハよりシェーンベルヒ』『はいから紳士兵譚』など。紫綬褒章(S39)勲三等瑞宝章(S42)文化功労者(S52)




2.神田川 永福町あたり

全長7.7kmの神田川の流域のうち、区内久我山3〜方南2の神田川は両側に整備された遊歩道でほぼ全域散歩することかできます。井の頭池を水源として、区内を流れる善福寺川妙少寺川といっしょになって、中央区両国橋付近で隅田川に合流します。天正18年(1590)徳川家康が大久保主水に命じ、小石川目白台下に堰を作って上水道としました。神田上水、小石川上水とも呼ばれ江戸時代で最も古く、玉川上水と共に江戸のニ大上水です。明治34年まで農業用水として区内流域の水田地帯を潤していました。




1.観泉寺 今川2-16-1

今川氏の菩提寺とされ、12代〜23代までのお墓が設けられています。 お寺の多い区内でも一番緑が多いお寺と言われ、鐘楼堂や竹林がいかにも禅寺の落ち付いた雰囲気です。江戸時代井草村といわれたこのあたりは、織田信長に滅ぼされた今川義元の子孫今川直房の領地で、以前は下井草村にあった観音寺をここに移したものです。観泉寺は今川氏の役宅で寺に宿泊して上・下井草村、上・下鷺宮村、中村の検見や年貢取り立てをしていました。再築された本堂は区内最古の大型木造建造物です。


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参考文献及び参考資料
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