First update:2000.7



風の暮す街…杉並百点 Vol.2


Vol.1(No.1〜20)はこちらから  Vol.3(No.41〜60)はこちらから


+++ 300万画素 kyocera デジタルカメラ ノーマルモード 撮影:kaze+++

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33.みみ(耳)のオアシス
宮前2-12


平成3年に建築家六角鬼丈氏とサウンドスケープ・デザイナーの鳥越けいこ氏の 共同企画で作成された公園です。 知る区ロードの4つのオアシス(とき「時」<杉並百点12参照>・みみ「耳」・はだし「裸足」・はな「鼻」のオアシス)の内の一つで、 竹林と風が奏でる自然の音を拡音器で聞く耳が7個あります。 どれも身体の一部を使って拡音器に耳を近づけるように設置されています。 身体の一部分を不自由な状態にすると聴覚は研ぎ澄まされるのだそうで、 どの器具も登ったりしゃがんだりしないと聴けないようになっています。 写真のブルーの器具が拡音器で階段を数段上ってから少しかがんで耳を挟むようになっています。 これらの拡音器は宮前中学校の裏手の公園の竹林の中にあって、 以前行った時にちょうど竹林の枝払いをしていました。公園管理も大変そうです。
<杉並百点>では「ときのオアシス」「みみのオアシス」の 二つご紹介できました。残りの二つもいつか行ってみますね。 あ、気がつかれましたか?33点目なので「みみ」なのです(笑)kaze  






32.中央線横断環八地下歩道
荻窪5-15


荻窪駅西口を出て環八に突き当たったところでJR中央線をくぐる地下歩道です。 2004.3.18に都市開発計画の一つとして整備され緩やかな階段とスロープになります。2004.2現在、この急な階段はすでに取り壊されていて見ることはできません。写真は1999年3月22日にお散歩途中で撮影したものなので、ほぼ5年前。当時、初めてくぐった私はとてもビックリしたのでした。その時のお散歩の様子はこちらをご覧下さい。ページ内にある赤い手すりの階段も2004.2現在工事中で、たぶんバリヤフリーのスロープになると思います。
新しくなったらまたご紹介しますね。by kaze






31.気象神社
高円寺南4-44-19


『気象神社由緒(画像:こちら
御祭神 八意志兼令「やごころおもいかねのみこと」(知恵の神)
この気象神社は昭和13年、陸軍気象勤務の統括、教育機関として 旧馬橋4丁目(現高円寺北4丁目)に創設された陸軍気象部の構内に 昭和19年4月10日造営、奉祀されたが、翌昭和20年4月13日空襲に 因り焼失。当社殿に終戦直前に急遽再建されたものである。 太平洋戦争終戦に当たり神道指令に拠り除去される筈の処 当局の調査漏れのため残存しており連合軍宗教調査局に 申請して払い下げを受け当所に移設。昭和23年9月18日 当氷川神社大祭に際し○○○を○行、奉祀して現在に 至ったもので爾来毎年6月1日の気象記念日に例祭が 執行されていいる。 平成7年1月吉日 寄贈』
現在は<気象予報士>試験の合格祈願に参詣される方が多いそうですよ。戦いの世界に戻りませんように。祈願☆。

境内に立ててある<由緒>が古くなっているのと、 画像が不鮮明でちゃんとした内容がわかりません(^-^;機会があったらまた行って見てきますね。すみません。by kaze






30.千歳の松(千寿の松)
阿佐ヶ谷南1-12-1
(合資)苅田商店


青梅街道に面したビルの間に何の説明も立て札もなく立派な松があります。この黒松は苅田家所有(昭和2年より)のもので、根の形状によると通常の黒松ではなく盆栽が大きくなったもので、樹齢はおそらく400年以上と推定される古木なのだそうです。枝はうねり、中が空洞になってしまっていて樹木医の先生も難しいとおっしゃっているそうです。青梅街道から拝見した時より、松の樹の下に行ってみると抱えることができない幹の太さで、その大きさを写真でもお伝えできないのが残念です。また、2000年の苅田ビル建設の際の水平移転(西方向へ4m)を初め、移植後の樹木保存管理すべてを苅田さん個人でされていると伺ってそのことにも大変驚きました。

この黒松は江戸時代初期、青梅街道(幅約6.5mで現在の半分)が整備された時の休息所(お茶屋とも蕎麦屋ともいわれている)の裏手にあり、通行人が一里塚として木陰で疲れを癒したそうです。風水学によっても黒松の下を通り、家の玄関に入る人は寿命が延びると言われているそうです。また夜間にこの前を通ると輝いて見えることがあるそうで、樹木は生き物なので何か不思議な力があるのかもしれませんね。

ビル建設以前は松の西側にお稲荷さんの祠があり、「千歳の松」と一対で地元信仰を集めていたと考えられます。お稲荷さんは現在は苅田ビルの9階に祀られています。【内容は苅田敏弘さんの承諾を得て<すずらんの箱庭>さんから一部転載させていただきました】
--後日追記予定 2003.9.10 kaze--






29.妙正寺体育館の御衣黄桜
清水3-20-12


Photo
黄緑色から桜色に変わる珍しい桜です。
コメントは後日記載予定。by kaze






28.荻窪税務署の鬱金桜
天沼3-19-14


地図(東京都国税局より)
鬱金(ウコン)の色のような黄色い桜です。
コメントは後日記載予定。by kaze






27.環状7号地下調節池
和泉4〜環七地下


神田川環状七号地下調節池は、水害が頻発する神田川の中流域に計画された「環七地下河川」 (環七地下に白子川を上流先端として石神井川、神田川、目黒川、善福寺川、妙正寺川など 10河川の洪水を合流させ東京湾にポンプで排出する総延長30kmの地下河川計画)の一部分として整備された調節池です。 地下調節池建設事業は神田川から善福寺川を経て、妙正寺川までが計画されていますが 2003年2月現在、延長4.5km、内径12.5m、神田川及び善福寺川の洪水約54万立方mを貯留できます。 環七の地下42mに巨大なトンネルがあって、洪水の時はほぼ満杯になることもあるそうです。地下6階まで階段が220段以上ありました。内径12mというと東京湾アクアラインとほぼ同じで底に立ってみると唖然としました。
第一期事業は昭和62年度着手、平成8年度完成。第二期事業は平成2年度着手、平成14年度現在善福寺川取水施設の建設と妙正寺発進立杭工事並びにトンネル工事。【東京都建設局河川部改修課・東京都第三建設事務所工事第二課】
参考資料:「新しい治水コンセプトとしての<環七地下河川>構想」by Kubota






26.美人横丁(天沼八幡通り)
天沼3-1


『荻窪風土記』の作者井伏鱒二さんによると、荻窪八幡通りは戦前、通称美人横丁と呼ばれれいたらしいです。そのころ天沼八幡神社の裏手あたりは軍人住宅が多く、美人の奥さんやお嬢さんが駅までここを通り、三越などに買物に出かけていたせいではないかということです。現在は、駅から徒歩数分のところなので、旧天沼出張所・都営住宅・一般住宅マンションなどになっています。また、青梅街道から八幡通りに抜ける短いカギ型の商店街は寿通りと呼ばれていています。商店街の角の<つるかめ>や100円ショップの入っている荻窪勧業ビルの場所に、大正11年に営業を開始した杉並区で最初の銭湯<寿湯>があったことから、その名前から付けられました。現在は<グリーンロードことぶき>と呼ばれていますが寿湯は残念なことに現存しません。






25.かるた資料館
永福4-32-22


村井かるた資料館は村井省三さんの個人の収集によるもので、 研究者や愛好家からの要請で昭和58年に自宅の一部を改造して作られた、日本で最初、世界で3番目のかるた専門の資料館です。事前にアポイントメントを取ってうかがうと、かるたの歴史や移り変わり、禁令や地方札(各地独特のかるた)などについてお話を聞く事ができます。住宅街の普通のお宅なので見つけるのがちょっと大変かもしれません。地図、携帯電話を持ちになるとよいと思います。
コレクション数:約2000点
入館料:小学生以下200円・一般400円
休館日:月曜日(不定期の場合があるので電話で要確認)
開館時間:10:30〜17:30
電話:3322-1408






24.天沼山蓮華寺
本天沼2-17-8


がきれいな真言宗室生寺派のお寺です。ご本尊は如意輪観音で、開山は不明ですが墓石や過去帳などから室町時代と伝えられています。寺内には昭和19年より山形県の漁村出典といわれる厄除け不動尊が安置されています。村政・貢祖関係を記した所蔵文書544点は区の文化財に指定されています。
蓮華寺はまた、明治19年義務教育制導入にともない生徒数が増える続ける桃野学校(現杉並第一小:明治17年創立)の分教場(尋常小学校)として大正6年に開校されました。敷地内に分教場跡を印す石碑が建てられています。ちなみに大正13年当時、義務教育1〜4年生の人数は169人、授業料は一ヶ月30銭でした。には鯉が泳ぎ、数多くの草木が植えられています。






23. K・AVE
清水1-15より撮影


杉並区を横断する青梅街道は四面道で環状八号線と交叉点し、清水1丁目、桃井1丁目、上荻1、2丁目を分けています。この青梅街道は昭和8年に新宿から高円寺蚕糸試験場までが幅25mに拡張舗装され、昭和19年に四面道まで完成しました。そしてすでに改修済みであった四面道以西と接続され、天沼陸橋と荻窪駅の開かずの踏み切りを通る旧青梅街道部分を除いて、ほぼ現在の形になりました。
戦後しばらく東京の道路は進駐してきたアメリカ軍が解りやすいようにつけた名称で呼ばれていて、皇居を中心に放射状道路をアルファベット、環状道路を数字で表していました。その時青梅街道は"K"で表されていて、当時は四面道の交叉点に"K・AVE"の道路標識がありました。アルファベットの名称は残りませんでしたが環状道路のナンバーは残り、環状八号線として現在も四面道で交叉しています。※【18.天沼陸橋】【19.光明院】を参照してください。






22.玉川上水烏山分水口
久我山1-6


玉川上水は江戸時代(1654年)庄右衛門、清右衛門兄弟が突貫工事で完成させた水路です。上水は水を江戸市中に供給する為に作られたもので、多摩川の水を西多摩郡羽村で取水し、杉並区の南端を通り内藤新宿までは開水路、そこからは四谷までで暗渠となって全長48kmに達します。写真は岩崎橋から見た分水口跡ですが、両岸に樹木が生い茂りかつての面影が残り季節を感じさせてくれます。現在区内ではNHKグラウンド南の浅間橋から上流1.4kmを残し、下流は和泉1丁目まで公園などになっています。庄右衛門、清右衛門兄弟はその功績で江戸幕府から<玉川>姓をもらい「玉川上水」と名づけられたそうです。この時代に江戸は世界的に見ても上水道が整備された都市で、土木工事技術も優れていたことがわかります。






21.新堀用水開削跡と須賀神社
成田東5-29-3


新堀用水(荻窪3〜阿佐ヶ谷南1)は天保11年(1840)に完成した、区内で最も古いトンネル式灌漑用水路です。この用水は善福寺川から馬橋・高円寺・中野の三ケ村へ分水され、水路は田端神社裏から共立女子大学寮東わき、成宗弁天池、馬橋への2.5km。地下4m、高さ1.2m、幅1.2mのトンネル方式でした。現在はすべて埋め尽され、須賀神社西側の弁財天前に開削部分の一部が残るだけとなりました。
須賀神社は旧成宗村の鎮守さまで、御祭神はスサノウのみこと。天慶4年(941)創建。出雲の飯石郡の須賀神社にちなんでつけらたと言われています。例祭日は9月第一日曜日。



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参考文献及び参考資料
杉並区指定登録文化財一覧表|杉並区郷土博物館資料|すぎなみの散歩道
荻窪百点|神社仏閣資料|公園案内|東京人|るるぶ|のびゆく杉並|他


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